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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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その夜、洋館の書斎で、私は鍵と罫紙を机に置いた。
冬馬様は、鍵を手に取るなり、指を止めた。
「別荘の、千鶴の部屋の文机の鍵だ」
「おわかりになるのですか」
「あの机の引き出しには、錠がついている。千鶴が死んだあと、鍵がどこからも出てこなかった。……誰も、あの部屋の物には触らせていない」
冬馬様は、木の札の「かまくら」という字を、親指でなぞった。
それから、罫紙の左下の欠けに目を移して、長く黙った。
私は、日記の最後の頁のことを話した。
明日、旦那様にお電話をする。
冬馬様の顔から、すっと色が引いた。
「電話は、受けていない」
低い声だった。
「あの日、私は夕方の五時から、華族会館にいた。議員の集まりで、夜の十時過ぎまで。……千鶴から電話があったとは、誰からも聞いていない。あの夜も、葬儀のあとも、今日まで一度も」
書斎の柱時計が、こち、こち、と鳴っていた。
千鶴さんが電話をかけたのなら、屋敷の誰かが、それを受けたはずだ。
受けて、冬馬様に伝えなかった。二年近くものあいだ。
「あの夏、千鶴は七月の末から、一人で鎌倉へ行っていた。私は、盆の十六日に行くと約束していた」
冬馬様は、鍵を机に置いた。
「十四日の夜、十一時を回って、別荘の源造から電話が来た。奥様が、お戻りにならない、と。……自動車を出させて、夜通し走った」
その先を、冬馬様は言わなかった。
私は、屋敷の電話室を思い浮かべた。
和館の玄関脇の、畳一枚ほどの小部屋。壁に黒い電話機が掛かっていて、ベルが鳴れば、近くにいる者が取る。女中の誰か。書生の誰か。
宇佐美先生が電話をかけてきたときは、二度とも、真柴さんが取って、冬馬様に取り次いだと聞いている。
けれど、それは去年の秋の話だ。二年前の夏の夕方、あの小部屋に誰がいたのかは、わからない。
「かけなかったのかもしれない」
冬馬様が言った。自分に言い聞かせるような声だった。
「確かめる方法が、あります」
私は言った。
「市外通話には、料金の票が残るのです」
*
翌朝、私は手紙を書いた。
真柴さんにもらった万年筆の、黒軸の蓋を取る。金の飾り輪が、朝の光に小さく光った。
書いたときは青く、乾くと黒く。嫁いで三日目にそう教えられたインクは、一年たっても、同じ色で紙に沈んでいった。
手紙は筆で書くのが本当だと、母には習った。けれど、硯をすって待つ間が、今朝は惜しかった。
宛先は、中央電話局。交換手、時田フミ様。
白鷺女学校の同級生で、四年のとき、教室で一番早口だった人だ。
返事は、三日で来た。
「栞さん! お手紙ありがとう。侯爵夫人ですって、新聞で見て腰を抜かしたわよ。会いましょう、会いましょう。来週の水曜が休番だから、お昼すぎに局へいらして。裏の通用口で、守衛さんに私の名を言ってね」
字まで、早口だった。
*
水曜日の昼すぎ、市電を降りて、お堀端の風に吹かれながら歩いた。
赤煉瓦の大きな建物の裏手に、通用口があった。守衛に名を告げると、すぐに奥から、ぱたぱたと駆けてくる足音がした。
「栞さん!」
フミさんだった。女学校の頃のお下げ髪は、流行りの耳隠しに結い変わっていた。けれど、丸い頬も、くるくる動く目も、少しも変わらない。
「まあまあ、侯爵夫人が市電でいらしたの? 自動車じゃなくて? あなたらしいわ。ねえ、旦那様って、どんな方。新聞には怖いことばかり書いてあるけど」
「……卵焼きを、よく焦がす人」
フミさんは、きょとんとして、それから吹き出した。
「なあに、それ。のろけ? のろけなのね?」
私は、何も言い返せなかった。
中央電話局の交換室は、蜂の巣のようだった。
天井の高い広間に、背の高い交換台がずらりと並び、白い前掛けの娘たちが、肩を寄せ合って座っている。頭に受話器、胸に送話口。目の前の板には、小さな穴と札と、明かりの点る豆電球が、びっしりと並んでいた。
