テラーノベル
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その映画館には、座席がたったの「二つ」しかなかった。 海を見下ろす丘の斜面に建つ、古い洋館。そこを改装した私設映画館「シネマ・アルペジオ」は、完全予約制で、しかも『無声映画(サイレント映画)』しか上映しないという、時代遅れを絵に描いたような場所だった。 大学で映画音楽を専攻している五島 遥馬(ごとう はるま)がその館を見つけたのは、卒業制作のテーマに行き詰まり、あてもなく乗ったローカル線に揺られていた時だった。 館内に足を踏み入れると、懐かしい木と古いフィルムの匂いが鼻腔をくすぐる。そして何より遥馬の目を引いたのは、スクリーン のすぐ真下に置かれた、使い込まれたアップライトピアノだった。「うちの上映には、音がないんだよ。昔は弁士やピアニストがその場で音をつけていたんだがね」 白髪の館長はそう言って寂しそうに微笑んだ。 誰もいない暗闇の中、カタカタとプロジェクターの音が響き、古い白黒の映画がスクリーンに映し出される。 1920年代のフランスの恋愛映画。セリフの字幕すらほとんどない、光と影だけの世界。 遥馬は衝動に駆られ、館長に許可をもらってピアノの前に座った。鍵盤にそっと指を触れ、スクリーンの登場人物たちの視線、手の動き、風に揺れるドレスに合わせて、即興でメロディを紡ぎ始める。 切ない恋の別れのシーン。遥馬が短調の繊細なアルペジオを響かせた時、背後の客席から、小さく息を呑む気配が聞こえた。 演奏を終え、館内が明るくなる。 たった二つしかない座席の片方に、一人の女性が座っていた。 白いリネンのワンピースを着た、どこか儚げな雰囲気をまとった人。彼女は目元を少し赤くしながら、ピアノの前にいる遥馬を見つめ、声を出さずに、ただ深く、丁寧に頭を下げた。 それが、遥馬と「一ノ瀬 紬(いちのせ つむぎ)」の、音のない出会いだった。 * 紬は、生まれつき耳が聞こえなかった。 それを知ったのは、二回目に「シネマ・アルペジオ」で彼女と会った時だった。彼女は小さなノートを取り出し、すらすらと文字を書いて遥馬に見せてくれたのだ。『先週は素敵な演奏をありがとうございました。私は耳が聞こえませんが、あなたの弾くピアノの振動が、床やお腹を通じて、映画の登場人物たちの「心の声」みたいに伝わってきました』 遥馬は胸を衝かれた。耳の聞こえない彼女が、自分の音楽を誰よりも深く「聴いて」くれた。 それから、毎週土曜日の午後、二人の特別な上映会が始まった。 上映されるのはいつも、言葉のない無声映画。遥馬は紬のためにピアノを弾いた。 ただ音を鳴らすのではない。彼女が座る座席に心地よい響きが届くよう、低音の響かせ方を工夫し、鍵盤を叩くタッチをより明確にした。 スクリーンの中で恋人たちが微笑めば、鍵盤の上で軽やかなスタッカートが踊る。二人がすれ違えば、重く切ない低音が床を震わせる。 紬はいつも、演奏する遥馬の手元と、スクリーンを交互に見つめていた。音楽を通じて、二人の心は言葉を超えて深く繋がっていった。 遥馬はいつしか、スクリーンではなく、ピアノの鏡面に映る彼女の横顔ばかりを見るようになっていた。彼女の驚いたような目、嬉しそうな笑顔。そのすべてが、遥馬にとっての新しい「五線譜」になっていった。 けれど、楽しい時間は長くは続かない。 秋が深まる頃、館長から「シネマ・アルペジオ」が建物の老朽化で今月末に閉館することを聞かされた。さらに、紬のノートには、衝撃的な言葉が綴られていた。『来月から、海外の専門学校に留学することになりました。もう、ここへは来られなくなります』 遥馬の手が、鍵盤の上でピタリと止まった。 遠く離れてしまえば、もう彼女に自分の音を届けることはできない。彼女の「聴く」世界から、自分が完全に消えてしまう。その恐怖に、遥馬は引き裂かれそうだった。 * 閉館、そして最後の上映日の夜。 館内は暗転し、スクリーンには二人が何度も見た、あのフランスの恋愛映画が映し出された。 客席には、紬が一人だけ座っている。 遥馬はピアノの前に立ち、鍵盤を見つめた。これが最後の演奏。 映画が始まり、遥馬は指を動かした。しかし、これまでの即興演奏とは明らかに違っていた。 彼が奏でたのは、この数ヶ月間、紬のことだけを想って作り続けた、卒業制作の曲――『紬(つむぎ)のワルツ』。 言葉にできない「好きだ」という気持ち、離れたくないという願い、出会えたことへの感謝。そのすべての感情を、一音一音に込めて、激しく、激しく鍵盤を叩いた。 低音が床を激しく揺らし、高音が空気の粒子を震わせる。 映画のクライマックス、主人公とヒロインが嵐の中で強く抱き合うシーン。 遥馬の演奏は最高潮に達した。体中のエネルギーを指先に集め、ピアノ全体を鳴らすような、圧倒的な和音を響かせる。 その瞬間、客席の紬がハッと目を見開いた。 彼女の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出す。床から、空気から、彼女の肌を突き抜けて、遥馬の「叫び」のような想いが、彼女の心の鼓膜を直接震わせたのだ。 静かに、最後の音が消え入る。映画のエンディングロールが流れ、館内に明かりが灯った。 遥馬はゆっくりと立ち上がり、客席の紬の元へ歩み寄った。 紬は泣いていた。彼女は震える手でノートを開き、ペンを走らせようとしたが、遥馬はその手を優しく止めた。 ノートはいらない。 遥馬は紬の目を真っ直ぐに見つめ、一語一語、大きく口元を動かしながら、そして手話の本で覚えた拙いジェスチャーを交えて、体全体で伝えた。「つむぎちゃん。僕、君が好きだ」 紬は息を呑んだ。「耳が聞こえなくても関係ない。世界がどれだけ離れても、僕は君のためだけに、一生音楽を作り続ける。だから……僕の音を、これからもずっと、君の心で聴いていてほしい」 紬はボロボロと涙を流しながら、何度も、何度も激しく頷いた。 彼女はノートとペンを床に落とすと、遥馬の胸に顔を埋めた。 耳の聞こえない彼女の世界には、今、間違いなく、遥馬の紡いだ愛のメロディが世界で一番大きな音で鳴り響いていた。二人の恋は、言葉も音も超えて、永遠のシネマのように、未来へ向かって上映され始めたのだった。
コメント
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うわあ…読み終えて、心がじんわり震えてます🕊️🤍 耳の聞こえない紬ちゃんに「振動」で届ける遥馬くんの想い、切なくて美しすぎました。最後の『紬のワルツ』で、言葉じゃなくて音の全部で「好きだ」って叫ぶシーン、涙が止まらなかったです… 二人の恋が、音も言葉も超えて永遠に続きますように。本当に素敵な物語、ありがとうございます🌙