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ネークの塔が身を捻って暴れるのをやめ、それでもなお春先の雪垂の如く時折降ってくる落下物も塔の周辺の限られた範囲になった。そうすると大王国の面々もおっかなびっくりながら屋根の下から出てくる。
巨人の遺跡とバソル谷の家屋の混ざり合った屋根の下、ユカリは未だ啜り泣くグリュエーの背中を慈しみに満ちた手で撫でながら、見知らぬ戦士たちに目を向ける。
「そういえばあの人たちって大王国の人たち? 機構じゃないよね」
「ああ、そうだ」とソラマリアが答える。「不滅公自ら率いる調査隊の分隊だそうだ。マナセロという男が率いている。ヘルヌスと同じ、ラーガ殿下の親衛騎士だ」
レモニカは戦士たちに気づかれる前に耳飾りの魔導書の変身を解き、ユカリにさらにくっつく。ユカリの母エイカの姿になって大王国の目をかいくぐるつもりなのだ。長らく人前に現れなかった王女と救済機構の尼僧の姿とどちらの方が目立つのかはユカリにも分からない。
「呪いの解呪はどうしよう?」ユカリはソラマリアに目を向ける。「塔が崩れる危険性があるから退避してもらいたいんですけど、聞いてもらえるでしょうか。それに魔導書の魔法を使っているところもできれば見られたくないですし」
「いや、待っとくれ」とジニが口を挟む。「塔が崩れれば遺跡も圧し潰されるだろう? まだ遺跡の調査は終わってなくてね。ただでさえ街と融合しているせいか、色々とあるべきものが抜け落ちてるんだよ。そのうえ塔の崩壊で中断したんだから」
そうすると謎の闇に関係しているらしい巨人の魔法について知ることはできず、エイカを助けることもユカリの胸の穴を塞ぐこともできなくなる。
「その調査に大王国の存在は邪魔になるか?」とソラマリアが生真面目な顔でジニに尋ねる。
「どうだろうね。あちらの調査の目的にもよるけど、あたしの方が拒まれない限りはこっちも拒む理由はないよ」
「なんでしょう? 何か騒がしいですわね」
レモニカの言う通り、戦士たちの喧騒が地鳴りのように響いている。そして騒ぎに引き寄せられるようにしてさらに戦士たちが集まっている。
「落下物かな? 誰か怪我したのかも」
心配しつつもユカリは喧騒が気になって屋根の下から出るが、人混みの向こうで何が起きているのかは分からない。結局全員で様子を見に行く。
元々バソル谷を南北に貫いていた目抜き通りに戦士たちが集まっていた。
「また乱闘か?」ソラマリアが呆れてため息をつく。「マナセロはどこだ?」
「奴も来たばかりみたいだね。人混みを掻き分けて先頭に立とうとしてるよ」いつの間にか塀に上っていたジニが人混みの向こうを見渡している。「乱闘じゃないみたいだね。どうやら機構のお出ましだ」
慌ててレモニカはユカリから離れ、今度はグリュエーにくっついてグリュエーに変身する。焚書官の姿も、自分自身の姿も見られないに越したことはない。
上背も横幅も大きなライゼンの男たちの中にあってはユカリでも視界を確保できない。ようやく隙間から見えた顔には見覚えがなかったが、見覚えのある見覚えのなさだ。
蜃気楼の如き幻の顔で失われた頭部を隠しているチェスタだ。率いているのは当然僧兵だが、焚書官ではない。派手な刺繍に炎の図柄の黒衣、白鞘の剣を佩く中性的な顔立ちの男女。護女の守護者たる加護官たちだ。ライゼンの戦士たちも少なくないが、加護官はさらに多勢だ。僧衣ではない魔法使いらしき者たちもいる。
ユカリはグリュエーの手を引き、退こうとするが、やめる。封呪の長城での苦い出来事を思い出したのだ。気が付けばチェスタが後ろにいて、捕らえられてしまった。どのような魔術で回り込まれたのか分からない。素早く移動したのでなければ、幻を見せられていたのかもしれない。差し当たって今この状況では頼れる仲間のそばにいるのが一番だ。
汚い野次が飛び交う中、マナセロが口を開く。「遺跡に関しては発見者優先の取り決めがあるでしょう。この呪われた地で無駄に血を流したくなければ来た道を戻りなさい」
「我々は調査隊ではありませんよ」とチェスタが冷静に応じる。「クヴラフワ調査とは無関係です」
