「半年前に帰国して今は本社勤務だそうよ」
「そうなの? 全然覚えてない」
「お正月には、みよちゃんと一緒に挨拶に来たんだけどね」
みよちゃんとは園香の母の従姉で彬くん――白川彬人の母親だ。近い親族とは言えないけど、母親同士が仲が良いのに加え、一歳違いと年も近く、さらに就職先も一緒なので何かと関わりがある。
「彬が来てくれたら助かるけど、出勤日じゃない」
「有給取ってくれると思うわよ。園香のことものすごく心配していたから」
「そうなんだ。お見舞いに来てくれたらよかったのに」
「遠慮したんでしょ? でも瑞記君は殆どいないし来て貰って大丈夫だったけどね」
母の言葉に違和感を覚えて園香は首を傾げた。
「もしかして、彬と瑞記の関係ってよくなかったの?」
「よくないって言うか、彬くんが遠慮してたのよ。既婚者の園香に親族と言っても親しくしすぎるのはよくないって。そこまで気にする必要はないと言ったんだけどね」
「そうね、意外……」
無愛想でマイペースな彼が、瑞記に気遣って園香と距離を置くなんて。
(まあそれが普通なのかもしれないけど)
ビジネスパートナーとはいえ、妻以外の女性を大切な相手だと堂々と言う瑞記の方がデリカシーがないのだ。
正直言って、瑞記の態度には失望している。
彼を好きだった記憶がなくなっていても、夫である人に大切にされていない状況に少なからず傷ついていた。
「彬には頼まなくて大丈夫だから。落ち着いたら連絡すると言っておいて」
母は心配そうにしていたけれど、渋々と言った様子で頷いた。
退院の日。結局瑞記は都合がつかないとのことで迎えには来てくれなかったが、母が彬人を連れて園香の病室にやって来た。
「お母さん?……彬まで」
来なくていいと言ってあったのに。
「思ったよりも元気そうだな」
困惑する園香の前に彬がやって来た。短髪の黒髪に涼し気な切れ長の目元。幼い頃に始めた剣道を社会人になっても続けているせいか、立ち振る舞いに隙が無くきりりとした雰囲気を醸し出している。
園香の記憶ではもう二年近く会っていないことになるが、ほとんど変わっていないように見えた。
「彬……久しぶりだね。来てくれて嬉しいけど、仕事は大丈夫なの?」
「休みをもらった。仕事の調整は出来てるから心配ない」
「そう。ごめんね、迷惑かけて」
「気にするな……荷物はそれだけか?」
彬はそう言いながら、荷物を纏めておいたボストンバッグを掴む。
「うん」
園香は頷きミニバッグを肩に掛けて立ち上がった。
その様子を眺めていた母が、僅かに首を傾げる。
「いつもと雰囲気が違うのね」
園香はシンプルな黒のワンピースを身につけている。
「瑞記に持って来てとお願いした荷物の中にこれがあったの」
彼はクローゼットから適当に持って来たのだろうが、受け取ったときに少し驚いた。
以前の自分は暗い色よりも柔らかな色味が好きだったからだ。ここ一年の間に園香の好みが変わったようだけれど、それにしては母までが知らなかったのには違和感がある。
(結婚してからはあまり実家に帰ってなかったのかな)
細かいことで不明な点が多過ぎる。
母と彬人に付き添われて病院を出る。
駐車場には見覚えのある黒いSUVが停まっていた。
彬人が後部座席のドアを開いて園香を見た。乗れという意味だ。相変わらず言葉が少ない。
「ありがとう」
「ああ」
松葉杖が邪魔になって上手く乗り込めないでいると「大丈夫か」と手助けしてくれる。無愛想だけど、優しさがない訳じゃない。
「ごめんね、迷惑かけて」
「気にするな」
彬人の運転でまずは実家に戻り母を下ろした。園香の部屋と食事の準備をして待っていてくれるそうだ。
それから横浜のマンションに向かう。
おしゃべりな母がいなくなると車内が急に静かになった気がする。
何か話しかけようかと考えながら視線を彷徨わせていると、バックミラー越しに彬人と目が合った。
「大丈夫か?」
「怪我はそこまで酷くないから……彬人は私の記憶のこと聞いてるよね?」
彬人が無言で頷いた。眉間に深く皺が寄っている。
「ここ一年くらいの出来事を覚えてないと聞いた。今でも何も思い出さないのか?」
「うん、早く思い出したいんだけどね。日常生活なんかは何も問題ないんだけど、結婚していたことまで忘れてしまったのはダメージが大きいよ」
彬人はもう園香の方は見ていなくて視線は合わない。でも話を聞いてくれているのはなんとなくわかる。
「今の家についても何も覚えてないし。自分の家に帰るだけなのに緊張してるの」
「富貴川はなんて言ってるんだ?」
「あまり深刻には考えてないみたいだけど……彬は瑞記のことを知ってるの?」
富貴川と呼び捨てた感じが、良く知った相手に対するもののように聞こえた。
「……ああ。園香と富貴川の出会いについては?」
「聞いた。父親同士が友人で仕事でも関わりがあり、その縁でのお見合いだって」
鏡の中の彬人が頷く。
「叔父さんは俺にも富貴川を紹介したんだ。それで面識がある」
「そっか……考えて見たら彬と瑞記が知り合いでもおかしくないわ」
彬人は血が遠いとはいえ親族。しかもソラオカ家具店の社員なのだから。
園香は助手席のシートを掴み身を乗り出した。
「ねえ、彬人は私と瑞記の夫婦仲について何か知ってる?」
園香の言葉に彬人は訝し気な表情になった。
「なぜそんなことを聞くんだ?」
「だって今の私は夫について殆ど何も知らない状態なんだもの。どんな夫婦だったのか、結婚前の付き合いの様子とか、私から聞いたことがあったら教えてくれない?」
「それは富貴川に聞いた方が間違いないんじゃないか?」
「……彼は仕事が忙しくてあまり顔を合わせる機会がないの」
「病室に来ないのか?」
「三回くらいは来たけど」
彬人が僅かに目を見開く。それから「叔母さんが言ってたのは大げさじゃなかったんだな」と呟いた。
しばらく何か考える様子だった彬人は「あくまで俺の主観だけど」と言いながら園香と瑞記の印象について語り始めた。
「見合いから結婚までがあまりに早くて俺は少し心配だった。でも園香は大丈夫だと言っていた。結婚を急いでいる様子に見えた」
「私が結婚を……どうしてか知ってる?」
「そこまでは聞いてない。富貴川と夫婦になりたいからだと思ってた」
彬人の意見はごく普通のものだけれど、ピンと来ない。
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