朝の通学路。
ぼくは朝倉たける。普通の男子高校生だ。毎日変わらない日常が、今もこうして繰り返されている。
その日もいつも通り、ぼくは駅から学校へ向かう通学路を歩いていた。
いつも通りの風景、いつも通りの人々。特に何もなく、ただ自分の足音だけが響いている。
「おはよー!たけるくん!」
その声が突然、静かな朝の空気を破った。
振り返ると、いつも明るくて元気なひかりが、笑顔を浮かべて手を振りながら近づいてきた。
ひかりは学校一の美少女で、みんなのアイドル的存在。誰にでも優しくて、ドジなところも可愛らしい。
「おはよう!ひかり!」
ぼくはその笑顔に答えて、手を振りながら返した。
ひかりは少し照れたように顔を赤らめつつも、すぐに元気よく続けた。
「いやー、今日もたけるくんに会えて嬉しいなー!」
その言葉に、ぼくはちょっと驚いて思わず笑ってしまう。
「そんなに僕に会いたかったの〜?」
ひかりはにっこりと笑いながら、無邪気に答える。
「うん!」
その答えがあまりにも可愛らしくて、思わず心が温かくなる。
「おー、そうか!じゃあ、僕も嬉しいよ!」
ぼくは照れながら言って、ひかりの笑顔に応えた。
でも、心のどこかで、少しだけ不安な気持ちが湧き上がる。
なんで、こんなにひかりはぼくに対して特別な感情を持ってるんだろう?
何か変だなと思いつつも、その気持ちはすぐに振り払った。
「まあ、普通のことだよね…」
そう言い聞かせるように、足を踏み出して歩き始める。
けれど、ひかりがどうしても気になる存在で、ぼくの心の中では少しだけ違和感を感じている。
ひかりはいつものように明るい笑顔で、ぼくに声をかけた。
「たけるくん!一緒に帰ろうよ!」
その笑顔は、相変わらず魅力的で、誰もが思わず見とれてしまうだろう。
でも、今日はなんだか少し違った。
ぼくは少し驚きながら振り向くと、クラスメイトの男子が近づいてきた。
「たける!今日俺と帰ろうぜ!」
その男子は、明るく元気なタイプで、いつもみんなで帰ることが多い。
ぼくは一瞬、ひかりのことを見たが、すぐに男子の方に目を向けて、
「うん!帰ろう!」と答えた。
ひかりの笑顔は崩れなかったけど、どこかに微かな不安の色が浮かんでいた。
そしてぼくは男子と一緒に歩き出した。
ひかりはその後ろ姿を見つめながら、足を止めた。
心の中で、思わずつぶやいてしまう。
「たけるくんは最近私にはあんまり構ってくれない…」
その言葉がぐるぐると回り、心の中で何度も繰り返される。
「最近、私のこと、もう嫌いになったのかな?」
その考えが頭をよぎると、胸の中がぎゅっと痛くなった。
ひかりは無意識に目を擦り、涙が頬を伝って落ちるのを感じた。
でも、周りに誰かが見ているわけでもなく、ひとりきりの通学路だった。
その涙は、誰にも気づかれないように流れ落ちていった。
誰も彼女の心の叫びに気づくことはなかった
ひかりはその場で立ち尽くし、ぼくと男子が遠ざかるのを見つめながら、
自分が思うほど、誰かに必要とされていないことを感じていた。
学校を出て、家に向かう通学路。
陽が少しずつ沈みかけて、空がオレンジ色に染まり始める。その中をひかりは無言で歩いていた。
心の中で、ずっと考えていたことが、ぐるぐると頭を巡っていた。
「たけるくんを…私のものにしたい…」
その言葉が何度も繰り返される。ひかりの目はどこか遠くを見つめているが、その目の奥に秘めた狂気が感じられる。
「たけるくんは私のもの!」
他の誰にも渡さない。どんなことがあっても、たけるくんは私だけのもの。
彼の笑顔も、優しさも、すべて。ひかりはそのすべてを独占したいと思うようになっていた。
その思いが次第に強くなり、何かが心の中で弾けた。
その瞬間、ふと足元に何かが落ちていることに
気づく。
ひかりは立ち止まり、足元を見下ろす。
「これ…?」
落ちていたのは、小さな箱のようなもので、見慣れないアイテムだった。