「馬鹿なことを言わないでください。取り決めはライゼンとシグニカと暫定政府であるシシュミス教団との取り決めですよ。仮に調査隊のみの取り決めだとしても、あなた方がそうではないとどう証明するというのです?」
「そもそも巨人の遺跡に近づくつもりもありません。我々はある尼僧を探しているのです。あなた方とは無関係な尼僧です。見つけたら帰ります。ご存知ありませんか?」
「知りませんね。もしもここに来たとしても、あなた方と同様に追い返すだけです」
どちらも一歩も譲らないつもりだ。まるでお互いを呪い合うように野次が飛び交う。
その時、左半身のみの外套をまとう老人がチェスタ率いる魔法使いの中から進み出る。前にモディーハンナとともにいるところを見かけた魔法使いだ。老人はチェスタに耳打ちし、そして指をさす。元護女エーミ、グリュエーのいる方向を。その瞬間ユカリの手の中の細く柔らかな指がすり抜けた。
「グリュエー!」
慌ててすぐさま振り返る。しかしグリュエーは変わらずその場にいた。そして同様に振り返っていた。その視線の先には加護官がいて、もう一人のグリュエーを抱きかかえていた。が、次の瞬間、グリュエーは羽毛に覆われた巨大な犬に変身し、加護官は押し倒される。不思議な犬ではなくレモニカだ。そして近くにいるライゼンの戦士に呪いが反応し、次々に変身する。巨大な蛇、奇妙な蜥蜴、たぶん鰐。爬虫類ばかりだ。
「レモニカ! こっち!」
ユカリは駆け寄って、レモニカを母エイカに変身させて手を取る。
狼藉を働いた加護官は既にソラマリアに背中を踏みつけられていた。
「すみません、ユカリさま。お手間を取らせてしまいました」
「大丈夫。気にしないで」と言ったと同時にユカリは大事な手を離してしまったことを思い出す。
「ユカリ!」グリュエーの叫び声はあらぬ方向から聞こえる。
見上げると屋根の上でグリュエーはまた別の加護官に抱え上げられている。ユカリはレモニカをソラマリアに任せ、素早く杖に跨ると瞬く間に屋根へと上がる。しかし視界の中心に見据えていたグリュエーの姿をまた見失った。が、今度はすぐに見つける。チェスタの隣だ。
この状況、この魔法、ユカリは迷宮都市ワーズメーズ、あるいはその魔法に満ちた街を由来とするネドマリアの魔術を思い出した。
「あの魔法使いを抑えて! 迷いの魔術を使ってる!」
ユカリはジニに言ったつもりだった。しかし戦いの切っ掛けを求めていたライゼンの戦士たちがその時は来たと言わんばかりに雄叫びをあげ、多勢であるチェスタと加護官たちに突撃した。
予期せぬ展開に動揺し、ユカリは冷静さを欠く。落ち着いていたなら、ネドマリアに教わった迷いと惑いに対する種々の策でグリュエーのもとにすぐにたどり着けたはずだ。
加護官たちは既に撤退し始めていた。目標を確保したのだから当然だ。ユカリは真っ直ぐに飛んでいき、しかしなぜか煙突にぶつかる。窓に飛び込む。地面に墜落する。焦りがさらなる失敗を呼び、失敗がさらなる焦りを生む。クヴラフワに来てから仲間と離れ離れになってばかりだ。もう同じ失敗は繰り返さないと思えば思うほど思慮が鈍り、想像力が狭まる。
老魔法使いは殿を務め、多彩な幻惑の魔術の前にライゼンの戦士たちは翻弄される。去りゆくチェスタの口元の微笑みがいやに目につく。口元だけは幻ではないからだろうか。
腕や口を抑えられながらも加護官の腕から必死に逃れようともがくグリュエーと目が合う。
グリュエーを助けるのは自分でなくてはならない、という正体不明の気持ちが膨れ上がる。
次の瞬間、野太い悲鳴が救済機構の僧侶たちからあがった。彼らの逃げようとした方向で巨大な火柱が上がる。燃える時と場所を選ばなかった古の時代の神秘の火柱が赤々と燃え上がる巨人を形作った。何度も見てきた、助けられてきた炎の魔術だ。
「ベル!」
返事はなかったが加護官たちの向こうに最高の魔法使いである親友がいるのは間違いない。ユカリは不思議と冷静さと落ち着きを取り戻す。ベルニージュならば考えなしに焼き払いはしないだろうが、このままではグリュエーまで犠牲になりかねないことに気づく。それならばグリュエーを連れ去ってくれた方がまだましだ。
戦いを終わらせるのではなく、すぐに止めなくてはならない。