夫の浮気相手が子供を産んだと聞いたら、そりゃあ怒り狂うだろう。気持ちは分かる。
だが、母とあかりは殺されるほどの事をしたか?
不倫相手になって子供を産んだら、子供もろとも殺されてもいいのか?
不倫は命をもって償うべき大罪なのか?
――誰か教えてくれよ!!
人の道を踏み外しておきながら、あいつは今ものうのうと篠宮ホールディングスの社長夫人をし、贅沢三昧をして高笑いしている。
――ここまでやったなら、やり返される覚悟を持っての事だろうな?
怜香の所業を知った俺の胸の奥に、生まれて初めてどす黒い殺意が芽生えた。
だが感情のままに怒り狂い、暴力を振るって犯罪者になるなら誰にだってできる。
――そうじゃない。母とあかりに顔向けできない事は絶対にしてはいけない。
――もっと効果的なやり方を考えるんだ。
――十八年耐えられたならまだ我慢できるだろ。〝いつか〟怜香を徹底的に潰す時のために、あらゆる証拠を揃えておけ。
自分に言い聞かせた俺は、乱れた髪を掻き上げて、怯えている母娘に笑いかけた。
『…………取り乱してすみません。あとで詳しく事情を伺えませんか? 連絡先をお教えします』
速水家に罪悪感を抱いている母娘は、俺が〝どこかにいる速水尊の親戚〟だと思い込んでいるようなので、適当に嘘をついて補足しておく事にした。
『僕は速水尊さんに頼まれて、代理で墓参りしている者です。彼とは本当の兄弟のような関係にあり、彼のつらさを一番理解している存在だと思っているので、つい感情的になってしまいました』
その説明を聞いて、二人は俺が動揺した理由に納得したようだった。
『申し訳ございません。考えなしな事を言ってしまって……』
『いいえ、いいんです。中山さんは世間的には加害者と言われているでしょうけれど、あなた達だってつらい思いをされているでしょう』
努めて冷静に言ったつもりだが、俺の声は怒りで震えていた。
〝理由〟を知って怜香に激しい怒りを覚えると共に、俺は中山が完全な悪ではないと知って酷く混乱していた。
今まで『いつか中山に復讐できたら』と思って生きてきたのに、運命は俺に憎しみすら抱かせてくれない。
――本当はごく普通の善人だった?
――息子を思うあまり、苦渋の決断をした父親だった?
――そんな情報、今さら聞かせるなよ!
――今さら『本当はいい人なんです』って泣くなよ!
――俺の絶望と悲しみが軽く思えるだろ!
心の中は荒れ狂った感情でグチャグチャになっているが、それをこの二人にぶつけても仕方がない事ぐらい、大人になった今なら分かっている。
この世界は理不尽だらけだ。
どれだけ善くあろうとしても、心ない者の所業ですべてがぶち壊され、積み上げてきたものが崩される。
何度『正気を失ったほうが楽だ』『死んで楽になりたい』と願ったか分からない。
――でも、死に損なった俺にだって、まだできる事はある。
――俺だけが母と妹の無念を晴らすため、復讐できる。
――誰に何を言われても構わない。破滅? 上等だ。
――もとより幸せになれるなんて思っていない。やってやる。
母娘に連絡先を教えて別れたあと、俺は呆然と立ち尽くしていた。
記憶の中の母はいつも優しく、事あるごとに俺と妹に『幸せになるのよ』と言っていた。
世間的に見れば、自分たち母子は非難される側だと分かっているからこそ、口癖のように言い聞かせていたのだろう。
『……幸せになりたかったよ、母さん』
俺は墓石を見つめて呟く。
『……でも、もうどうやったら、幸せになれるか分からないんだ。人を愛するってどういう事か分からない。愛そうとしても誰も俺のもとに残ってくれない。それに、こんな俺を愛してくれる人もいないだろう』
俺は穏やな表情で言い、乾いた笑みを浮かべる。
『生きるってしんどいな。どれだけ頑張っても誰も褒めてくれない。努力して一生懸命積み上げたものも、あいつの気まぐれでたやすく崩される』
俺は静かに涙を流し、笑った。
『人の命がこんなに軽いなんて思わなかった。俺だってきっと、価値のない人間だ』
心の中はがらんどうだ。
満たされた事なんてないし、こんな自分が幸せになれると思っていない。
欠落した俺は、復讐に身を費やしたあと、地獄に落ちるのがお似合いだ。
『…………あかり……。…………朱里…………っ』
俺は命を助けた彼女の名前を呼ぶ。
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生きる価値がない人間なんかじゃない!それは怜香だ!!! 怜香に裁き受けてもらおう!必ず…