**「ストっプ人形」**という名前が書かれたその箱には、赤い糸と、奇妙なデザインの人形が描かれていた。
ひかりは何となく手を伸ばしてその箱を拾い上げた。
その瞬間、胸の中で不安と興奮が入り混じった。
「これ…もしかして…?」
心の中で何かが閃いた。
「これを使えば、たけるくん…私のものにできるんじゃないか?」
その考えに、ひかりは顔を赤くして少しだけ興奮している。
彼女の手が震えながらも、説明書を読み進め、アイテムの使い方を確認する。
「まず、自分の髪の毛と赤い糸を結びつける…」
その言葉を見た瞬間、ひかりは急いで髪を整えながら、糸を手に取る。
心の中で、もうすでにたけるが自分のものになる未来を描いていた。
秋の風がやわらかく吹き抜け、空は高く澄み渡っていた。
屋上には数人の生徒が昼食を取っていて、穏やかな笑い声が響いていた。
ひかりはお弁当を抱えながら、少し緊張した面持ちで屋上の扉を開けた。
目の前には、いつも通りベンチに座っているたけるの姿。
その笑顔を見るだけで、胸がドクンと高鳴る。
「たけるくん!一緒にご飯食べようよ!」
ひかりは明るく笑いながら、できるだけ自然に声をかけた。
たけるは箸を止めて顔を上げ、優しく微笑む。
「うん!いいよ!」
その何気ない返事が、ひかりの心に小さな火を灯す。
——今だ。
心の中でその言葉が響いた瞬間、ひかりの表情が一瞬だけ変わった。
笑顔の裏に隠された、冷たく鋭い光が瞳の奥に宿る。
その目は、もはや恋する少女のものではなかった。
カバンの奥に忍ばせていた小さな箱。
——「ストっプ人形」。
昨夜、何度も読み返した手順を、頭の中で繰り返す。
(自分の髪の毛と赤い糸を結びつけた…
写真も撮った…
あとは、彼にその写真を見せるだけ…)
ひかりはスマホを取り出し、たけるに向けて軽く笑った。
「ねえ、たけるくん。昨日ちょっと面白い写真撮ったんだ。見てみて?」
たけるは首を傾げながらも、ひかりのスマホを覗き込む。
画面には、昨夜撮影した赤い糸と髪の毛の写真が映っている。
それが何なのか、たけるは当然知らない。
「へぇ〜、これなに? なんか実験みたいだね」
彼は笑いながら言う。だが、ひかりの唇がゆっくりと歪む。
「ううん…これはね、ちょっと特別な写真なんだよ…」
たけるが笑って返そうとしたその瞬間——
胸の奥に、奇妙な感覚が走った。
腕に力が入らない。
手から箸がポトリと落ち、膝の上に弁当のご飯が
こぼれる。
「え……な、なんだこれ……?」
たけるの声が震えた。
ひかりはその様子を見ながら、ゆっくりと目を細める。
「……5分後、たけるくんは私のものになるんだ。」
風が吹く。屋上に、昼のざわめきが戻らない。
ひかりの笑顔だけが、静かに、そして恐ろしく輝いていた。
さっきまでの笑い声が嘘みたいに静かで、風の音だけが響いている。
たけるは突然、体の感覚がなくなっていくのを感じた。
手足に重りをつけられたように、思うように動かない。
指先も、足も、震えひとつできない。
「なに……これ? 僕の体が……動かない……?」
心の中で叫ぶが、声にならない。喉がふさがれたように、音が出ない。
そして——ゆっくりと、瞳から光が消えていく。
自分の視界が灰色に濁り、世界の輪郭が曖昧になっていく。
ひかりは静かに近づき、たけるの耳元で囁いた。
その声は、優しく、甘く、まるで恋人に語りかけるように。
「今から命令するね……」
たけるの瞳の奥、まだわずかに残っている意識がその言葉に反応する。
彼女は微笑みながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「たけるくん、いまから……
“僕は人形”って、心の中で繰り返して?」
その声が脳の奥に染み込むように響く。
たけるの心の中に、言葉が浮かぶ。
