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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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年が明けて、大正十二年になった。
あの日から、二月近くが過ぎていた。
屋敷に戻った私を、使用人たちは遠巻きにした。
廊下ですれ違うと、ハナさんもキヨさんも、目を伏せて道をあける。私が通ったあとで、ひそひそと声がする。『帝都夜話』は、あれからも週に一度、侯爵家の三人目の噂を書き立てていた。女中部屋に、誰かがそれを持ちこんでいるらしかった。
真柴さんだけが、何ひとつ変わらなかった。
「奥様、おはようございます。今朝は冷えますな」
その穏やかな声が、いちばん冷たく聞こえた。
十二月に一度、鬼塚警部補が来た。
宇佐美先生の件は、年の内に、服毒自殺として書類が閉じられたという。
「閉じたのは、上です。私の手帳は、閉じとりません」
警部補は、それだけ言って、帽子を取らずに帰っていった。
タキさんは、まだ目を覚まさなかった。
女中部屋の隅の布団で、浅い息を繰り返している。私は毎朝、洋館の厨房で湯を沸かして、タキさんの顔と手を拭いた。
固く握りしめていた右手は、もう開いている。あの赤い封蝋の欠片は、冬馬様が書斎の鍵のかかる引き出しにしまった。帝大の分析書と、小夜子様の日記と、鉛筆の溝のある偽の手紙と一緒に。
『帝都夜話』の写真は、何度もルーペで見た。
けれど、安い紙ににじんだ網目からは、何も読み取れなかった。もっときれいな刷りがあれば。私は年の暮れに、京橋の『婦人の窓』の大庭さんへ、手紙を一通書いた。返事は、まだ来ない。
そして、毎晩、百合絵様が私の部屋に来た。
寝間着に綿入れを羽織って、枕を抱えて。浅草で見た活動写真の筋を、弁士の声色を真似て話してくれる。話しているうちに、私の布団に潜りこんで、そのまま眠ってしまう夜もあった。
「お兄様には内緒よ。お義姉さまを取ったって、きっと妬くもの」
内側の扉の向こうで、咳払いが一つ聞こえた夜もあった。
*
一月十日。
女学校の始業式から帰ってきた百合絵様が、袴のまま、洋館の私の部屋に飛びこんできた。
「お義姉さま。あたくし、決めたわ。『婦人の窓』に、投書するの」
手に、便箋の束を握りしめていた。
「読者の声の欄よ。三流新聞のでたらめを信じないでくださいって。お義姉さまがどんなに立派な方か、あたくしが書いてやるの」
「百合絵様のお名前で?」
「まさか。お母様に知れたら、大変だもの。白鷺の一女学生、とだけ書くわ」
百合絵様は、声をひそめた。
「だから、字も、あたくしの字じゃいけないの。家令室のタイプで打つのよ。今日は、真柴は分家の年始回りのお供で、夕方まで帰らないわ」
家令室は、冬の午後の光で、薄暗かった。
窓際の台に、邦文タイプライターが据えてある。平たい活字皿に、何千という小さな活字が、部首ごとにぎっしりと並んでいた。
百合絵様は、椅子に座ると、腕まくりをした。
「ええと、読者の声、の読は……」
「言偏です。手前から三列目」
私が教えるたびに、百合絵様はレバーを動かし、かしゃん、と一字打つ。十字打つのに、ずいぶんかかった。
「もう、まだるっこしいわ。字がどこにあるか、皿を持ち上げて裏から見たら早いんじゃないかしら」
「百合絵様、それは」
止めるより先に、百合絵様が、活字皿の縁に手をかけて、ぐいと持ち上げた。
皿が、傾いた。
ざあっ、と、雨が降るような音がした。
何千という活字が、皿から滑り落ち、台の上と、板の間の床に、銀色の川になって広がった。
*
百合絵様の顔から、血の気が引いた。
「どうしよう。真柴に、叱られる。昔、牡丹の茶碗に触っただけで、あんなに」
床にしゃがみこんで、両手で活字をかき集めようとする。
「触らないで」
私は、百合絵様の手を、そっと押さえた。
「並びが、もっと崩れます。私がやります」
私は、袂を襷で括った。
