ブリッドが主から呼ばれてもいないのに森の館へ訪れることはほとんどない。でも、その日は朝早くから屋根の上にオオワシの姿があった。結界へ入った時点でベルには気付かれていたが、鳴かずに静かに止まっているだけだったのでそのまま自由にさせてもらえていた。
朝一で別邸へ出勤して来た庭師の老人は、まだ薄暗い時間の館の屋根に大きな鳥の影が見えて、一瞬だけ心臓が止まりそうになった。
「ああ、ジーク坊ちゃんが来るからか」
オオワシはベルの契約獣だが、最初に彼を捕まえて来たのは父親であるジークだった。珍しい鳥がいたから娘に見せてみると気に入ったようだったので、なら契約すればと魔法儀式を教えたのがベルとブリッドの関係の始まりだった。
捕獲されたのに生かしてもらえている恩なのか、ブリッドはジークにもとても懐いていた。なので、主からジークが来るかもしれないと聞いて、こうやって朝一からお出迎えの体勢を取っているのだろう。「ご苦労さん」と屋根に向かってクロードは手を上げてみせたが、オオワシは街の方角を向いたまま微動だにしなかった。
ブリッドが首を長くして待ち望んでいた訪問者は、その昼過ぎに馬に乗って現れた。護衛も付けずに一人、街から馬を走らせて来ると、気付いて迎えに寄った庭師に慣れたように手綱を預けた。
「やあ、クロード。元気そうで何よりだ」
「ああ、おかげさんで」
親愛の意を込めて、老人の肩をポンポンと叩く。そして、視線を上げて屋根の上に向かって手を振ってみせると、翼をバタつかせながらオオワシは鳴いて返事した。
「ギギィ、ギギィ」
久しぶりに訪れた森の館を懐かしそうにしばらく見渡していたが、ジーク・グランは魔導師のローブをひらりと翻して入口扉へと向かった。歩きながら、栗色の髪をさっと手櫛で整える。
館の扉は彼が叩くより前に開くと、見知った世話係が深々と頭を下げて出迎えた。
「おかえりなさいませ、ジーク様」
「やあ、マーサ。一時は娘が迷惑をかけたね」
「いえ、とんでもありませんわ」
ベルが森の道を隠したことは王都にいる彼のところへも報告が来ていた。またあの娘は、と夫婦で大笑いをして、しばらくは話のネタに事欠かなかった。ただ、職場を追い出される形となったマーサのことは気になっていた。弟からの便りによれば、久しぶりの本邸勤めもそれなりに張り切っていたようだったが。
「ここに戻って来て良かったのかい?」
「良かったも何も、私はアナベルお嬢様にお仕えする身ですから」
「そうか、君が付いていてくれると安心だね」
あの娘のことだ、マーサのことは口うるさく思っているだろうけど。放っておくと突飛な行動をするベルの監視には、彼女くらいのしっかり者でないと勤まらないだろう。
「娘達はいるかな?」
「ええ。お待ちになられてます」
ホールを入ると以前と変わらない内装と調度品。街の中は随分と変わっていたけれど、ここはジークの知っている館のままだった。
ここは昔のままでホッとするね、と脱いだばかりのローブをマーサに預けながら、ソファーの前に立って待つベルと葉月に軽く手を上げる。
「ご無沙汰しております、お父様」
「ああ、しばらく見ない間に、すっかり大人の女性になったね」
以前に娘に会った時にはまだ十代だったけれど、数年ほどで随分と雰囲気が変わったものだと感心する。そして、ベルの隣で緊張の面持ちでこちらに視線を送ってくる少女の前に立つと、右手を差し出した。
「君が葉月ちゃんだね」
「は、はいっ」
「ベルから聞いてるよ。娘と仲良くしてくれて、ありがとう」
おずおずと出した葉月の手をぎゅっと握った。確かに強い魔力持ちだな、と思いながらも、娘の友人へと礼を言って微笑む。
葉月は魔導師ジークに完全に目を奪われていた。冒険譚を読みながら想像していたジークがそのまま数十年の時を経て、目の前に立っているのだ。さすがに強い魔導師でも老いには勝てないが、それでも彼の弟であるグラン領主よりもかなり若々しく見えるのは、王都生活の賜物だろうか?
「ところで、何から話したら良いのかな?」
二人にも掛けるように言いながら、ジークもソファーへと腰を降ろした。すぐにマーサが三人分のお茶を運んでくる。
「まずは仕事をしないとだね。アヴェン領の件で聞きたいことは?」
「それはジョセフが張り切ってくれているから、大丈夫ですわ」
本邸での甥の様子を思い出して、それもそうだね、と笑いつつ、淹れたてのお茶に口をつける。彼がここへ来る建前は、薬の不正流出に関する確認だった。だが改めてベルに聞き取ることは別にない。
「じゃあ、あれかな。上にいる子のことかな?」
天井を見上げて、目を細めた。この気配には若い頃に覚えがあった。とても懐かしく強い力を森の途中から感じていた。道中、まさかと思いながらやって来たが、館の中に入って確信した。
「ここには、猫がいるんだね?」