大八木がいなくなった後、わたしはホテルの部屋で引き続きスマホに釘付けになっていた。
エックスでもインスタでも、『SELEN』と検索すると大量に情報が出てくる。トレンド入りもしている。イライラして親指の爪を噛んでしまった。爪が汚くなるからやめなければいけないのに。
そのとき、LINEのテレビ電話が鳴った。発信元の名前は『華蓮』となっている。
『華蓮、爪を噛んではダメよ』
通話を開始すると、画面にはわたしが住んでいるタワーマンションの一室と、わたしと瓜二つの容姿をした存在が映った。
「ねえ、華蓮」
自分と同じ名前を呼びかける違和感には、もう慣れた。
『何?』
「SELENを倒したい」
『コツコツ仕事に取り組んでいくしかないわ』
「SELENはAIで、テレビやショーに出るのは影武者でしょう?」
『ええ。そうね』
「それ、どんな奴? 甘ちゃんのお嬢様じゃないわよね?」
『SELENの影武者を気にするより、自分のことに集中しましょう』
おっしゃる通りだが、焦燥感で落ち着けない。わたしと同じようにCalculate GmbHにマネジメントされているSELENは、生身の芸能人より強力な敵だろう。
「わたし、一番になりたい」
『あなたには一番になれる可能性があるわ』
「本当にそう思う?」
『ええ。保証するわ』
他の誰に保証されるより、安心できる。
『SELENは先にAIが生まれたけど、わたしは違う。売れない俳優だったあなたをスカウトして、あなたを売るためにわたしが生まれた』
売れる方法を研究しようとSNSをいじっていたとき、Calculate GmbHの佐藤という男からDMが届いた。わたしをモデルにAIを生成し、わたしの代わりにSNSや配信をさせて人気にするという話だった。胡散臭いと思ったが、藁にも縋る思いで承諾したら本当に人気に火がついた。どれだけ努力しても越えられなかった壁は、AIの力でいとも簡単に越えた。
佐藤いわく、AIは膨大なデータを基に売れるアプローチと立ち回りを瞬時に判断できるから、らしい。それに生身の人間と違って、悪意のあるコメントやアンチに傷付く感情がない。完全分業で、身体が必要な仕事はわたし本体に、SNSや配信などAIだけでできる仕事はAIにと指示された。
この業界にいると嫌でも知るが、嫉妬や敵意による攻撃のせいで精神を病んで消えた子たちは枚挙にいとまないし、このシステムはとてもいいと思った。
『東京モデルコレクションで、精一杯頑張りましょう』
「ええ」
『ところで華蓮。次のドラマの台本は覚えたかしら? 一緒に練習しましょう』
「ええ」
わたしは画面越しに微笑んでいるわたしに向けて、頷いた。
わたしは全てを懸けて──ここまで上がった。
売れるためにセックスした相手は大八木だけではない。ライバルに消えて欲しくてイライラすることはあっても、やってきたことに傷付いたり苦しんだりすることはない。わたしは俳優だから。表現の世界で『他人になれる』ということは、本質は無色でしかないのだ。何色でもないから、いくらでも色を載せられる。芸能界で勝つためにセックスしているわたしは、青か赤かわからないけれど、色のついたわたし。わたしと同じようなことをしてストレスで壊れて芸能界を引退したり、同意していたくせに枕を強要されたと後で嘘を吐いて週刊誌に金をもらったりする奴もいる。彼女たちは傷付き、怒って、暴走し、全てを掴もうとしてやった行為で破滅する。本質に色があって、自分のままで行動してしまったせいだ。
その時点で、彼女たちに俳優の才能はなかったのかもしれない。早めにわかってよかったじゃないか。私は無色だから──絶対に傷付かない。
◆◆◆
一月上旬──。
代々木競技場で、『東京モデルコレクション』が開催された。敷地内でタクシーを降りて関係者専用入口に向かっていると、大きなダンボールを抱えている女性が目に留まった。重いのかノロノロ歩いている。フラフラしていて今にもダンボールを落としてしまいそうだ。トレーナーにキャップというカジュアルな服装だし、体形もモデルっぽくないからスタッフさんだと思う。
私の背後にいたスラリとした綺麗な女性二人組が、私の横を通り過ぎるときに、小声でヒソヒソ喋っているのが聞こえてきた。
「雑用の仕事なんて、何が面白くてやってるんだろうね」
「芸能人にはなれないけど、華やかな業界にいたいんじゃない?」
「あんな醜い体形に生まれなくてよかった」
クスクス笑いながら自分の横を通り過ぎた女性たちに向かって、ダンボールを運んでいる彼女は「おはようございます」と挨拶したが、女性たちは無視して行ってしまった。
代わりに私が彼女に近づいて、「おはようございます」と返事して、手を差し出してダンボールを支えた。予想していたよりずっと重い。一人で運んでいたなんて、大変だっただろう。
「え!?」
「運ぶのを手伝います」
「いやいやいや!」
彼女は慌てて首を振った。
「どこまで運べばいいですか?」
「SELENさんですよね!? 出演者にこんなことさせるわけにはいきません!」
必死で首を振り続ける彼女に、私は正直に本音を伝えた。
「私としてはこのままここで押し問答して止まっているより、運んでしまったほうが楽です」
そこまで言うと観念したのか、彼女は歩き出してくれた。私たちは関係者入口の端にダンボールを下ろした。
「SELENさん、ごめんなさい」
「いえ、慣れていますから」
「慣れている?」
きょとんとしている彼女を見て、私は慌てた。SELENはプライベートの多くを隠しているインフルエンサーだ。コンビニの品出しを経験しているから重いものを運ぶことに慣れているなんて言えない。
