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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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お義姉さん。
その呼び方が、耳の奥で何度も跳ね返った。
袖を掴む百合絵様の指は細くて、冷たい。私はその手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「大丈夫。まず、見せてください」
*
百合絵様の部屋には、電灯が一つきりだった。
私は文机の上の笠を傾けて、タイプ打ちの用箋を光の下に置いた。帯からルーペを抜く。
百合絵様が、隣で膝を抱えて覗き込む。
まず、紙を見た。
薄い洋紙に、藍色の罫が十行。半紙を半分にした大きさ。指でこすると、表面がざらりとして毛羽が立つ。
上等な紙ではない。
「これ、代書屋さんの用箋だわ」
「代書屋?」
「役所に出す書類や手紙を、字の書けない人の代わりに書くお店です。うちでも昔、神田の代書屋さんから頼まれて、こういう用箋を刷りました。一枚いくらで、お客に売るんです」
罫の刷りは浅く、ところどころかすれている。数を刷るための、安い仕事だ。
次に、字を見た。
「五月二十日マデニ百円。サモナクバ恋文ヲ大奥様ヘ」
ルーペを一字ずつ滑らせる。
数字も、カタカナも、漢字も、細い明朝の活字だ。家令室の機械で見たのと、よく似ている。
けれど一字だけ、顔つきの違う字があった。
「大奥様」の「様」。
ほかの字より、線が太い。明朝なのに、払いの先が筆で書いたように丸く膨らんでいる。字の大きさもわずかに小さく、行の中で少しだけ沈んで見えた。
「……この『様』だけ、別の活字だわ」
「どういうこと」
「タイプライターの活字も、使っているうちに欠けたり、折れたりするんです。『様』は手紙で一番よく使う字の一つだから、真っ先に傷む。折れたら、手元にある別の活字で差し替える。書体が揃わなくても、字が打てればいいから」
私はルーペを下ろした。
「この手紙を打った機械は、『様』を差し替えてある。世の中に一台だけの癖です」
百合絵様は、ぽかんと口を開けていた。
「三人目さん……あなた、そんなことまでわかるの」
「活字のことだけです」
*
封筒には、もう一通入っていた。
百合絵様の恋文、ということになっている手紙だ。
罫のない白い便箋に、墨の字。宛名は「誠様」。
百合絵様はそれを、汚いものを摘むように指先で持ち上げた。
「これ、あたくし、書いていないの」
「でも、百合絵様の字ですね」
「そうよ。あたくしの字よ。でも書いてない。こんな……こんなこと、書くはずないもの」
読んでもいいかと目で訊くと、百合絵様は顔を真っ赤にして横を向いた。
読んで、私も頬が熱くなった。
夜にお部屋へ忍んでいった、腕の中で朝を待った。女学生が書くには、あまりにも扇情的な文句が並んでいる。
大奥様がこれを読めば、篠原さんは今日のうちに放り出される。百合絵様も、ただでは済まない。
本物の恋文より、ずっと効き目のある一通だった。
「本物の手紙は、手元にありますか」
百合絵様は文机の引き出しの奥から、書き損じを一枚出してきた。書きかけてやめたまま、捨てられずにいたものだという。
「誠様」。同じ宛名、同じ筆癖。並べてみると、一字一字の形は確かによく似ていた。
けれど、どこか息をしていない。
私は偽の手紙を持ち上げ、電灯の笠のすぐ横で、紙を寝かせるように斜めに傾けた。
光が、紙の表面を舐めるように走る。
墨の線の下に、細い溝が浮かんだ。
墨よりも細く、まっすぐな、銀色に光る筋。鉛筆で強く引いた線の跡だ。墨の線は、その溝の上を、少しはみ出しながらなぞっている。
「百合絵様。ここを見て」
傾けた紙を、百合絵様の目の高さに差し出す。
「墨の下に、鉛筆の溝があるでしょう。本物の手紙から字を一つずつ拾って、鉛筆で写して、その上を筆でなぞったんです。だから形は同じでも、筆に勢いがない。止めのところで墨が溜まっています」
百合絵様が、息を止めて見入った。
「……ほんとだわ」
「書いた人は、百合絵様の本物の手紙を何通も持っている人です」
「隆之さん……」
百合絵様は唇を噛んだ。
「誠さん、あたくしの手紙を、法律の本の間に挟んでしまっていたの。書生部屋の、机の横の本棚に」
