夜明けの光がさす頃、王宮は異様な慌ただしさに包まれていた。公爵邸で発生した“黒魔力の暴走”の知らせが、
夜のうちに王宮中へ広まってしまったのだ。
廊下には兵が走り、魔術塔からは煙が上がり、
会議室では早くも対策会議が始まっていた。
その中心にいるのは――王だけではない。
「黒薔薇の娘をただちに拘束すべきだ!」
「いや、殺すべきだ! 暴走した今、あれはもう人間ではない!」
「王家の血を喰らうという予言はすでに明白!」
怒号が飛び交い、王は重々しく眉間を抑えた。
その場の空気は、まるで戦争直前のようにヒリついている。
アレクシス王子が立ち上がった。
「暴走を確認した以上、討伐の準備は進めるべきだ。
だが――」
彼は全員を見渡し、氷のように冷たい声で言った。
「セレナを討つ役目は、王家の者が担う。
外へ漏らすな。
これは国家の秘密だ」
議場が一瞬静まる。
しかし、静寂はすぐに別の声に破られた。
「第二王子殿下はどうなさるおつもりか?」
鋭い視線がルシアンへ向けられる。
彼は席を立つこともできず、ただ拳を握りしめていた。
「……俺は……」
喉が痛い。
胸が苦しい。
言わなければ。
ここで何も言わなければ、セレナは――。
「――セレナを殺させない」
議場中の視線が、一斉に彼へ向く。
誰もが呆れ、怒り、あるいは哀れむような目をしていた。
アレクシスだけが、静かな怒りを宿して弟を見た。
「ルシアン。お前は何を言っているか、わかっているのか?」
「わかってる。……だけど、俺は……」
(俺は――彼女を愛している)
その言葉は喉まで出かかったが、飲み込んだ。
ここで言えば、彼女の呪いを確実に刺激してしまう。
「セレナは俺が助ける。
呪いの移し替え――“代替の儀”を使えば、彼女は助かる可能性がある!」
魔術師長が首を振る。
「殿下……あれは禁術です。成功率は一割以下。
失敗すれば、呪いは暴走し、王都全体が消えます」
別の大臣が叫ぶ。
「そもそも、誰が呪いの器になるつもりだ!?
喰魔の呪いは、受けた者の魂を食い尽くすのだぞ!」
ルシアンは、ゆっくりと前を向いた。
「――俺がなる」
場が凍りついた。
アレクシスが立ち上がり、机を叩く。
「馬鹿を言うな!!
お前が死んだらどうなる!?
王家はどうする!?
未来は誰が背負う!!」
ルシアンは静かに言った。
「俺には……セレナを救えない未来の方が、恐ろしいんだ」
兄の表情から、怒りが消えた。
残ったのは――絶望にも似た諦め。
だが議場の空気は、すでに彼の味方ではない。
「第二王子は感情に支配されている!」
「黒薔薇に惑わされている!」
「王宮からの隔離を提案する!」
怒号が飛び交う。
王がゆっくりと立ち上がった。
「……ルシアン。
お前の忠誠はわかっている。
だが今、王国はひとつの決断を下さねばならぬ時だ」
ルシアンの背筋に冷たいものが走る。
王の声は震えていた。
苦しみと責任を背負った者の声だった。
「――黒薔薇討伐の令を、今ここに発する」
その言葉が王宮に響き渡った瞬間。
ルシアンの世界は完全に崩れ去った。
同じ頃。
ランドルフ公爵邸の塔の下で、
騎士団と魔術師団が集結していた。
黒い霧がまだ塔を包み、内部の様子はまったく見えない。
魔術師団長が杖を構える。
「……間もなく“喰魔の完全覚醒”が始まる。
突破すれば命はない。覚悟せよ」
騎士たちは一斉に剣を抜き、
一歩、塔へと足を踏み出した。
しかし、その前に割って入る影があった。
「――待て」
血の気の引いた顔で駆けてきたのは、ルシアンだった。
息を切らし、剣を握って。
「誰も……誰も彼女に指一本触れるな」
騎士団長が眉をひそめる。
「第二王子殿下……これは国王陛下の命です」
「知っている!」
ルシアンは叫んだ。
「だが……それでも俺は、彼女を守る!」
その目は血のように赤く潤んでいた。
塔の上では、黒い蔦が窓を破り、
まるで外の世界を拒絶するかのように揺らめいている。
風が吹き荒れ、地面が震えた。
そして――
塔の頂が黒く裂け、
巨大な影が、ゆっくりと空へ向かって伸び始めた。
まるで “黒薔薇の王” が誕生するかのように。
ルシアンは剣を握り直し、叫んだ。
「――セレナ!! 俺はここにいる!!
聞こえるか!!
絶対に……絶対に君を救う!!」
その声は黒霧を貫き、
塔の奥深く――セレナの心の底へ届いた。
だが同時に。
王宮の討伐隊は、静かに剣を構えた。
黒薔薇の娘。
喰魔の器。
王国の災厄。
殺すべき存在として。
王国は、ついに二つへ割れた。
――救おうとする者と、滅ぼそうとする者。
そしてその中心にいるのは、
孤独に震える一人の少女だった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!