僕は人形……僕は人形……僕は人形……ぼくは……にん……ぎょう……ぼくは……に……
——思考が、そこで途切れた。
たけるの身体から、完全に“生気”が消えた。
姿勢を保ったまま、何の動きもない。
まるで命の糸を断たれたように、ただそこに“存在しているだけ”の人形。
ひかりはゆっくりと手を伸ばし、たけるの頬をそっとなでる。
その肌は冷たく、何の反応も返さない。
ひかりは満足げに、微笑みながら囁いた。
「……いい子。
いい人形になったね、たけるくん。」
風が吹く。ひかりの髪が揺れる。
屋上のドアの向こうでは、まだクラスメイトたちが笑っている。
——でも、ここだけがまるで別世界だった。
屋上。
風が止まり、昼のざわめきが遠のいていた。
ひかりは、動かなくなったたけるの頬にそっと触れた。
その指先は優しく、恋人に触れるように滑らかに。
しかし——たけるには、その感覚がはっきりと伝わっていた。
体は動かないのに、皮膚だけが生きている。
“触られている”感覚だけが、妙に鮮明だった。
「うう……くすぐったい! やめてよ、ひかり! 頬を触らないで〜!」
声に出そうとしても、何も出ない。
喉は閉じられ、口も動かない。
心の中の叫びだけが、静かに反響していた。
ひかりはそんな彼の心の声など知るはずもなく、
嬉しそうに微笑んでいた。
「うん……やっぱり、ほっぺの触り心地はいいね。」
指先で軽く押したり、撫でたりして、まるで陶器の質感を確かめるように触れる。
彼女の笑顔は純粋そのもの。
けれど、その“純粋さ”こそが、一番怖い。
「ふふっ、まだ学校は終わってないけど……」
ひかりはたけるの顔を覗き込みながら、少し考え込んだ。
「“具合が悪くなったので早退します”って言えば、いっか!」
笑顔で言いながら、まるでそれが普通のことのように、たけるの腕を取る。
しかし、当然彼の体はもう自分では動けない。
「ちょっ……ちょっと待ってひかり!? そんなの無理だって! 僕、どう見ても——」
——その“僕”の叫びは、風の音にすらならなかった。
ひかりは、まるでぬいぐるみを抱くように、
たけるの体を優しく支え、屋上の扉へ向かう。
「だいじょうぶ、たけるくん。
私がちゃんと連れて帰ってあげるからね……」
その声は優しい。
でもその“優しさ”は、どこか歪んでいた。
まるで世界に“自分と彼しか存在しない”ような響きだった。
屋上のドアが閉まると同時に、
教室のほうからは笑い声と部活の声が聞こえてくる。
——誰も知らない。
この学校で、今ひとりの少年が“人形”になってしまったことを
ひかりの部屋。
カーテンが閉め切られ、わずかな光だけが部屋を照らしていた。
その中心に——たける人形が、椅子に座っていた。
制服のまま。
表情は穏やかで、まるで眠っているよう。
けれどその瞳には、もう“命の光”はなかった。
ひかりは両手でたけるの顔を支えながら、
そっと微笑んだ。
「……やっと、一緒にいられるね。
これで、どこにも行かないでしょ?」
彼女の声は柔らかく、温かい。
まるで恋人を迎えるような優しさ。
けれど、その言葉の意味は——残酷だった。
(……ここは……ひかりの部屋? あれ……僕……まだ意識がある……?)
(動けない……声も出せない……なのに……全部、見える……聞こえる……)
たけるの“心の声”は、暗闇の中で小さく震えていた。
だけど、ひかりにはその声は届かない。
ひかりは、まるで宝物を扱うようにたけるの髪を撫でながら、
ぽつりとつぶやいた。
「よかったーー!」
その声は、心の底から安堵したように明るかった。
でも、その次の言葉が、部屋の空気を一瞬で冷たくした。
「私の親は、もういないから……
誰もたけるくんを助けに来ないよ。」
彼女は笑った。
嬉しそうに、無邪気に。
その笑顔のまま、たけるの頭をそっと撫でた。
(ひかり……やめて……誰か……助けて……)
(僕、ここにいる……まだ、生きてる……!)
