テラーノベル
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病院の待合室は静かすぎて息が詰まった。
壁の時計の秒針がやけに大きな音を立てて進んでいる気がする。
俺は椅子に深く座り込んで、床を見つめていた。
仁人は隣にいる… いるのに、距離が遠く感じた。
『…逃げてもいい?』
ぽつりと漏れた言葉に、仁人がこちらを見る。
「どこに」
『こっから』
本音だった。
何かを知るのが怖い。
忘れている自分より、 知ってしまった自分のほうが、もっと壊れそうで。
すると、仁人は少し考えてから言った。
「逃げたいなら、逃げてもいい」
その言葉に、肩の力が抜ける。
「でも、 俺はここに残る」
胸が、きゅっと締まる。
「勇斗が戻ってくるって信じてるから」
信じてる。
その言葉が今までで一番重く聞こえた。
名前が呼ばれて診察室に入る。
医師の説明は丁寧で、淡々としていた。
専門用語が並ぶ中で、俺の耳に残ったのはたった一つ。
「進行は、ゆっくりです」
ゆっくり。
それは、希望なのか、残酷なのか。
「記憶が完全になくなるわけではありません。ただ ___」
医師は言葉を選びながら続けた。
「大切な出来事ほど、抜けやすい傾向があります」
俺は思わず仁人を見た。
仁人は微動だにせず、話を聞いている。
きっと、何度も聞いた説明なんだろう。
『治る、んですか』
自分の声が、 他人みたいだった。
「完治は難しいですね。ただ、進行を抑えながら、生活することはできます」
診察室を出たあと、俺は何も言えなかった。
エレベーターに乗る。
無言のまま、下に降りていく。
外に出ると空がやけに眩しかった。
俺はやっと口を開く。
『怖ぇなぁ…笑』
正直な言葉だった。
『忘れたらどうしようって思うし、忘れないように頑張るのも、怖い…』
仁人は少しだけ間を置いて言った。
「うん」
『全部知ったら、平気な顔できなくなると思う』
仁人は、立ち止まった。
「勇斗」
名前を呼ばれて、振り向く。
「俺がさ ずっと黙ってたのは、勇斗が笑えなくなるのが嫌だったから」
少しだけ震える仁人の声は、初めて聞く本音だった。
「勇斗は、前だけ見て走るでしょ?」
昔と同じ言い方だった。
「俺は、その背中を見るのが好きだった。 でも、今は…」
仁人は一歩近づく。
「一緒に止まっていいんじゃないの?」
その言葉で何かが崩れた。
俺は俯いて言う。
『…俺、一人で背負うの無理だわ』
情けない声だった。
「だから… 一緒に覚えててほしい、」
仁人は 驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。
「最初からそのつもりだわ、笑」
そう言って、俺の肩に手を置く。
その温もりに胸がいっぱいになった。
「別に忘れてもいいから」
仁人は はっきり言った。
「その代わり、戻ってきたらまた同じ話しよ」
何度でも。
「俺が、全部覚えてる」
それは、重い言葉のはずなのに不思議と救われた。
____信用できなかったのは、俺だった。
でも、今は違う。
俺は仁人を信じたい。
そして、自分が戻ってくる場所がここにあるって信じたい。
その夜、家に帰ってノートを開いた。
一番最初のページにこう書いた。
"俺は、佐野勇斗。 隣には、吉田仁人がいる"
それだけで少しだけ安心できた。
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