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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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室長の言葉が、頭をよぎった。瀬名さん一人で、部長と話すことは控えてください。
「柏木室長が、同席を、と」
「柏木さんの前では、話せません」
部長は、非常階段の扉に手をかけた。
「地下の駐車場で。……五分で、済みます」
迷ったのは、三秒くらいだった。
私は、部長のあとについて、非常階段を降りた。
*
地下の駐車場は、排気ガスと、湿ったコンクリートの匂いがした。
蛍光灯の白い光が、等間隔に、柱の影を落としている。部長は、一番奥の柱の陰で立ち止まった。古い白いセダンの横だった。
後部座席に、小さなチャイルドシートが付いていた。助手席には、ベビー用品の店の紙袋が載っている。
「あの工事は、なかったんです」
部長は、前置きなしに言った。
「八件のうち、五件は、最初から存在しない工事です。残りの三件も、本当の金額の、何倍も払っています」
私は、眼鏡を外した。コンクリートの柱の継ぎ目まで、くっきりと見えた。
一本の線。
「誰が、そうしろと」
「指示されて、やっただけです」
部長は、両手をコートのポケットに入れた。
「毎年、二月の終わりに、電話が来ます。今年はいくら、工事の名目はどれ、と。私はそのとおりに、発注の書類を作る。完了報告書は、写真付きで、どこからか届く。私は、それを綴じるだけです」
「電話は、誰から」
「名前は、言えません」
部長は、私の目を見た。
「言えば、私の家族が困る。……娘が、去年、子どもを産んだんです」
一本の線。
この人は、嘘をついていない。
指示されたことも、名前を言えないことも、家族が困ることも、全部本当だ。
けれど、誰の指示なのかは、見えない。私の目が教えてくれるのは、口にされた言葉が本当かどうかだけ。言われなかった名前は、どこにも映らない。
「どうして、私に話すんですか」
部長は、しばらく黙っていた。
柱の陰で、細い肩が、少しだけ下がった。
「十五年前も、同じだったんです」
声が、低くなった。
「あのときも、年度末に、電話が来た。同じ会社の名前で、同じように、工事の書類が作られた。それで、何もかもが明るみに出たとき」
部長の唇が、震えた。
「十五年前も、部長が書類を」
「いいえ。当時の私は、隣の課の、ただの主任でした。……でも、見ていました」
部長は、自分の靴の先を見つめていた。
「あのときは、経理課長が、全部かぶった」
息が、止まった。
経理課長。
十五年前の、鷹宮不動産の。
「……その人の、名前は」
声が、自分のものではないように聞こえた。
部長は、私の顔を見た。
それから、はっとしたように、口を閉じた。
「……忘れてください。私は、何も」
部長は、白いセダンのドアを開けた。
「話しすぎました。瀬名さん、気をつけてください。あなたは、見すぎる」
エンジンの音が、天井の低い駐車場に響いた。
テールランプが、出口のスロープを上っていく。
私は、柱に背中をつけて、立っていた。
コートのポケットの中で、手が拳になっていた。爪が、手のひらに食い込むほど強く。
かぶった。
かぶせられた、ではなかった。
十五年経っても、この人たちの記憶の中で、父は、自分で罪をかぶった人のままなのだ。
誰が、かぶせたのかも言わずに。
父は、家でも、電卓を叩くときだけ眼鏡をかける人だった。
夕食のあと、台所のテーブルで、持ち帰った書類の数字を一つずつ確かめていた。一円でも合わないと、何時になっても寝なかった。
十一歳の私は、その背中を見ながら、宿題をしていた。
あの人が、何かをかぶるはずがない。一円の違いも、自分のものにできなかった人が。
*
その夜、私は、もう一度地下二階に降りた。
今度は、一人ではなかった。
「ほんとに、ほんとに、これで最後だからね」
まどかが、鍵束を握りしめて、私の後ろに立っていた。ダウンジャケットの前を、首まで閉めている。