だけど、ひかりの手の温もりが頬を撫でるたびに、
たけるの“心の声”は少しずつ、少しずつ遠ざかっていく。
ひかりはその様子に気づくこともなく、
満足げに小さく微笑んだ。
「ふふっ……いい子。
これからずっと、一緒にいようね……たけるくん。」
——その言葉を最後に、
部屋の中は静寂に包まれた。
時計の針の音だけが、淡々と時間を刻んでいた。
ひかりの部屋は、夜の静けさに包まれていた。
机の上のスタンドライトが、淡い光を落としている。
その光の下で——たける人形は、静かに座っていた。
ひかりはその前にしゃがみ込み、しばらく何も言わずに見つめていた。
動かないたけるの瞳に、自分の顔がぼんやり映っている。
その鏡のような瞳を見ているうちに、
ひかりの表情から笑顔が消えていった。
「……ねえ、たけるくん。」
その声は、少し震えていた。
昼のような明るさはどこにもない。
まるで、小さな子どもが寂しさに耐えているみたいだった。
「でもさ……」
ひかりは目を伏せ、指先でたけるの手をそっと握る。
「親がいないって……こんなに悲しいんだね……」
その言葉が零れた瞬間、
ひかりの目から、一粒の涙が静かに落ちた。
「ねえ、たけるくん……」
「私ね、ほんとはね……ひとりぼっちなの。
誰も話を聞いてくれないし、家に帰っても誰もいないの。」
涙をぬぐいもせず、
ひかりはたけるの胸に顔を埋めた。
(……ひかり……そんな顔、しないで……)
(僕、まだここにいる……聞いてるよ……)
だけど、その声は届かない。
たけるの心はまだそこにあるのに、
ひかりには、もう何も見えていなかった。
「だから……もう離れないでね……たけるくん。
私のこと、ひとりにしないで……」
そう呟くひかりの手が、
たけるの人形の頬をもう一度撫でた。
そして彼女はそのまま、
静かにたけるの肩にもたれて、目を閉じた。
——部屋には、二人だけ。
けれどその“二人”のうち、動けるのはひとりしかいなかった。
──回想。
外は雨だった。
灰色の空。濡れた窓。
部屋の中には、小さなすすり泣きの声だけが響いていた。
ベッドの上で、ひかりは膝を抱えて泣いていた。
まだ制服のまま。髪は乱れ、頬は涙で濡れていた。
「もう……誰もいない……」
「パパもママも……いない……」
泣き声が小さく震える。
声に出すたび、胸の奥が空っぽになっていく。
「もう、自分を愛してくれる人はいない……
もう、自分を世話してくれる人も……」
彼女の言葉が途切れたその時、
部屋のドアが静かにノックされた。
「……ひかり?」
聞こえてきたのは、優しい男の子の声。
たけるだった。
ひかりは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、
戸口に立つたけるを見つめた。
「……たけるくん……」
たけるはそっと近づいて、ひかりの頭を撫でた。
その手の温もりは、冷えきった心を少しだけ溶かした。
「泣かないで。」
「僕が……しばらく、ここにいてあげるよ。」
ひかりの瞳が、大きく揺れた。
「え……?」
「一人だと寂しいでしょ?
