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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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七月二十八日の朝、和館の玄関に、行李が四つ並んだ。
冬馬様と私の分、百合絵様の分、お鈴の分。
「海よ、海。お義姉さま、あたくし、三年ぶりよ」
百合絵様は、朝から落ち着かなかった。帽子の箱を、行李とは別に、大事そうに抱えている。中身は、大奥様に内緒の、釣鐘型の帽子だ。
お鈴は、生まれて一度も海を見たことがないという。昨夜は興奮して眠れなかったらしく、目の下に、うっすら隈をつくっていた。
大奥様は、鎌倉へは来ないと言った。
「私は、タキについております」
女中部屋の隅で、タキさんは、まだ眠り続けている。倒れて八か月、大奥様は、毎晩その枕元へ通っていた。誰にも言わずに。ハナさんが、こっそり教えてくれたのだ。
「三回忌には、伺えません。白河の奥様に、よろしく」
大奥様は、扇を半分開いて、そう言った。
それから、百合絵様の抱えた帽子の箱に、ちらりと目をやった。百合絵様が、びくりと箱を背中に回す。
「……海辺は、日が強い。顔を焼かぬように」
それだけ言って、大奥様は奥へ戻っていった。
百合絵様は、ぽかんと口を開けたまま、母親の背中を見送っていた。
出かける前に、私は女中部屋へ寄った。
タキさんは、薄い布団の上で、倒れた晩と同じ顔をして眠っていた。頬が、少しこけた。白髪が、枕に散っている。
私は、布団の端から出ている手を、そっと握った。
あの夜、この手が握りしめていた、赤い封蝋の欠片。
タキさんは、私に何を話そうとしていたのだろう。藤の間の、葡萄酒のことで。
「行ってまいります、タキさん。千鶴さんのところへ」
乾いた指は、少しも握り返してこなかった。
*
式台の前で、真柴さんが、冬馬様に帽子とステッキを差し出した。
夏のパナマ帽と、黒檀に銀の家紋を嵌めた、あのステッキ。
嫁いだ日の翌朝にも見た、同じ光景だった。真柴さんは、毎朝こうして、傘立てからあの一本を抜いて、冬馬様に手渡す。
冬馬様は、黙ってそれを受け取った。
「お留守は、お任せくださいませ」
真柴さんは、胸のポケットから手帳と万年筆を出して、さらさらと何か書きつけた。
「東京駅、九時二十分の発。鎌倉へは、十時四十分の着でございますな。何かございましたら、別荘へお電話を」
青い字が、紙の上で、ゆっくりと黒に沈んでいった。
それから、真柴さんは、私のほうへ向き直って、目尻に深い皺を寄せた。
「奥様には、よい御静養になりましょう。鎌倉は、空気がよろしゅうございますから」
去年の十一月、大広間で、同じ人が同じことを言った。奥様には、鎌倉の別荘で御静養を、と。
あのときは、冬馬様が、私を鎌倉へはやらないと言った。
今は、冬馬様が、自分で私を連れていく。
「ありがとう存じます」
私は頭を下げて、その前を通り過ぎた。
*
東京駅の高い屋根の下で、汽車は白い息を吐いていた。
二等車は、窓の下に青い帯が引かれている。中は、青い天鵞絨の座席が向かい合わせに並び、窓には白い日除けが下りていた。
お鈴は、座席に座るなり、天鵞絨を手のひらで撫でて、「ふかふか」と呟いた。
汽車が動きだすと、窓の外を、帝都の屋根が流れていった。品川を過ぎると、海が見えた。
「奥様、奥様。あれが海ですか。あんなに、ずっと」
「あれは、まだ品川の海よ、お鈴。鎌倉のは、もっと青いわ」
百合絵様が、得意そうに言った。
それから、ふと声を落とした。
「お義姉さま。あたくしね、あの夏、千鶴お姉様と一緒に、鎌倉へ行くはずだったの」
百合絵様は、帽子の箱のリボンを、指でいじった。
「お母様が、女学校の補習があるでしょうって、行かせてくださらなかった。お盆に、お兄様と一緒にいらっしゃいって、お姉様は笑って先に発ったの。だから、あたくし、お姉様の顔を最後に見たのは、東京駅のホームなのよ」
私は、何も言えなかった。
