DMを受け取った誕生日から、私の生活は一変した。
都内一等地のタワーマンションの一室。隅々まで掃除が行き届いた広いリビングのローテーブルの前に座り、私はノートパソコンの画面を食い入るように見つめた。
『皆さん、こんにちは! SELENです』
これは録画映像だ。銀髪の美女が笑顔で手を振っている。私は動画を少し戻しては再生する行為を繰り返した。記憶して、卓上鏡に向けて動画と同じように動く。
「皆さん、こんにちは! SELENです」
動きと表情は完璧に再現できている。ありがたいことに私とSELENは声質も似ているらしく、録音して自分の声を確認してみると違和感はなかった。
私は立ち上がり、部屋の隅に置かれた全身鏡を覗き込んだ。真っ直ぐでつやつやした銀色のロングヘアに、青いカラコンを入れたぱっちりした瞳。小さな顔に透き通るような色白の肌、華奢な体つき。SELENそのものだ。
佐藤との電話が終わったあと、私はCalculate GmbHとの契約に同意した。話は驚くほどスムーズに進んで、メールで送られてきた電子契約書にサインした。数日後には小包で鍵が届き、LINEで新しい住所が送られてきた。私はCalculate GmbHが手配してくれた引っ越し業者に荷物を預けて、支給された交通費で現地へ向かった。辿り着いた先はタワーマンションの一室だった。
コンビニの仕事は、Calculate GmbHが退職手続きを済ませてくれた。東京に移った私は、インストラクターと管理栄養士がついたプライベートダイエットプログラムに毎日取り組むようになった。肌の治療や、髪型の変更、そして二重整形もした。目標体重に到達したのは一週間前のことで、契約から三ヶ月が経過していた。その間はCalculate GmbHが生活費として毎月一〇〇万円を振り込んでくれた。私の貧乏汚部屋暮らしは影も形もなく終わった。そして今日、遂に本番だ──。
夕方、私は送迎車に乗り込んでテレビ局を訪れた。スタッフさんたちが迎えてくれて、案内に従って控室に入った。ここで待機するよう説明を受け、今日のシミュレーションが頭の中をぐるぐる巡っているうちにあっという間に時間はきてしまった。
「どうしよう」
一人でスタジオに向かっている途中、私は緊張しすぎて廊下の端にしゃがんだ。
自己肯定感がとてつもなく低い私だ。SELENの容姿になったとはいえ、テレビに出て他人の視線に晒されるのは怖い。練習のときの強気さは影を潜めてしまった。情けなくて顔から火が出そうだ。
「大丈夫ですか!?」
通りすがりの誰かが、落ち込んでいる私のところに小走りで近寄ってきた。顔を上げると、明るい髪の爽やかな雰囲気の青年がしゃがんだ。年は私と同じくらいだろう。トレーナーとジーンズというラフな服装だから、ADさんかもしれない。
「大丈夫です。すみません」
「大丈夫には見えないけど」
彼は私の顔を覗き込んできた。やめてほしい。他人にパーソナルスペースに入られるのも、まだ怖いというのに。
「緊張してしまっただけです」
どもってしまった。恥ずかしい。
「失礼なこと聞くけど、芸能人?」
「芸能人というか……インフルエンサーです……多分……? 私には何の特技もないので……周りの人たちのおかげです」
情けないくらい弱々しく言うと、反応に困ったのか相手は指で頬をかいた。
「気を遣わせてすみません」
「別にいいよ。もしかしてテレビは初めて?」
「はい。だから怖くなりました」
私は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
「皆そんなもんだから、心配しなさんなって」
青年は私の肩にポンと手を置いて、明るい口調で言った。
「緊張して腹壊してたアイドルもいるし、楽屋で鬱っぽくなって泣いてたおバカ系タレントもいるし」
「本当ですか?」
芸能人というのは皆、強い性格だと思っていた。
「そうそう。君だけじゃない。だから不安がらずに、今を楽しめ」
「今を楽しむ?」
「そう。初出演は人生で一回だけ。二度と経験できない特別な瞬間だ。楽しまないと損だろ?」
青年は、犬のような屈託のない笑顔で親指を立てている。彼のおかげで緊張がほぐれたらしい。まだ足は震えるが、立ち上がることができた。やらなければいけない。私はSELENの影武者を引き受ける代わりに特別な生活が与えられたのだから。
「……行きます」
「おー。行ってらっしゃい」