僕、時間がある時はここに寄るから。少しでも元気になれるなら、僕が側にいるよ。」
その一言に、ひかりの胸の奥で、
何かが“温かく灯った”。
涙は止まらなかったけど、
その中にほんの少し、笑顔が混ざっていた。
「……うん……ありがとう、たけるくん……」
その日——ひかりの世界に、
初めて“優しさの光”が戻った。
けれど、それがやがて彼女を狂わせるほどの愛に変わるなんて、
あの時の二人はまだ知らなかった。
──現在。
部屋の空気は、夜の冷気を含んでいた。
机の明かりがぼんやりとたける人形の顔を照らしている。
その瞳には何も映らない。
けれど、ひかりはその瞳の奥に“優しいたける”を見ていた。
ひかりはベッドに腰を下ろし、
ふと遠い記憶を思い出すように目を閉じた。
雨の日。
あの時、優しくしてくれたたけるの笑顔。
泣いていた自分を抱きしめてくれたあの手の温もり。
「……なんで、こんなことになっちゃったんだろうね……」
ぽつりと呟いたその声には、悲しみが混じっていた。
ひかりは両手で顔を覆い、少しだけ震えた。
でも次の瞬間、
彼女はその涙をぐいっと拭って、無理に笑顔を作る。
「ううん!」
勢いよく顔を上げ、たけるの方に向き直る。
その瞳には、狂気にも似た“まっすぐな光”が宿っていた。
「もう昔のことは忘れて……今を生きよう!」
たける人形の頬に手を伸ばし、優しく撫でる。
その仕草はまるで、本当にそこに“生きている彼”がいるかのようだった。
「だって、今の私の家族は——」
ひかりは微笑んだ。
でもその笑顔の奥に、かすかな涙が光っていた。
「——たけるくん、あなただけだから!」
部屋の時計が、コチコチと音を立てる。
その音だけが、二人の間に残された“現実”だった。
(……ひかり……違うよ……)
(僕は……君の家族になりたかったけど……こんな形じゃ……)
たけるの心の声は、闇の中で消えていった。
ひかりはそんなことも知らずに、
ただ満足げに、彼の手を握りしめる。
「これからずっと一緒だよ、たけるくん。
約束、したもんね。」
——その声には、もう迷いはなかった。
ひかりは、たけるの人形の手を握ったまま、
小さな声で「一緒にいようね」と呟いた。
その言葉は、優しくも切なくも響いた。
そして——その瞬間、
たけるの心の奥で、微かに“声”が生まれた。
(ひかり……)
その心の声は、誰にも届かない。
けれど確かに、そこに“たける”はいた。
(……そんなに、寂しかったんだね……)
(誰かに必要とされたくて……誰かと一緒にいたくて……)
ひかりの孤独が、痛いほど伝わってくる。
その想いがどんなに歪んでいようと、
“愛”から生まれたものだと分かってしまうから——たけるは責められなかった。
けれど、彼は静かに思う。
(でもね、ひかり……)
(愛って……誰かを支配することじゃないんだ。)
(相手を縛ることでも、閉じ込めることでもない。)
(本当の愛は——お互いを知って、分かり合って、
“現実”と向き合いながら育っていくものなんだよ……)
心の中の声が、空気に溶けるように消えていく。
だけど、たけるの想いは確かにそこにあった。
ひかりは何も知らず、たけるの頬を撫でながら微笑んだ。
「……大丈夫だよ。
現実なんて、もう気にしなくていいの。
私たちの世界はここにあるんだから。」
その声に、たけるの心はかすかに震えた。
(……ひかり……)
(僕はまだ、“外の世界”を信じてるよ……)
夜。
部屋の中には、時計の秒針の音だけが響いていた。
ひかりは、たけるの人形の前に立っていた。
その瞳は涙で赤く、でもどこか笑っていた。
「一生……たけるくんは私のもの!」
「これでもう……私は大事な人を失わない!」
震える声で叫びながら、たけるの頬に手を当てた。
その指先が小さく震えるたびに、涙がぽたりと落ちる。
(ひかり……)
(僕はそんな風に……君を縛りたくなんてなかった……)
——その時。
彼の心の奥に、ほんの小さな“希望”の光が残っていた。