床に膝をつき、活字を一本ずつ拾う。指先で、裏返しの字面を読む。人偏。言偏。木偏。さんずい。
目で探さなくても、手が覚えていた。文選の棚の前で、父の背中を見ながら、何年も繰り返した手つきだった。
一本拾うごとに、皿の決まった升目へ戻していく。
百合絵様は、最初は泣きそうな顔で見ていた。
そのうち、ぽかんと口を開けた。
「お義姉さま……字を、見ていないわ」
「見ています。指で」
半刻と少しで、皿は元通りになった。
最後の一本を、人偏の列に戻そうとして、私は手を止めた。
侯、の字だった。
字面の右上が、斜めに欠けていた。皿の角の下敷きになったのだろう。罫の欠けよりも、ずっとひどい。打てば、字の肩が、ごっそり抜けてしまう。
「打てないの?」
「打てません。これでは、侯爵の侯が、半分になります」
この家の書付には、侯爵の二字が、毎日のように並ぶ。真柴さんは、すぐに気づくだろう。
*
私は、洋館の部屋から、嫁入り道具の活字の木箱を持ってきた。
蓋を開ける。鉛と、古いインクの匂い。
五号の明朝の束を、一本ずつ指で繰った。旧藩士会の会報では、侯爵の字をよく使った。焼け跡で拾い集めたとき、確か。
あった。
侯の字が、二本。
父の店で使っていた、本郷型の明朝だった。
長さが、合わなかった。タイプの活字は、印刷の活字より、背が低い。
私は、厨房から包丁を研ぐ砥石を借りてきて、活字の足の側を、少しずつ削った。欠けた侯と並べて、背の高さを何度も比べる。鉛は柔らかい。削りすぎれば、二度と戻らない。
百合絵様が、息をつめて見ていた。
やがて、新しい侯は、皿の升目に、すとんと収まった。
試しに、紙に一字、打ってみた。
侯。
私は、ルーペを当てた。
皿にあったのは、月島型の明朝。うちの侯は、本郷型。どちらも同じ五号で、形もほとんど同じだ。
ただ、右上の短い点の角度が、髪の毛一筋ほど、立っている。
「違うの?」
百合絵様が、紙に顔を近づけた。
「わからないわ。全然、同じに見える」
「私にしかわからない違いですけれど」
私は、ルーペを下ろした。
欠けた侯と、使わなかったもう一本の侯は、半紙に包んで、木箱の底にしまった。
「真柴には、内緒よ」
百合絵様が、私の袖を引いた。
「皿をひっくり返したなんて知れたら、あたくし、一生言われるわ」
「はい。二人だけの秘密に」
言いながら、私は活字皿を見下ろした。
これから、この家で打たれる書付の侯は、みな、うちの侯になる。帳簿の添え書きも、分家への通知も、真柴さんが毎日打つ何もかもが。
それを知っているのは、私と百合絵様だけだ。
*
ふと、背中に視線を感じた。
振り返ると、家令室の戸口に、冬馬様が立っていた。
黒い三つ揃いに、外套を腕にかけている。華族会館から、戻ったところらしかった。
いつから、そこにいたのだろう。
床に膝をついて活字を拾う私を、砥石で鉛を削る私を、ずっと見ていたのだろうか。
冬馬様の口元が、動いた。
ほんの少しだけ、片方の端が持ち上がる。目尻に、見たことのない皺が寄った。
笑ったのだ。
婚礼の夜から九か月、私は、この人の笑う顔を、初めて見た。
「……器用なものだ」
それだけ言って、冬馬様は、書斎のほうへ歩いていった。
百合絵様が、私の腕を掴んで、声にならない声で叫んでいた。
その夕方、百合絵様は、投書を打ち上げた。
お鈴が、坂下の郵便局へ走る支度をして、廊下で待っている。
「三流新聞の記事に惑わされず、久遠寺侯爵夫人の真のお人柄を」
封をする前に、私は、その一行の、侯の字を、指でそっとなぞった。
髪の毛一筋ほど、点の立った侯。
この字は、今日から、この家にしかない。
コメント
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わあ……「侯」の字を彫り直す場面、ぞくっとしました。欠けた活字を自分の持ち物で補い、それが毎日打たれる書付に溶け込んでいく。誰にも気づかれない秘密の書き換え、ロマンチックでありながら反骨の意志も感じられて、すごく好きです。そして冬馬様の初めての笑顔……ここまでの空気を全部ひっくり返す、あの一瞬の緩みに胸が熱くなりました。伏線の拾い方、丁寧ですね。