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――静かな後日。
花子は、提出済みの文書をもう一度だけ開いた。
画面の中には、整った文章がある。
誤字もなく、論理の飛躍もない。
誰かに否定される要素は、ほとんど見当たらなかった。
それでも、彼女はそれを「使わない」と決めていた。
理由は単純だった。
もう、自分の中にその言葉がない。
提出したとき、確かに彼女は言語を持っていた。
違和感を、形にしようとした。
曖昧な感覚を、他人にも共有できるように整えた。
けれどそれは、「使うための言葉」ではなかった。
花子はデスクから立ち上がり、キッチンに向かった。
コーヒーを淹れる。
豆の袋を開け、計量スプーンですくう。
お湯を注ぐ、その一連の動作が、妙に現実感を伴っていた。
この時間には、意味がない。
効率も、最適解も存在しない。
だからこそ、呼吸が戻ってくる。
彼女は、かつて元・利用者の彼女と名前を交わした日のことを思い出していた。
あのときも、特別な会話はなかった。
ただ、生活の中の話を少しだけした。
洗濯が乾かないこと。
電車の遅延。
スーパーで特売だった野菜。
その中に、違和感は混ざっていた。
だが、誰もそれを指ささなかった。
花子はマグカップを持って、窓辺に立つ。
街は変わらない。
人の流れも、看板の色も、いつも通りだ。
提出した言葉は、きっとどこかで処理される。
分類され、評価され、必要なら修正される。
もしかしたら、参考資料として引用されるかもしれない。
でも、それはもう自分のものではない。
花子は、ふと笑ってしまった。
言葉を持ったのに、行動を変えなかった自分。
それは、弱さでも、逃げでもなかった。
むしろ、彼女にとっては誠実な選択だった。
行動を変えない、という行動。
誰かと闘うわけでもない。
声を上げ続けるわけでもない。
ただ、これ以上その言葉を振りかざさない。
彼女は、文書を閉じ、端末の電源を落とした。
もう、その文章を推敲することはない。
説明を加えることも、補足を書くこともない。
それでいい、と心から思えた。
花子は、次にもし違和感を覚えたら――
それをすぐに言葉にしないだろう。
まず、生活の中に置く。
洗い物をしながら、電車に揺られながら、眠る前の静けさの中で。
言葉にしないまま、消えるものもある。
だが、消えずに残るものだけが、次の選択を生む。
彼女は、その順番を信じることにした。
マグカップの底に、少しだけ冷めたコーヒーが残っている。
花子はそれを飲み干し、カップを流しに置いた。
今日も、特別な予定はない。
何も起きない一日が、また一つ、静かに積み重なっていく。
そして彼女は知っていた。
もう使わないと決めた言葉が、
それでも、どこかで誰かの判断を揺らす可能性だけは、消えていないことを。
それで十分だった。