それはまるで、消えかけた蝋燭の炎のように——弱く、けれど確かに揺れていた。
ひかりの中に、いくつもの“光景”が走馬灯みたいに浮かんだ。
―――中1の春。
校外学習の帰り道。転んで膝を擦りむいて泣いた自分。
手を差し伸べてくれたたけるの笑顔。
「大丈夫? 立てる? ……じゃあ、おんぶしてあげるよ!」
―――中2の夏。
宿泊学習の夜。
男子たちは笑いながら騒いでる中、
ひかりが寂しそうにしてるのを見て、
こっそり女子部屋の前に来てくれたたける。
「みんなが寝たら……ちょっと話そう?」
その優しさが、あの夜の月みたいに温かかった。
―――中3の秋。
修学旅行の京都。
熱を出して倒れた自分の隣で、タオルを濡らして額に当ててくれたたけるの手。
「無理しなくていいよ。俺がずっとそばにいるから。」
そのひとつひとつが、胸の奥に鮮やかに蘇る。
忘れたはずの笑顔。
なくしたと思っていた優しさ。
「うるさいっ……!」
ひかりは両手で頭を抱え、叫んだ。
「やめて……! もう昔のことなんか、どうでもいいの!」
でも涙が止まらなかった。
肩が震え、呼吸が乱れていく。
「はぁ……はぁ……なのに……!」
「なんで……なんで、忘れられないの……!?」
ひかりは崩れ落ちるように床に座り込み、
たけるの人形にすがりついた。
「どうして……」
「どうしてこんなに……心が……あったかくなるの……?」
その声は、嗚咽にかき消された。
涙がたけるの服を濡らしていく。
(……それが“愛”だよ、ひかり……)
(人を閉じ込めなくても……その想いは、消えないんだ……)
たけるの心の声は、静かにひかりの胸の中に届くように響いた。
ひかりは泣きながら、たけるの胸に顔を埋めた。
——その涙は、
悲しみと、後悔と、まだ消えない“優しさ”の涙だった。
夜が更けて、雨の音だけが窓を叩いていた。
ひかりはベッドの横に座り込み、
泣きはらした目でたける人形を見つめていた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、
唇をかみしめて小さく呟いた。
「これが……本当の愛……? 信じられない……!」
彼女の声は震えていた。
心の奥で、何かが壊れ、何かが生まれようとしていた。
「なら……!」
ひかりは立ち上がり、両手をぎゅっと握りしめた。
「私は……もうこの世にはいない!
パパとママのところに……行ってやる!」
涙で視界がにじむ。
でもその瞬間——。
——背中に、あたたかい手の感触が伝わった。
「え……?」
驚いて振り返ると、そこには笑顔のたけるがいた。
やさしい光に包まれたような表情で、
彼はひかりをそっと抱きしめていた。
「……こんなこと、しないでよ、ひかり。」
たけるは静かに目を閉じながら、穏やかな声で続けた。
「ひかりがいなくなったら……僕、泣いちゃうよ。」
その言葉を聞いた瞬間、
ひかりの膝が力を失い、崩れ落ちた。
「たけるくん……! ごめん……ごめんね……!」
大きな泣き声が部屋に響く。
その声には、後悔も、安堵も、すべての感情が混じっていた。
たけるは何も言わず、ただ優しく彼女の背中をさすった。
「いいんだ……もう、いいんだよ。」
そして、少しだけ笑って囁いた。
「おかえり……ひかり。」
その言葉に、ひかりはたけるの胸に顔をうずめて、
子どものように泣き続けた。
——外の雨が、少しずつ止んでいく。
雲の隙間から、朝の光が差し込み始めた。
二人を包むその光は、まるで新しい世界の始まりのようだった。
たけるの腕の中で、
ひかりの涙がようやく静かに止まった。
──朝。
窓の外には、夜明けの光が差し込んでいた。
雨上がりの空が、ゆっくりと青に戻っていく。
ひかりは、たけるの腕の中で静かに目を閉じていた。
あたたかい鼓動が、確かに伝わってくる。
涙で濡れた頬に当たるたけるの手の温もりが、
まるで“生きている証”みたいだった。
(この時……私は知ったんだ。)
ひかりの心の中に、静かに言葉が浮かんでいく。
(人は、人形じゃない。
