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翌朝、封筒は、室長の机の上から消えていた。
代わりに、室長の目が変わっていた。
「おはようございます」
私が挨拶をすると、室長は、タブレットから顔を上げずに、うなずいただけだった。
いつもなら、手帳を開いて、今日の予定を読み上げる。今朝は、それがなかった。
昼の十二時四十分。弁当を取りに出ようとした私の前に、室長が立った。
「本日から、監査の資料は、私の許可なく持ち出さないでください」
「……はい」
「江藤部長と話すときは、必ず私が同席します。瀬名さん一人で、部長と話すことは控えてください」
一本の線。
室長の目は、もう、私を測ってはいない。
測り終えた人の目だった。
資金繰り表を「正確でした」と言ったときの目も、「あなたには、それも見えるのですね」と言ったときの目も、どこにもなかった。
警戒ではない。
敵を見る目だった。
日本橋の監査の部屋でも、それは同じだった。
午後、私が戻ると、私の机が、資料の箱の並ぶ壁際から、扉の横へ移されていた。
「瀬名さんの席は、本日からこちらです」
室長は、それだけ言った。
会計士の二人が、気まずそうに、自分の手元の帳簿に目を落とした。
扉の横の席からは、箱の側面に書かれた中身の字が、もう読めなかった。
*
正月の休みが明けても、室長の目は戻らなかった。
仕事始めから三日目の昼、まどかが、受付のカウンターの奥から私を手招きした。
「ねえ、灯。柏木さんに、何かした?」
「何も」
「だよね。灯が何かできるわけないよね」
まどかは、カウンターに身を乗り出して、声を落とした。
「人事の子から聞いたの。柏木さんが、灯のことを照会してるって。派遣会社の登録の情報。大学の在籍の記録。それと」
まどかは、一度、言葉を切った。
「お母さんの、旧姓」
指先が、冷たくなった。
母の旧姓は、瀬名だ。それを調べる人は、その前の名前を知りたい人だけだ。
「……そう」
「そう、って。灯って、ずっと瀬名でしょ。お母さんの旧姓なんか調べて、柏木さん、どうすんの」
「わからない」
眼鏡のつるに、指が伸びかけた。私は、その手をカウンターの上に置いた。
まどかは、私の手をちらりと見て、何も言わなかった。
代わりに、カウンターの下から個包装のチョコレートを一つ出して、私の手のひらに押しつけた。
「糖分。顔、真っ白だよ」
*
その日の夕方、内線が鳴った。
『瀬名さん。少し、お茶でもどうかな』
副社長だった。
四十二階の副社長室は、社長室よりも狭くて、明るかった。窓際に鉢植えの観葉植物があって、応接テーブルの上で、和菓子の箱が開いていた。
副社長は、いつものカーディガン姿で、自分で急須からお茶を注いだ。
「寒いね。どうぞ、楽にして」
扉の横の机で、副社長秘書の三上さんが、書類の端をそろえていた。四十代の後半くらいの、髪をきっちりと一つにまとめた人。耳に、小さな真珠のピアス。
私と目が合うと、口元だけで会釈をした。
副社長がお茶を注いでいる間に、三上さんは立ち上がり、副社長の手元に一枚の付箋を置いた。副社長はそれにちらりと目を落とし、何も言わずに、裏返した。
「柏木くんがね」
副社長は、湯飲みを両手で包んだ。
「君のことを、色々と調べているようだね」
私は、副社長の顔を見ていた。
丸い眼鏡。柔らかい銀髪。少し丸まった背中。
三秒。四秒。
一本の線。
「彼は真面目な男だから、心配が過ぎることもある。悪く思わないでやってほしい」
副社長は、和菓子を一つ、私の前の小皿に載せた。
「お母さんの具合は、どうだい。手術は、うまくいったそうだね」
「……どうして、母のことを」
「怜くんが、病院のことで手を尽くしているのは、聞いているよ。私も家族だからね」
一本の線。
母の病室の手配は、社長と私と、病院の人しか知らないはずだった。
副社長の目尻に、皺が寄った。
「困ったことがあったら、いつでも言いなさい。私でよければ、力になるよ」
一本の線だった。最初から、最後まで。
この人は、今日も、一つも嘘をつかなかった。
それなのに、エレベーターに乗ってから、私は、副社長室で何を話したのかを思い出そうとしていた。
柏木くんが調べている。心配性だ。力になる。