百合絵様は、すぐに顔を上げて、窓の外を指さした。
「ほら、お鈴、帆掛け船」
声だけが、少し大きすぎた。
私の帯の中には、いつもより多くの紙が入っていた。
千鶴さんの手紙。離縁状。白河の奥様に託された、活版所の前の写真。料金票を書き写した紙。
そして、「かまくら」の札のついた鍵と、それを包んでいた、欠けのある罫紙。
帯の上から、そっと押さえる。紙の角が、指に当たった。
冬馬様は、窓際に座ったまま、一言も話さなかった。
パナマ帽を膝の上に置き、窓の外を見ている。見ているようで、何も見ていない目だった。
黒い革手袋の指が、膝の上で、固く握られていた。
二年前の夏、この人は、夜通し自動車で、この道を走ったのだ。千鶴さんが戻らないという知らせを聞いて。
そして、それから一度も、鎌倉へは行かなかった。
大船の駅で、物売りの声が窓の外を通った。
お鈴が、ものほしそうに首を伸ばす。冬馬様が、黙って座席の脇の風呂敷をほどいた。
竹皮の包みが、四つ。中は、握り飯と、卵焼きだった。
「旦那様、お鈴の分まで」
「買うまでもない。作ってきた」
お鈴は、目を潤ませて握り飯にかぶりついた。百合絵様は、卵焼きをひと切れ口に入れて、「お兄様、今日のは焦げていないわ」と言った。
冬馬様は、何も答えなかった。卵焼きにも、手をつけなかった。
*
大船を過ぎて、汽車が山のあいだへ入ったころ、百合絵様が、帽子の箱を抱えたまま、こくりこくりと舟をこぎはじめた。お鈴も、満腹になって、窓に頭をもたせかけて寝息を立てている。
車室の中で、起きているのは、私と冬馬様だけになった。
冬馬様の拳は、まだ膝の上にあった。
手袋の革が、関節のところで白く張っている。
私は、自分の手を、その上にそっと重ねた。
冬馬様の肩が、わずかに揺れた。
振り払われるかと思った。人前で、この人は、私の手を取ったりしない。
けれど、拳が、ゆっくりとほどけた。
手袋の指が、私の指のあいだに、一本ずつ、絡んできた。
強く。痛いくらいに。
「……すまない」
窓の外を見たまま、冬馬様が言った。
「何が、でございますか」
「少しのあいだ、こうしていてくれ」
声が、かすれていた。
私は、黙って、指に力をこめた。
屋敷の誰も、この人のこんな声を知らない。大奥様も、真柴さんも。笑わない侯爵、妻殺しの侯爵と囁く人たちも。
誰も見ていないところでだけ、この人は、弱さを見せる。
私の前でだけ。
向かいの座席で、百合絵様の帽子の箱が、ほんの少し傾いた。
眠っているはずの百合絵様の、閉じたまつげが、ぴくりと震えた。口の端が、こらえきれないように、むずむずと動いている。
私は、気づかないふりをした。
冬馬様も、たぶん、気づかないふりをした。
指は、ほどかれなかった。
短いトンネルを抜けると、窓の外が、ぱっと明るくなった。
山の緑が濃くなり、やがて、潮の匂いが、窓の隙間から流れこんできた。
*
鎌倉の駅に降りると、夏の日差しが、ホームの白い砂利に照り返していた。
百合絵様が、帽子の箱を開けて、釣鐘型の帽子を頭にのせた。鏡もないのに、つばの角度を何度も直してから、お鈴の手を引いて、改札のほうへ駆けていく。
お鈴は、海はどっちですかと、三度も訊いた。
冬馬様は、ステッキを手に、ホームに立ったまま、しばらく動かなかった。
駅舎の向こうに、山がある。その向こうに、海があるのだ。
私は、冬馬様の隣に並んだ。
冬馬様が、前を向いたまま、低く言った。
「あの夜、私は東京にいた」
銀の家紋が、ステッキの握りで、鈍く光った。
「……誰も、信じなかったが」
コメント
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やっと鎌倉へ向かう汽車の中……静かな二人の手が重なるシーン、胸がぎゅっとなりました。冬馬様が「少しのあいだ、こうしていてくれ」って、あの声がかすれる弱さを見せるのが、もう。百合絵様の気づかないふりも、お互いにそうする空気も、家族の距離感がじんわり伝わってきた。そして千鶴さんの話が出た時に「何も言えなかった」のが、読み手の私も同じ気持ちだった。鎌倉に降り立った冬馬様の最後の一言……もう切なすぎる。