支配することは、愛なんかじゃない。)
(本当に大事なのは、
“自分が相手をどう想うか”じゃなくて、
“相手が自分をどう想ってくれるか”。)
頬を伝う涙が、一粒ずつたけるの服を濡らす。
(私は……たけるくんに、ひどいことをした。
それでも……たけるくんは……
あの頃と同じように、優しかった……)
ひかりは、ゆっくりと目を開けた。
涙でかすむ視界の中、そこには優しく微笑むたけるの顔があった。
彼はただ静かに頷いていた。
ひかりは嗚咽をこらえながら、
でも、最後は笑顔で言葉を紡いだ。
「……ただいま、たけるくん。」
たけるはその言葉に、少しだけ目を細め、
穏やかに微笑んだ。
「……おかえり、ひかり。」
その瞬間、
部屋の中に差し込んだ朝の光が二人を包み込んだ
まるで、すべてを赦し、
新しい始まりを祝福するように——。
朝の光がやさしく二人を包み込む中、
ひかりはたけるの胸に顔を埋めながら、
こらえていた涙をまた零した。
「……でも……」
言葉が喉の奥で震え、息が詰まる。
「でも、本当にごめんね……たけるくん!」
声は涙で濡れ、途切れ途切れだった。
「私……自分のことしか考えてなくて……
たけるくんの気持ちなんて、全然わかってなかった……!」
嗚咽混じりに、彼女は何度も頭を下げた。
「ごめんね……ごめんね、たけるくん……!」
その言葉に、たけるはそっと微笑んだ。
彼は何も責めず、ただ優しくひかりの頬に手を添えた。
「……ひかり、顔を上げて。」
ひかりが涙で濡れた顔を上げると、
そこには穏やかでまぶしい笑顔があった。
「僕だって……君の気持ち、全部わかってたわけじゃないよ。」
「でもね、ひかり。
人は誰だって、自分を見失うときがあるんだ。」
たけるは少しだけ目を細め、
ひかりの頬をそっと拭った。
「でも……大事なのは、“気づけた”ことだよ。」
「君は今、ちゃんと自分の過ちを見つめてる。
それだけで、もう十分だ。」
ひかりはその言葉に、また涙をこぼした。
だけど今度の涙は、悲しみじゃなくて——救いの涙だった。
「……たけるくん……ありがとう……」
たけるは優しく微笑んで、もう一度彼女を抱きしめた。
「もう大丈夫。
これからは、一緒に前を向いていこう。」
窓の外では、朝日が完全に昇り始めていた。
部屋の中の空気が、金色に染まっていく。
ひかりの心には、もう闇はなかった。
その胸の奥には——たけるの“本当の優しさ”が確かに生きていた。
部屋の中は静かだった。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、
二人の影を柔らかく照らしている。
ひかりはたけるの胸の中で、
涙を拭いながら小さく笑った。
「ねぇ……たけるくん。」
たけるは少し驚いたように顔を上げた。
ひかりの瞳は、もう悲しみではなく、
どこか穏やかな光をたたえていた。
「つぎ……生まれ変わったらさ。」
ひかりは小さく息を吸い込み、
少しだけ照れくさそうに笑った。
「家族……いや、兄弟になろうね。」
たけるは一瞬だけ目を見開いたあと、
ふっと優しい笑みを浮かべた。
彼女の髪をそっと撫でながら、
小さくうなずく。
「うん……もちろんだよ。」
ひかりはその言葉を聞いた瞬間、
また涙がこぼれた。
でも今度は、痛みの涙じゃなかった。
「ありがとう……たけるくん。」
たけるは微笑みながら、
ひかりの頭を胸に引き寄せる。
「生まれ変わっても、きっとまた会えるさ。
その時は、笑って“おかえり”って言うから。」
ひかりは小さく笑い、目を閉じた。
その表情は、ようやく安らぎを見つけた子どものように穏やかだった。
ひかりは少しだけ顔を上げて、
涙を拭いながら小さく笑った。
「……いや。」
たけるが少し首をかしげる。
「その時は、“おかえり”じゃなくて、“ただいま”って言ってよ。」
たけるは一瞬、意味を考えるように黙り込む。
ひかりは、少し照れくさそうに、でもどこか嬉しそうに続けた。
「だってさ……“おかえり”って言われるのは、
私が帰る側でしょ?