どうして副社長が、柏木室長の照会のことを知っているのか。その一番大事なことを、私は、聞きそびれていた。
お茶の温かさと、和菓子の甘さだけが、舌の上に残っていた。
*
夜の八時。
四十三階に戻ると、柏木室長の席には誰もいなかった。
机の上は、いつもどおり片づいている。
ただ、書類の山の一番下から、白い封筒の角が、一センチだけのぞいていた。
あの夜の封筒だ。
宛名の最初の数文字だけが、見えていた。社長室長。
近づいてはいけない、と思った。
それでも、決裁箱に書類を戻すふりをして、机の横に立った。
封筒には、触らなかった。
見たのは、字だけだった。
ペンの線が、右へ行くほど、少しずつ上がっていく。横画の終わりが、どれも、はねるように持ち上がっている。
右上がりの、癖のある字。
この字を、私は、見たことがある。
どこで。
社長室には、毎日、何十枚もの紙が回ってくる。稟議書。決裁の伺い。役員会の資料。会食の礼状。手書きの字は、どこにでもある。
思い出せなかった。
喉に刺さった小骨のように、その字の形だけが、引っかかって残った。
室長の机の上で、その一センチの白さだけが、やけに目についた。
*
その夜、客間で眠れずにいると、リビングのほうから、ガラス戸の開く音がした。
出ていくと、社長が、ベランダの手すりの前に立っていた。
一月の夜気が、部屋の中まで流れ込んでくる。
社長は振り向いて、手に持っていたマグカップの一つを、私に差し出した。
湯気が立っていた。温めた牛乳に、蜂蜜の匂い。
「眠れないんだろう」
「……どうして、わかるんですか」
「客間の明かりが、二時間消えていない」
受け取ると、指先がじんと痛んだ。それくらい、手が冷えていた。
二人で、手すりの前に並んだ。目黒川の向こうの暗いビルの窓が、ところどころ光っていた。
「柏木と、何かあったか」
「……いいえ」
眼鏡のつるに、指が伸びた。今度は、止められなかった。
社長は、私の指を見ていた。それから、川のほうに目を戻した。
「何かあったら、私に言え」
白い息が、夜の中に溶けた。
少しの間があった。
「……私にだけ、言え」
マグカップの縁に、唇をつけた。甘かった。
社長の横顔は、やはり、砂嵐のままだ。
けれど、二時間、客間の明かりを見ていて、マグカップを二つ持ってベランダに出てきた人の横顔だった。
言えたら、どんなに楽だろう、と思った。
柏木室長が、母の旧姓を調べていること。その理由に、私には心当たりがあること。
言えなかった。
言えば、なぜ心当たりがあるのかを、話さなければならない。父の名前から、全部を。
マグカップの湯気で、眼鏡が白く曇った。私は、曇ったままにしておいた。
曇っていれば、隣の人の横顔を、見なくて済んだ。
社長は、私が飲み終えるまで、何も言わずにそこに立っていた。空になったマグカップを私の手から取り上げて、「寝ろ」とだけ言った。
*
翌日の夕方。
日本橋の監査の部屋を出ると、廊下の突き当たり、非常階段の扉の前に、人が立っていた。
痩せた体。きっちりと分けた、白髪まじりの髪。
江藤部長だった。
柏木室長は、会計士たちと一緒に、本社へ戻ったばかりだった。廊下には、私と部長しかいない。
部長は、周りを一度見回してから、私に向かって、深く頭を下げた。
「瀬名さん」
声が、かすれていた。
「二人だけで、話せませんか」
#契約結婚
草原草原

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草原草原

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コメント
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第35話、読みました…🥀 封筒の行方から始まって、柏木室長の“測り終えた人の目”が本当に怖かったです。もう敵を見る目に変わってるんですよね。 あと、副社長の「困ったことがあったら言いなさい」って言葉、一言一句間違ってないのに、全部が罠みたいに感じられてぞっとしました。お母さんの旧姓を調べられてる流れ、灯ちゃんの過去がじわじわと暴かれていく感じが重くて… 最後の江藤部長が深く頭を下げるところ、心臓がギュッとなりました。続き、どうなっちゃうんでしょう…