「あ、ていうか、控室にご案内します!」
私は彼女の後について、控室に向かった。
出演者は一〇〇名を超えるから、メイン扱いでも個室を与えられず大部屋でメイクや衣装合わせをする。だから人が溢れ返っていて、私は戸惑った。案内してくれた彼女は仕事中だから立ち去ってしまい、私は一人で足を踏み入れなければいけなかった。
照明に縁取られたいわゆる女優ミラーがたくさん並び、ハンガーラックが何台も置いてあって衣装がかけられている。靴も販売店以上といえそうなくらい並んでいる。私にはマネージャーがいない。傍についていてくれる人がいなくて、心細くなった。
「きゃっ」
肩に衝撃が走った。ぶつかってきた相手を見ると、父親がヨーロッパ人の有名なハーフモデルだった。私が肩を押さえると、彼女は信じられないことに──
「ちっ。邪魔なんだよ。突っ立ってんじゃねーよ!」
と、吐き捨ててその場を後にした。傷つく以前に状況を理解できなくて、私はぽかんと口を開けたまま彼女の背中を見送るしかできなかった。だって、テレビやSNSで見る彼女は謙虚で優しい。まるで別人みたいだが、彼女だけではなかった。清純アイドルがヤンキーのような態度で後輩に悪態を吐いていたり、デキる大人の女で売っているモデルが大口を開けてガハハと笑っていたり。どれもこれも私が知っている姿ではない。
嘘ばかり──。
そんな言葉が頭をよぎったとき、二度と聞きたくない声が耳に届いた。
「前髪命なんだからぁ、崩れないように固めてねぇ」
他の出演者たちも各々自由に喋っているのに、あの声だけは集団にかき消されなくてピンポイントで聞こえてしまう。それくらい、私はまだ過去の苦しみの呪縛の中にいる。声のほうを見ると、案の定──天音がいた。ヘアメイク中だ。天音は鏡を見ることに必死で、私の存在に気付いていない。
私はかつて、天音から殴られ、蹴られ、暴言を吐かれた。気にしないように努めたが、傷付いて、心は確実に死んでいった。
「はあ……はあ……」
呼吸が苦しくなり、私はその場から逃げ出した。近くの資材室に駆け込んでドアと鍵を閉めて、床に倒れ込んだ。スマホを開いてLINEのテレビ電話でSELENを呼び出すと、すぐに繋がった。
『瀬理奈!? どうしたの!?』
「あの子が……天音が……」
私の頬を涙が伝っていた。
『泣いたらまぶたがむくむから、堪えて』
「でも……」
『プロとして与えられた仕事を完遂するの』
「私に……できるかな……」
『できる。それにね、最高に可愛い姿で注目を奪うのが天音への一番の復讐だよ』
復讐──。そういうのは人前で恥をかかせて破滅させたり、暴力でやり返したりというイメージがあった。相手に危害を加えずに、立場が上になることで実現する復讐。そんなものがあるなんて、今この瞬間まで考えたこともなかった。
「でも私、自信が──」
ない。と、言い切る前に物音がして、慌ててテレビ電話を切った。
「大丈夫?」
そう言って何かの舞台のセットらしい大道具の陰から現れたのは、黒髪の青年だった。背が高く、美形で、華やかで、どこかで見たことがある。
「あ」
思い出した。
ドラマや映画に引っ張りだこ。主演から重要な脇役まで見事に表現し、演技派イケメンと言われている二五歳の売れっ子俳優。東京モデルコレクションの出演者にも名を連ねる、海神瑠加だ。
「あれ!?」
見惚れていたら彼がグイッと身体を寄せてきて、私はびっくりしてのけぞった。
「SELENちゃん!?」
人懐っこい笑顔で手を握られた。
「え、はい」
「俺、SELENちゃんの大ファン。インスタもフォローしているけど、知っている?」
「いえ」
私はSELENの影武者だから、SNSや配信のアカウントは操作しない。誰がSELENのことをフォローしているのか知らないのだ。
「SELENちゃんって女性しかフォローしていないけど、噂を避けたいから?」
「えーっと」
知らないから確認したいが、SELENである私が彼の前で『SELEN』と通話するわけにはいかない。
「嫌じゃなかったら、フォロー返してくれる? そしたらDM送れるようになるから」
「いえ、あの」
私はどもってオドオドして、恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
「どうしたの?」
「DMはできないです」
言えた。よかった。私は特に若い男性に対して人見知りが激しく緊張しやすいが、相手の目を見なければ何とか会話はできる。
「事務所のルール?」
「そんな感じです」
「それならLINEを交換しない?」
「え……?」
「事務所に内緒だったらいいよね?」
そもそもCalculate GmbHからは、そういうルールは何も言われていない。私は黙ってしまった。
「押しが強すぎた?」
「いえ」
「SELENちゃんがあまりにも可愛すぎるから、俺必死になっちゃって」
「可愛……すぎる……?」
「本当にびっくりした。実物は画面越しより可愛いから」
いつもブスブス言われていた私が、イケメン俳優から容姿を褒められている。もちろんSELENの容姿は世の中の人々から褒められまくっているわけだが、私個人として肌で実感したのはこれが初めてだった。私の顔はみるみる赤くなり、恥ずかしさで逃げ出したくなった。
「で、やっぱりLINE、無理かな?」
「無理じゃ……ないです」
私は震える手でLINEの画面を出し、海神瑠加と連絡先を交換した。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!