でも、今度は……一緒に“帰る”の。
ぼくたちがいた世界に。」
その言葉に、たけるは静かに笑った。
胸の奥に、あたたかい何かが広がっていく。
「……うん。わかった。
その時は一緒に言おう。
“ただいま”って。」
二人は顔を見合わせ、静かに笑い合った。
窓の外では、朝の光がやさしく部屋を包み込む。
まるで、もう一度“始まり”を迎えるように——。
次の日の朝。
桜が満開の通学路。
春の陽気が、桜の花びらを優しく揺らしている。
道沿いには、満開の桜の花が並び、
その花びらが風に舞って、二人の足元を彩る。
ひかりとたけるは、並んで歩きながら、
手をしっかりと繋いでいた。
その手は、何度も触れ合い、今はどこか心地よく感じられる。
ひかりは、ふと目を細めながら笑った。
「ねぇ、たけるくん。」
「うん?」
たけるが少し顔を向けると、
ひかりはそのまま笑顔で言った。
「ありがとう。
本当に、ありがとう。」
たけるは少し驚いたように目を見開き、
でもすぐにやわらかく笑って、
「そんなの当たり前だよ。」
と答えた。
二人は何も言わず、
ただ桜の花が舞う中を歩き続ける。
過去の苦しみや痛みをすべて背負いながらも、
その手は、これからもずっと離れないと誓っているかのように感じられた。
その先に待つ未来が、
今はまだわからないけれど、
二人にとってはきっと、
新しい始まりの一歩だということだけは確かだった。
桜の花が舞う道を、
笑顔で歩く二人が、その先に見た世界には、
もう恐れも、孤独もなかった。
桜の花びらが、春の風に乗ってふわりと舞う。
通学路を歩く二人の手は、やさしく繋がっていた。
たけるが前を向いて、
満開の桜の下で、ふっと笑顔を見せる。
その横顔を見つめながら、
ひかりは静かに微笑んだ。
その瞳の奥には、かつてのような影はもうない。
──(私には、たしかにもう親はいない。)
心の中で、ひかりはゆっくりと呟く。
けれど、その胸には不思議な温かさがあった。
──(でも……それでいい。)
──(たけるくんは、もう人形なんかじゃない。)
──(今は……“私の家族みたいな存在”として、
そばにいてくれる。)
たけるが、ふとひかりの方を向いて言う。
「ひかり? どうしたの?」
ひかりは首を横に振って、笑った。
「ううん、なんでもない。……ただね、幸せだなって思ったの。」
その言葉に、たけるも穏やかに笑う。
二人の笑顔の間を、桜の花びらが通り抜けていく。
──(それだけで、もう十分だよ。)
ひかりの心の声が、
春風に溶けて消えていく。
通学路の先には、朝の光がまぶしく広がっていた。
そこには、もう“孤独”も“悲しみ”もなかった。
ただ、穏やかで優しい世界があった。
満開の桜が、二人の頭上でゆらゆらと揺れていた。
淡い花びらが舞い、光に透けてキラキラと輝く。
ひかりは、その美しい景色の中で、
隣を歩くたけるの笑顔をそっと見上げた。
春の陽射しに照らされて、
彼の横顔はまるで生きた光のように温かい。
──(たけるくんは、もう“動かない人形”なんかじゃない。)
心の中で、ひかりは静かに微笑んだ。
──(悲しみも、孤独も、全部越えて、
ぶつかり合って、それでもそばにいてくれる。
それが……家族の絆なんだね。)
彼女の頬を撫でる風が、やさしく髪を揺らす。
桜の花びらが一枚、ひかりの肩に落ちた。
ひかりはそれを指でそっと受け止めながら心の中で、最後の言葉を紡ぐ。
──(たけるくんは、
わたしの……人形。
“動かない”人じゃなくて、
“心で結ばれた大切な人”。)
ひかりは微笑み、
手をつないだままたけると目を合わせる。
たけるが笑う。ひかりも笑う。
二人の笑顔の上を、桜の風が駆け抜けていった。
──春の空の下で、「私の人形」という言葉が、
静かに“新しい意味”を手に入れた。
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