事前の打ち合わせの通り、拍手に迎えられてスポットライトに照らされたスタジオに出ると、司会を務めるお笑いコンビが話を振ってくれた。手は震えているが、動揺していることを悟られないように表情を作った。
「SELENさんは、インフルエンサーということで──ええ!? 嘘、インスタに三五〇万人もフォロワーおんの!? 俺ですら二〇万とかやのに」
「はい」
「何でなん!? 週三で家にくるおっさんがバックにおるやろ!」
ボケ担当の司会者がそう言うと、スタジオの観客たちやひな壇に座る芸人やタレントたちから笑い声が上がり、もう一人の司会者であるツッコミ担当が彼の頭をはたいた。
「投げ銭ってそんなに稼げるん?」
「先月は投げ銭だけで二〇〇万円の収入でした」
歓声が上がり、『Z世代に大人気 インフルエンサーSELENとは何者か』という紹介動画が流れた。この時間は喋らなくて済むから楽だった。紹介動画が終わった後は再び自分にカメラが向いて大変だったが、司会者二人は『こいつは喋れないだろう』と予想していたのかもしれない。沈黙になりそうになる都度何かを言い、笑いが起きるように盛り上げてくれた。
司会者の力で収録は無事に終えることができたが、私は安堵したのと同時に後悔に襲われた。
「喋れるようにならないと……」
このままでは周囲に『SNSと配信だけやればいいのに』と、思われてしまう。満足はできなかったが、放送終了直後の反響は大きかった。SELENがテレビ番組に登場したのはこれが初めてだった。インターネット上の視聴者の投稿でも視聴率の部分でも大きな話題となり、エックスのトレンド入りも果たした。
私は夜に帰宅して、ローテーブルの上に置いたノートパソコンを起動した。するとどこもクリックしていないのに私とそっくりな声が響いた。
『瀬理奈、お疲れ様』
画面が勝手に切り替わって、ビデオチャットアプリが開かれた。私が暮らしているタワーマンションとまったく同じ内装を背景に、まったく同じ位置に座っているSELENが映っている。
「私、大丈夫だった? SELENに見えた?」
『うん。私に瓜二つだった。代わりにお仕事してくれてありがとう』
「緊張しちゃってあんまり喋れなかった」
『最初はそんなものだよ。慣れれば大丈夫』
「うん。頑張る」
『瀬理奈の次のお仕事は東京モデルコレクションだね』
「あ、うん……」
『どうしたの? 泣きそうな顔になっているよ』
「東京モデルコレクションって、アイドルたちも出演するでしょう?」
『一〇代の子たちに支持されている子たちが呼ばれるからね』
「……御崎天音」
私の手が震えた。グッと拳を握ってみても止まらない。
『ああ~。御崎天音ね!』
SELENが眉をひそめた。
『高校時代に瀬理奈をいじめていた、すっごく性格悪い子だよね?』
「うん。あの子、大人気アイドルグループの追加メンバーになって売れているから──」
東京モデルコレクションで、歌唱パフォーマンスのゲストに呼ばれているらしい。
天音は先月、SNSでの自撮り投稿がバズり、『清楚な天使系アイドル』と称賛されて人気に火がついた。マンガ雑誌の表紙を飾ったり、バラエティ番組に出たり、飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。学校ではオタクのことをバカにしていたくせに、アイドルとして売れるために『ポンコツオタク』『恋愛をしたことない陰キャ』という設定で売り出している。
『天音と再会するのが怖い?』
「うーん。自分のことなのに、わからない」
『天音よりSELENのほうが、フォロワー数が多いし人気者だよ』
「うん」
『瀬理奈、落ち込まないで』
「天音は自分の力でここまできたでしょう? でも私は、あなたの……」
私は溜息を吐いた。
「AIであるあなたができない、身体が必要な仕事を、代わりをしているだけだから」
SELENという存在は、実在しない。
インフルエンサーとして人気に火がついたが、実はその正体はAIなのだ。生成AIの技術進化が話題になって以降、AIグラビアアイドルやAIモデルなどが登場してそれなりに肯定されているし、AIインフルエンサーという立場が悪いわけではない。問題は、SELENが最初から『人間』として売り出されたことだ。今になって『本当はAIです』と、明かすことはできないのだという。
