テラーノベル
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階段の一件のあと、学校の空気は目に見えないくらいの幅でズレていた。
昨日までと何も変わらないようで、同じではない。
廊下を歩けば視線は感じるし、教室へ入れば会話が一瞬だけ揺れる。
けれどそれは、以前のような一方的な悪意ではなかった。
もっと曖昧だ。
もっと居心地が悪い。
そして、その居心地の悪さは俺にだけ向いているわけではなかった。
自分の席につくと、斜め後ろから小さな声が聞こえた。
「でも、押したの見た人いないんでしょ?」
「そうだけど……」
「じゃあ、本当に違うのかも」
ひそひそ声は、俺に聞かせたいのか隠したいのか分からない程度の大きさだった。
以前ならそこにすぐ別の声が重なっていたはずだ。
――でも九条乃亜だし。
――瑠亜君が可哀想。
――また兄の方でしょ。
けれど今日は、その“いつもの結論”が少し遅い。
「おはよう」
花宮澪が教室に入ってきて、鞄を置きながら軽く俺を見た。
視線が合う。
一瞬だけ迷うような間があって、それから彼女は普通に席へ向かった。
その普通が、妙に珍しかった。
朝比奈湊も、朝のホームルーム前にプリントを配りながら俺の机へ来た時、前みたいな監視めいた目をしていなかった。
「九条、一応言っておくな」
「おう」
「昨日の事で周り少し変にざわついてる。だから余計なことには乗るな」
「俺が乗ると思ってるのか?」
「前よりは思ってないが、一応な」
その返しに、少しだけ目を細める。
朝比奈は言ったあとで自分でも驚いたらしく、気まずそうに咳払いした。
「……とにかく、面倒を増やすな」
「それはこっちの台詞だ」
会話はそこで終わる。
けれど、以前なら絶対に成立しなかったやり取りだ。
昼休みになると、変化はさらに分かりやすくなった。
瑠亜はいつものように人に囲まれていた。
膝の包帯も、肘の処置跡も、見た目だけなら十分に痛々しい。
白石なんかは露骨に心配そうな顔をしているし、西園寺も気遣うふりを崩していない。
だが、ほんの少しだけ熱が違った。
「瑠亜君、大丈夫?」
「うん、平気。僕がちょっと足を滑らせただけだから」
その言い方は完璧だった。
兄を責めない、優しい弟。
自分が悪かったように見せながら、結果として周囲の“兄が悪いのでは”を補強する話し方。
多分、今までなら、それで十分だった。
でも今回は違う。
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何人かが、そこで素直に頷けていない。
「でも、怖かったよね……」
「そりゃまあ」
「久城君、何かしたのかなって一瞬思っちゃった」
その言葉に、瑠亜の笑みがほんの一瞬だけ止まった。
すぐに元へ戻ったが、見逃さなかった。
「兄さんは……その、最近ちょっと変だから」
瑠亜は柔らかく言う。
その言葉自体は今までと同じだ。
けれど今日は、その“変”がそのまま“加害”へ繋がらない。
「でも、押したって決まったわけじゃないんだよね?」
「朝比奈君も見てないって言ってたし」
「花宮さんも、反応が変じゃなかったって……」
小さな声の断片が混ざる。
たいした事じゃない。
けれど瑠亜にとっては、たぶん充分に不快だ。
完璧な被害者でいられない。
兄を悪者にしきれない。
それだけで、あいつの立場には確実に小さな傷がつく。
俺はその光景を窓際から横目で見ながら、内心で静かに息を吐いた。
「フフっ……」
同時に、ちょっとだけ笑ってしまった。
ざまぁみろとも思ってしまった。
勝ったわけじゃない。
それでも、今まで通りではない。
乃亜を踏みつけるための空気が、少しだけ軋み始めている。
放課後、教室を出ると、人気の少ない廊下の先に瑠亜が立っていた。
昨日ほど露骨ではない。けれど明らかに待っている。
仕方なく足を止めた。
「何だ」
「……兄さん、最近すごいよね」
最初の言葉がそれだったので、少しだけ意外だった。
「何が」
「崩れなくなった」
瑠亜は笑っている。
だが、目は少しも笑っていない。
「前はもっと簡単だったのに」