「隆之様は、書生部屋に入れるのですか」
「四月の終わりに、叔父様と一緒に来たのよ。叔父様が家令室で真柴とお話ししている間、隆之さんだけ、ふらふら屋敷の中を歩き回ってた。いつもそうなの。お母様の部屋の前まで来て、タキに追い返されたこともあるわ」
書生部屋は使用人棟の端にある。昼間、書生が学校へ行っている間は、誰でも入れる。
屑籠に捨ててあった、と隆之様は言っていた。本の間から抜いたのなら、それは嘘だ。
「誠さんが気づいたのは、先週よ。本を開いたら、手紙が半分なくなってたって。真っ青になって、あたくしに謝りに来たの」
百合絵様の声が、また細くなった。
「藤棚の下で泣いてたのは、そのせい。誠さんが、全部自分のせいだから学校をやめて国へ帰るって、手紙に書いてきたのよ」
あの夜、月明かりの下で握りしめていた紙は、それだったのだ。
「お兄様にご相談しましょう」
私がそう言った途端、百合絵様は弾かれたように顔を上げた。
「だめ!」
「でも」
「お兄様にだけは言わないで。お兄様が知ったら、誠さんはすぐに追い出されるわ。お兄様はああいう人だもの。家の名前のことになったら、誰の言うことも聞かない」
百合絵様は、また私の袖を掴んだ。今度は、すがるのではなく、引き留める強さで。
「お願い。お義姉さん」
二度目のお義姉さんは、さっきより少しだけ、ぎこちなかった。
*
翌朝、私は家令室の障子を叩いた。
「真柴さん。少し、タイプライターをお借りしてもよろしいですか」
真柴さんは帳簿から顔を上げ、目尻に皺を寄せた。
「もちろんでございます。奥様は、すっかりお気に入りのようで」
「父に、タイプの字を見せてやりたくて。昔、活字の話ばかりしていましたから」
窓際の機械の前に座り、活字皿の上でレバーを動かす。
父上様。
最後の一字は、木偏の並びの手前から拾う。かしゃん。
打ち出された「様」は、ほかの字と同じ、細くまっすぐな明朝だった。払いも膨らんでいない。
この家の機械ではない。
私はそっと息を吐いた。恐喝状は、この屋敷の機械で打たれたものではない。
「どなたかへのお手紙でございますか」
背中に、真柴さんの声がかかった。
いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。
「いえ、ただの試し打ちです」
「さようでございますか」
真柴さんは打ち上がった紙を覗き込み、穏やかに微笑んだ。
「大事なお手紙は、タイプより御自筆のほうがよろしゅうございますよ。字には、人が出ますから」
私は礼を言って、紙を折りたたんだ。真柴さんの懐中時計の鎖が、チョッキの上で小さく光っていた。
*
その夜、洋館の厨房で、侯爵様が言った。
「百合絵が泣いていたそうだな」
匙を持つ手が止まった。
「……どなたから」
「タキだ」
侯爵様は自分の皿から目を上げない。
「何か知っているか」
知っている。義妹が身内に強請られていることも、相手の名も。
けれど、お兄様にだけは言わないで、と言ったあの指の強さを、私はまだ袖に感じていた。
「女学校で、お友達と何かあったのかもしれません。私から、それとなく聞いてみます」
侯爵様は、しばらく黙っていた。
それから、そうか、とだけ言った。
この人に嘘をつくのが、少しずつ上手になっていく。それが怖かった。
部屋に戻り、私は二枚の紙を並べた。
差し替えの「様」を持つタイプライター。代書屋の用箋。
隆之様が自分の家でタイプを打つとは思えない。打たせる店がある。浅草には区役所があって、その門前には代書屋が軒を並べていると、父から聞いたことがある。
借りた機械なら、店の主人が打った人の顔を覚えているかもしれない。
私は決めた。
百合絵様との約束を守る代わりに、浅草の代書屋を、一軒ずつ回ってみることにした。
コメント
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**美月ゆめか🌸からの感想** ひえ〜!!!今回もエモすぎた😭💕 活字の「様」だけ違うって気づくシーン、推理モノの醍醐味が詰まってて鳥肌立ったよ…! 百合絵様が二度目の「お義姉さん」をぎこちなく言うところ、ちゃんと距離が縮まってる感じがして尊すぎた。そして侯爵様に上手く嘘をつけるようになってしまう心の葛藤、三人目さんの人間らしさが沁みる… 浅草の代書屋巡り、次回が待ちきれないよ!!🌸✨