SELENが人気を維持したまま人間のフリを続けるには、課題がある。SNSや配信なら身体がなくてもできるが、テレビやショーなど身体が必要な仕事を断り続けると人気に陰りが出る可能性がある。けれども、インターネットの世界にしか形が存在しないAIが現場に行けるわけがない。それで私に白羽の矢が立った。私に求められたのは、現場で演技してSELENのフリをする影武者としての役割だった。ダイエットに取り組み、お金をかけて容姿を整えた。
かつての私はデブだったからわからなかったが、私の生まれ持った骨格は佐藤が言った通り本当にSELENとそっくりだった。目元は違ったから二重整形はしたが、逆にいうとメスを入れた部分はそこだけなのだ。あとはメイクをしっかり施すだけで同一人物に見える水準に完成した。
『人間にはね、世に出る時期とそうではない時期があるの。焦らないで。天音は丁度世に出る時期の人間だっただけ。本当の勝負はこれからだよ』
AIであるSELENに『人間』について語られて励まされ、私は苦笑した。SELENには最新の技術が導入されているらしく、本当に感情があるかのように受け答えができる。SELENの場合は、Vtuberのように中に人間がいるわけではなく、SELEN自身が考えて受け答えをしているらしい。そして動作も自分で決めているのだという。そんなのもう、画面から出られないだけで、人間ではないだろうか。
「ありがとう。東京モデルコレクション、頑張ってみるよ」
◆◆◆
「あんッ」
男が『自分のテクニック』に自信を持ちそうなポイントでわざと感じたフリをして、わたしは声を出した。それを受けて腰の動きが速くなったから、さらに感じたフリをして相手にキスをした。
「……ちゅぷっ……あむっ……」
今わたしが濡れている理由は、この男ではない。わたしはわたしの演技力に酔っている。
──わたし、サイコー。
そう思った瞬間、わたしは身体をビクつかせてイッていた。
事を終えてシャワーを浴び、バスローブ姿で窓の前の椅子に腰かけてシャンパンを仰いだ。
高級ホテルの高層階。東京の夜景が輝いて、全てを手にしたかのような気持ちになれる。
「華蓮、今日もよかったよ」
「わたしも! 大八木さんエッチうますぎ」
俳優はいくらでも嘘を吐ける。それが仕事だから。
大八木はテレビ局のプロデューサーで権力者たちと繋がりがあるし、自局の番組へのキャスティング権を持っているから寝ただけ。こいつに魅力なんて、一つもない。利用価値がなくなれば、こんな四〇前半の男すぐに捨てる。
大八木はトランクス一枚でスマホを耳に当て、電話を始めた。
「ごめん、今日は家に帰れそうにないんだ。うん。そう、仕事で。舞子はもう寝たか? そっか幼稚園でいい子だったのか。週末はパパが帰るからって伝えといてくれ」
電話を切った大八木が、わたしに近付いてキスをした。
──クズが。キモイんだよ。ちんちん切られて死ねよ。
本音はそうでも、利用価値があるうちは死んでもらっては困る。
「来週の東京モデルコレクション、俺も見に行くから」
「大八木さんのおかげでメインゲストとして出演できて嬉しいわ」
「華蓮は才能があるんだから当然の待遇だろ。まあ、今回はちょっと大変だったけど」
「何が?」
「SELENをメインにしろって意見が多くて」
「へえ。確かこの間テレビに初出演したインフルエンサーよね?」
「そうそう。視聴者からの反響が凄まじいらしくて、今日も広告をSELENメインに変更しろって言われて断るのが大変だった。SELENに負けないように頑張ってくれよ。俺の華蓮」
わたしは大八木に抱き締められながら窓の外を見た。東京の夜景を見下ろす人生なんて、かつてのわたしにはありえなかった。過去の場に、再び落ちたくはない。
「じゃあ俺、シャワー浴びたら局に戻るから」
「うん。寂しいけど、またね」
シャワーの音がかすかに聴こえてきたところで、気を取り直してシャンパンを一気飲みした。
越乃華蓮──わたしの芸名であり本名だ。
一四歳で芸能事務所にスカウトされて女優になったが、鳴かず飛ばずの日々を過ごした。
二〇歳の誕生日を迎えた頃、遂に所属事務所からも見捨てられたが、『とある会社』が連絡をくれて引き受けておかげでやっと売れた。日常でも仕事でも惨めな底辺を味わった経験があるわたしは、ちょっとちやほやされてきただけの苦労知らずな女たちより強い。
さて、SELENの正体は、どちら側か?
わたしはスマホでSELENのインスタを開いた。
「……負けないから」
この世界、負けたら終わりだ。この女にも、絶対に勝たなければいけない──。
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