「はい、何番」
「お待ちください、おつなぎします」
何十もの声が、重なって波のように寄せては返す。
一つの電球が点ると、娘の手が伸びて、紐のついたプラグを穴に差す。次の電球。次のプラグ。手が、目にも止まらない。
「すごいでしょう。ここに座ったら、帝都中の噂が耳に入ってくるのよ。聞いちゃいけないんだけど」
フミさんは、休番だというのに、前掛けをつけたまま、私の腕を引っ張った。
休憩室の隅で、私は事情を話した。
千鶴さんが、二人目の奥様だったこと。大正十年の八月十四日、鎌倉の別荘から屋敷へ、電話をかけたはずだということ。
「白河先輩? あの、自転車の?」
フミさんは、目をぱちぱちさせた。それから、急に口を結んで、最後まで黙って聞いていた。
「市外はね、申し込みを受けたら、交換手が通話票を書くの。どこの何番から、どこの何番へ。申し込みの時刻、つないだ時刻、何分話したか。それが料金の元になるから、綴りにして、局の倉庫にしまっておくのよ」
「何年、しまっておくの」
「満二年。それを過ぎたら、焼くの」
私は、息を呑んだ。
大正十年の八月から、もうすぐ二年になる。
フミさんは、ふふん、と鼻を鳴らした。
「でも、運がいいわ、栞さん。倉庫係のおじさんが、春に腰を痛めてね。焼くのが、のびのびになってるの。今なら、まだあるはずよ」
「フミさん、そんなことをして、叱られない?」
「見るだけよ。持ち出しはしない。それに、女学校の頃、私の作文の誤字を、出す前に全部見つけてくれたのは、どこの誰でしたっけ」
フミさんは、片目をつぶって、廊下へ消えた。
*
一時間近く、待った。
窓の外を、市電がチンチンと鳴らして通り過ぎていく。
休憩室の壁の向こうから、交換台の声の波が、絶え間なく聞こえていた。
二年前の夏の夕方も、この建物のどこかで、誰かが千鶴さんの声をつないだのだ。鎌倉から、鳥居坂へ。
もしもし、久遠寺でございますか。旦那様を、お願いします。
千鶴さんの声が、耳の奥で鳴った気がした。弾むような、少し早口の声。
あの声は、受話器の向こうで、誰に向かって話したのだろう。
戻ってきたフミさんは、前掛けの下に、紐で綴じた薄い束を隠していた。
「八月十四日の、市外の着信。……あったわ」
フミさんが、一枚を指で押さえた。
鉛筆の、細かい字。
発、鎌倉の局の番号。着、東京の局の、聞き覚えのある番号。鳥居坂の屋敷の電話だった。
申込、午後五時五十分。接続、午後六時十分。
通話時間の欄に、「六分」。
六分。
千鶴さんは、日記に書いたとおり、電話をかけていた。
そして、誰かが、六分ものあいだ、千鶴さんと話した。
冬馬様は、その時刻、華族会館にいた。夕方の五時から。会館の誰に聞いても、それは確かめられるはずだ。
では、屋敷の電話室で、受話器を取ったのは、誰。
「この六分、長いのよ」
フミさんが、指で票を叩いた。
「取り次ぐだけなら、一分もかからない。旦那様はお留守です、はい、さようなら。それなら一度数、三分で切れるの。六分は二度数。何かを、じっくり話したってこと」
私は、通話票の鉛筆の字を、ルーペで見た。数字の書き直しも、消しゴムの跡もない。疲れた交換手が、何百枚も書くうちの一枚。嘘をつく理由のない紙だった。
私は、帯から半紙を出して、票の字を、番号の一字から時刻の一字まで、そのとおりに書き写した。フミさんは、それを横から覗いて、「字まで、そっくり」と目を丸くした。
「ねえ、栞さん」
フミさんが、珍しく声を落とした。
「交換手は、誰が出たかまでは書かないの。……でも、その家の電話室にいた人なら、千鶴さんが何を話したか、聞いたはずよ」
コメント
1件
第52話、とても引き込まれました。電話交換手のフミさんの登場で、物語にぐっとリアリティとスピード感が出ましたね。「卵焼きをよく焦がす人」という栞さんの答えが、あの堅苦しい侯爵家の中でふと漏れた本音みたいで、じんとしました。それにしても、通話時間六分——誰が受話器を取ったのか、もう気になって仕方ないです。設定の細かさ、特に交換手の仕事の描写が生きていて、大正という時代の空気が詰まっていました。続きが待ち遠しいです。