「そうか」
「うん。もっと、やりやすかった」
そこまで言って、自分でも言いすぎたと思ったのか、瑠亜は少しだけ首を傾げた。
それから、ふっと声音を変える。
「……でも、一応お礼は言っておく」
思わず眉を寄せた。
「何の話だ」
「昨日の事……保健室まで運んでくれた」
瑠亜はそう言って、少しだけ笑う。
礼を言っているはずなのに、その響きは妙に薄い。
感謝というより、確認に近かった。
「……ありがとう、兄さん」
「……」
「正直、あれは予想外だった」
やはりそうか。
俺が階段の上で取り乱すか、必死に言い訳するか、そのどちらかを想定していたのだろう。
まさかそのまま抱き上げて運ぶとは思っていなかった。
だから今、こうしてわざわざ口にしている。
「助かったよ」
その言葉に、俺は何も返さない。
助かった、というより調子が狂った、の間違いだろう。
瑠亜もそれを分かっているのか、すぐに笑みを引っ込めた。
「……兄さん、昨日のこと、誰かに言った?」
「何を」
「僕がわざと落ちたとか、そういうの」
聞き方が雑だなと感じた。
それだけ今の瑠亜には余裕がないのだろう。
「それは言ってない」
「じゃあ、なんで」
「お前のやり方が雑だったからだ」
瑠亜の表情がわずかに歪む。
「見てる人間が増えた。前みたいに空気だけで押し切れると思うな」
「……兄さんのくせに」
「それをやめろ」
少しだけ低く言うと、瑠亜は黙った。
「“兄さんのくせに”で全部片づけようとするな」
「……」
「乃亜は、お前が思ってるよりずっと前から壊れかけてた」
言ってから、自分の中にある冷たさを自覚する。
これは怒りだ。
俺自身へのものではなく、乃亜をここまで追い込んだもの全てに向けた怒り。
瑠亜はそれを正面から受けて、数秒だけ言葉を失った。
「でも――」
やがて、小さく笑う。
「兄さんって、結局どこまで行っても兄さんだよ」
「……何が言いたい?」
「自分だけ変わったつもりでも、ちゃんと戻ってくると思ってる」
その思い込みが、あまりにも気持ち悪かった。
俺は答えなかった。
ただ、瑠亜の横を通り過ぎる。
「待ってよ」
呼び止める声。
だが足は止めない。
「兄さん」
もう一度呼ばれて、今度は少しだけ振り返った。
瑠亜は静かに笑っていた。
甘い声音のまま、底だけ冷えている。
「僕の知らないところで、勝手に立ち直らないでよ」
それが本音だったのだろう。
兄が自分の知らない場所を持つこと。
兄が家や学校以外で息をつけること。
兄がもう以前みたいに削れ切った顔をしなくなること。
――その全部が許せない。
「……もう遅い、遅いんだよ」
俺は短く返した。
「”乃亜”はもう、お前だけの都合で壊れる場所にはいないから」
瑠亜の顔から、ようやく笑みが落ちた。
十分だ。
今はこれでいい。
俺はそのまま校舎を出た。
追ってくる足音はない。背中に視線だけが刺さる。
だが、それも以前ほどの重さはない。
完全に無視できるほどではないにしても、進むのを止めるほどでもなかった。
学校の外へ出ると、スマホが小さく震える。
リゼットからの通知だった。
――中ボス級ダンジョン候補の優先順位、最終確定しました。
画面を見て、ほんの少しだけ口元が緩む。
学校で起きることは、今はここまでで十分だ。
小さなひびは入った。
瑠亜にも、周囲にも。
あとは次の段階へ進むだけだ。
ダンジョンーー中ボス級。
その先にあるものへ向かう方が、今の俺にはずっと重要だった。
コメント
1件
第27話、読み終えたよ〜〜!!😭💕 「静かに崩れはじめる」ってタイトルがもうエモすぎるんだけど!? 学校の空気が“ズレてる”感じ、すごくリアルに伝わってきた。前は一方的な悪意だったのが、今は曖昧な居心地悪さに変わってるの、細かい描写が上手すぎる〜。 瑠亜の「僕の知らないところで、勝手に立ち直らないでよ」はマジでゾッとした……弟の執着ヤバすぎ。でも乃亜くんが「もう遅い」って返したところ、胸がスッとしたよ。良かったね、少しずつでも変わり始めてる✨ 次の段階(ダンジョン)も気になるし、学校の空気がどう動くか楽しみにしてるよ〜!頑張って、aohana先生!🌸