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#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

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木風
791
#サレ妻
都築七美
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恭平が帰ってきたのは、夜九時だった。
「午後は査定に立ち会ってから、そのまま仕事だった。飯」
「温めます」
真尋は、何も言わなかった。神社の前の横断歩道のことも、家具店の紙袋のことも、腕のことも。恭平は手に何も持っていなかった。紙袋は、どこかに置いてきたのだろう。
結衣は八時に寝た。着物は畳んで、返す袋に入れてある。千歳飴の袋だけが、テーブルの端に残っていた。
恭平は味噌汁を飲みながら、スマホを見て、それから言った。
「査定、出た。二千九百八十万だ」
「そう」
「来週、内覧を入れる。買いたいって客がいれば、年内に話がつく。お前は掃除しとけ」
真尋は、台所の引き出しから、紙を三枚出した。食卓の、恭平の茶碗の横に置く。
「これ、何だ」
「机上査定です。駅前の不動産屋、二軒。土曜の昼にメールで届いたので、コンビニで印刷しました」
一枚目。『査定価格 2,580万円〜2,620万円』。
二枚目。『査定価格 2,600万円〜2,650万円』。
恭平は紙を見て、鼻で笑った。
「よそはそんなもんだ。うちは自社の仲介で、上限で出す」
「上限、なんですね」
真尋は三枚目を置いた。住宅ローンの返済予定表。今月の返済のあとの残高の欄に、指を置く。
『28,900,000』
「二千八百九十万円。先週、言いました」
「で?」
「二千五百八十万円で売れたら、二千八百九十万円に、三百十万円足りません。二千六百五十万円で売れても、二百四十万円足りない。ローンを返し切れないと、家は売れません。足りない分は、現金で用意するしかない。それと、仲介の手数料も要ります。二千九百八十万円で売れたとしても、手数料を引けば残りません。私の頭金の二百万円も、戻りません」
恭平は箸を置いた。
「うちの査定は二千九百八十だ。それで売れば、九十万残る」
「あなたの会社の仲介の人にも、電話で聞きました。木曜に。会社の名前を言わずに、この辺りの築九年の建売はいくらで出すものですか、と。『まず二千六百前後から。二千九百は、よほど条件がよくないと』と言われました」
「お前、俺の会社に電話したのか」
「お客として、一般的な話を聞いただけです」
恭平の頬が、少し動いた。
「パートが、生意気に」
真尋は、その言葉を聞いて、四枚目を置いた。
『給与所得の源泉徴収票』。去年の分。支払金額の欄。
『7,210,000』
恭平が、紙を見た。それから、真尋を見た。
「どこで」
「去年の年末、ローン控除の書類をそろえたときに、あなたが出したコピーです。私が保管していました」
車のことは、言わなかった。
「去年の年収、七百二十一万円。三年前、あなたが課長になった年の年収は、六百十八万円でした。あの年の源泉徴収票は、年末調整のときに私が見ています。あの年を最後に、見せてもらっていません。百三万円、増えている」
「それが何だ」
「でも、家計への振込は、三年前の十月から、三十三万円が二十八万円に減りました。あなたが『下期からボーナスの計算が変わった。残業も減らされた』と言ったので、私は食費を月一万円削りました」
真尋は、源泉徴収票の『7,210,000』を、もう一度指で押さえた。
「ボーナスが減ったって言ったのは、何だったの」
恭平は答えなかった。
テレビはついていない。冷蔵庫の音だけがした。
真尋は続けた。声は、大きくしなかった。
「売っても足りない二百四十万円。あなたは、どこから出すの。学資保険みたいに、何か解約する?」
恭平が立ち上がった。椅子が後ろに下がって、床を擦る音がした。
真尋は、椅子に座ったまま、恭平を見上げた。横断歩道の向こうで笑っていた顔が、今、目の前にある。ここで言うことは、数字だけだと決めていた。
恭平は、しばらく立っていた。それから言った。
「……売らない」
真尋は、何も言わなかった。
「売らない。今は、売らない」
恭平は紙を四枚、乱暴にまとめて、真尋のほうに押し返した。
「その代わりだ。来月から、生活費は俺が渡す分だけでやれ。食費と結衣の分。光熱費もローンも、俺が払う。全部、俺の口座から直接だ」
「分かりました」
「通帳とカード、出せ。家計の口座のだ。あれは俺の名義だ。俺が持つ」
真尋は、少し間を置いた。
家計口座の名義は、恭平だ。九年間、真尋が通帳を持ち、カードを持ち、二十五日に振込を確かめ、二十七日に引き落としを確かめてきた。ただ、名義は恭平だ。恭平が「出せ」と言えば、出さない理由を、真尋は持たない。
あの通帳の中身は、百六十二ページ、全部、写真にしてある。
「お願いします。二十七日の引き落としだけは、止めないで。ローンと、光熱費」
「言われなくても払う。出せ」
真尋は、押し返された四枚の紙を、順番どおりにそろえた。査定の書面二枚、返済予定表、源泉徴収票。家計簿の九冊目を開いて、余白に書く。
『11/15 21:40 恭平「売らない」。通帳・カード(家計口座)を恭平に渡す。写真162枚は手元』
恭平が、書き終わるのを待っていた。手のひらを上に向けて。
真尋は立って、食器棚の下の段を開けた。七冊の通帳と、一枚のカード。輪ゴムを外して、まとめる。
真尋は、その手のひらに、通帳とカードを置いた。
コピーは取ってあります、とは言わなかった。
コメント
1件
ああ、心臓がギュッてなった……。真尋が源泉徴収票と返済予定表を目の前に並べて、数字で理詰めで追い詰めていく場面、鳥肌立ったわ。恭平が「売らない」って言い出したときの空気感もえぐい。通帳の写真162枚分の蓄積、コピーあるとは言わなかったラストの一文がもうね。9年分の静かな抵抗って感じで痺れた。続きめっちゃ気になる!