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営業部を通り過ぎ、特別開発課に入る途中で、課長が我慢できないかのように低い声を絞り出した。
「俺に嘘までついて、他の男とデートに行きたかったのか」
「ち、ちがうんです、これには」
「どんなわけがあるって言うんだ?」
振り返った課長の顔は―――今まで見たことがない、ってくらいに怒りをにじませた表情をしていた。
でも、不思議とわたしは怖いと思わなかった。
その表情には、どこか傷ついたような悲しみも宿っていたから。
どうしよう…でも、嘘をついた本当の理由は言えない。
「今のやつなに?」
「なにって営業部の」
「そうじゃなくて。さっきって明らかにモーションかけられてたよね。迂闊だったな、キミ、予想以上に早く目を付けられてるね」
「目?そんな、わたしなんて」
「もうそういうこと言うの禁止。キミはもうすこしいろんなこと自覚した方がいい」
課長の部屋にたどりついて、がちゃり、とサムターンキーが回される。
いつものようにふたりっきりの部屋。
でも今日は、いつものような安らぎは全く感じない。
ほう、と課長が息をついた。
「俺と確認した雇用条件、忘れたとは言わせないよ。いつどんな時も俺の言うことをきくこと。俺の思い通りになること、俺に尽くすこと…」
「わたし、課長の召使じゃありません…」
「雇用」だなんて…そんな冷たい言葉で縛られたくない。
だって、わたしはあなたのことが…。
だから…。
「お願いです…。もうこんな関係「解除」してください…」
「…」
「こんなこともうやめてください…。もう嫌です」
本気の恋じゃないのに、まるで恋人のように扱われたってつらいだけ。
これ以上みじめな思いはしたくない…。
「課長には感謝しています。総務部でダメな子扱いされて落ち込んでいたのを引っぱってくれたのは課長です。今は自信がついて、もっとがんばろうって思えるようになった。感謝してもしきれないくらいなんです。だから、もうわたし課長のサポートはいりません。独りで頑張ってみます。だから…」
「だめだ」
やっぱり、課長の言葉ははっきりとしていた。
「なにを自己満足しているわけ?俺に感謝してる?それなら、もっと俺に尽くすべきなんじゃないの?」
にじり寄ってくる課長…。
思わず後ずさるわたしだったけれど…
踵が当たった。
もう後ろは壁だった。
課長の左手が、乱暴にわたしの横についた。
「そばにいろ。いなきゃだめだ。これからも、ずっと、ずっと…」
近付いて来る、悲しげな顔を縋るように見つめた。
「どうして…どうしてこんなにも…」
「わかんないの?いい加減むかつくんだよ」
「…」
「好きだからだよ」
「…」
「本当にただのお手伝いさんとしか思ってるの?あんまり天然なのも困るよ…。ただのお手伝いさんに合鍵なんてわたさない。ましてや秘密なんて明かさない」
あごに手を置かれ無理矢理上を向かされた。
びりと緊張がはしり、胸が甘く疼く。
怒りを含んだキャラメル色の瞳はいつもよりずっと濃厚で甘くて蕩けそうになる。
苦しい。
もう息もできない。
わたしの唇を物欲しそうに見つめて、課長は呟くように言った。
「言っただろ。この関係は終わらせない。キミを簡単に手放したりなんかしない。この関係はキミが俺のことを好きにならないと終わらないんだ」
「好きになんか、なりません」
涙をこらえながら、わたしは訴えた。
「課長を好きになるなんて、絶対にありません…」
「嘘つき。じゃあ、どうしてそんな顔してるの。そんなキスしてほしくてたまらないって顔…」
「や…」
背けようとしても無駄だった。
腰に強く腕を回され、顎を持ち上げられ、微動だにできないまま、唇を塞がれた。
それは、初めて重ねられた時とは比べ物にならないほど激しくて、甘くて―――理性もなにもかもが蕩けそうになる。
でも、強く溶け残ろうとする恐怖に突き動かされ、わたしは喘ぐように漏らした。
「こんなのいや…。他に女の人がいるってわかってるのに…好きになるなんていや…」
「なに…?」
「わたしは…一体何番目のカノジョですか…?知ってるんですよ。この部屋に他に女の人がきているこ」
「俺を見くびるな」
低い声に遮られ、言葉をつまらせた。
「今までずっと、俺をそんな風に見てきたの?」
その低い声は、純粋な怒りの象徴だった。
「たしかに、キミに出会う前は好き勝手やっていて、いい加減な男だった。女なんてどれも同じだと思っていた。
…でもキミに出会って変わったんだ。変わってしまったんだ。
こんなに夢中になったのはキミだけなんだ…」
「…」
「なのにキミは、ある日突然現れて俺の毎日を壊して俺を変えた挙句に…ゲス扱いか?…俺をこんなにさらけ出させといて、抱いた気持ちは、疑いの気持ちだけなのか?」
「ちがいます…!そうじゃない」
課長は勝手で子供みたいなところがあって、マイペースで、意地悪だったけれど、でもやさしくて…。
いつもいつも、わたしを大切に接してくれた。
ひどい人だなんて、いつしか思いもしなくなっていた。
「信じて…いいんですか…」
やさしく、けれども強く強く抱き締められて、わたしはなにも考えられなくなって、ただその請うように染みるこんでくる温もりに溶けた。
それは
『帰さない…』
と鍋パーティーの夜に抱き締められた温もりと同じ強さだった。
わたしを強く求める、愛に飢えた孤独な人の想いだった…。