私のカードで重い扉が開いている間に、まどかは、自分のカードを使わずに、するりと後ろから通り抜けた。
「この前、灯、ここで何かあったんでしょ。言わなくていいよ。顔に書いてあった」
「書いてないよ」
「書いてある。だから、私が見張る」
まどかは、鍵束を指に引っかけて、くるりと回した。
「それに、灯が地下で行方不明になったら、社長がこのビルごと解体しそうだし」
冗談の顔だったのに、目だけは笑っていなかった。
まどかは、あの列の端のハンドルの前に、仁王立ちになった。
「誰かがこれを回そうとしたら、私、噛みつくから」
切れた蛍光灯は、切れたままだった。
私は、空の箱の並ぶ棚の前に立った。
前のときは、中身を見るだけで精一杯だった。今日は、外側を見る。
箱の側面に、透明なビニールのポケットが貼りつけてあった。管理票。
入庫の日付。保存期限。そして、閲覧の記録の欄。
閲覧した人は、日付を書いて、部署の印を押す決まりになっている。
欄の一番下に、印が一つあった。
朱肉が薄く、かすれていた。丸い印影の、ほとんどが消えている。
スマホのライトを、斜めから当てた。
読めなかった。印の文字は、一画も。
日付の欄だけ、数字が一つ、読めた。
月の欄。
七。
七月。
半年前の、七月。
堂島常務が、大会議室で、私の本当の名前を叫んだ、すぐあとの月。
「灯?」
ハンドルの前から、まどかの声がした。
「何か、あった?」
「……あった」
私は、管理票の写真を撮った。隣の箱の管理票も。その隣のも。
全部、同じ七月の、同じかすれた印だった。
私が、何も起きない毎日に甘えていた間に。
誰かが、私の行き先を知っていて、先回りしていた。
文書庫の扉に鍵をかけると、まどかが、私の袖を引いた。
「灯。それ、誰に見せるの」
「……まだ、誰にも」
「社長にも?」
「社長にも」
まどかは、長いため息をついた。白い息が、廊下の蛍光灯の下でほどけた。
「灯の目って、人の嘘は全部わかるのに、自分のことになると、ほんとに何にも見えてないよね」
言い返せなかった。まどかの顔は、くっきりとした一本の線だった。
*
家に帰ると、社長がリビングにいた。
私の顔を見るなり、何も言わずに、スマホを操作した。
三十分後、玄関のチャイムが鳴った。
社長が受け取ってきた紙袋から、赤い油の匂いが立ちのぼった。
黒いダイニングテーブルに、容器が二つ並んだ。一つは、麻婆豆腐。表面が赤く、山椒の粒が浮いている。
もう一つは、白い、とろみのあるかに玉だった。
「……麻婆豆腐」
「好きだろう。辛いのが」
社長は、自分の前に、かに玉を引き寄せた。
「作れないから、取った。……文句は言うな」
言うつもりはなかった。
辛いものが好きだと、この人に話したことは、一度もない。昼の弁当に、私が七味を山ほど振るのを、向かいの席で見ていたのかもしれない。
レンゲで一口すくうと、舌の上で、山椒が痺れた。辛かった。鼻の奥が、つんとした。
辛いせいだ、と思うことにした。
社長は、かに玉を食べながら、一度も私を見なかった。
何があった、とも、どこに行っていた、とも聞かなかった。
ただ、私が半分ほど食べたところで、黙って、自分のグラスの水を、私のほうへ押してよこした。
最後に、かに玉の端を一切れ、私の皿に載せた。辛いものの合間に食べろ、ということらしかった。
*
翌朝、四十三階に上がると、柏木室長が、私の机の前で待っていた。
手には、タブレットではなく、一枚の紙を持っていた。
「瀬名さん。総務部から、回ってきました」
室長は、紙を私の机の上に置いた。
入館ゲートの記録の、抜粋だった。
深夜の、地下二階。
入館者、瀬名灯。
十二月の、一回目。
そして、昨夜の、二回目。
紙の右上に、赤いスタンプが押してあった。
総務部、監視リスト掲載。
コメント
1件
うわあ、第36話、重かった…。部長の告白シーン、あの地下駐車場の排気ガスと湿った匂いまで伝わってくるようでした。「十五年前も同じだった」で一気に父の冤罪の輪郭が見えてきて、胸が締め付けられました。まどかの「灯の目は自分のことには見えてない」が核心をつきすぎていて、社長が無言で麻婆豆腐を差し出す不器用さも沁みます…。監視リストに載るラスト、次回が気になりすぎます!