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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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草原草原

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「毎週金曜に、丸の内の煉瓦のビル」
社長は、私の話を聞き終えると、窓の外を見た。
「御影キャピタルの事務所は、丸の内の古い煉瓦ビルを改装したものだ」
昨日の画面の、むき出しの煉瓦の壁を思い出した。
「でも、常務は、御影さんには一度も会っていないと言いました。ぶれませんでした」
「秘書の届け物は、噂だ。証拠ではない」
社長は、机の上の三人の名前を、指で順に叩いた。
「本当のことしか言わない三人の中から、一人を選ぶ方法がいる」
私は、昨夜からずっと考えていたことを、口にした。
「数字を、変えて渡してください」
社長と柏木室長が、同時に私を見た。
「フーズの利益計画を、取締役会に向けて修正した、ということにします。三人に、それぞれ違う数字の修正版を渡すんです。堂島常務には四十二億。浅井社長には四十四億。一条本部長には四十六億」
「御影が、どの数字を口にするかで、出どころがわかる」
「はい。経理部にいたころ、取引先の与信の調査で、似たやり方を聞いたことがあります」
私は、膝の上で指を組んだ。
「顔が本当のことしか言わないなら、数字に喋らせます」
室長が、手帳を閉じた。
「社長。存在しない修正版を役員に配るのは、取締役会への虚偽の資料提出にあたる恐れが」
「取締役会には出さない。三人にだけ渡す」
社長は、即答だった。
「柏木。三部、刷れ。番号は振るな。数字以外は、一字一句同じにしろ」
室長は、一秒だけ黙った。それから、硬い声で言った。
「……承知いたしました」
*
三通の封筒は、その日の午後に配られた。
堂島常務には室長が、浅井社長には私が、麗華さんには社長本人が手渡した。
「取締役会の前に、目を通しておいてくれ。社外秘だ」
そう言い添えるのも、三人とも同じにした。
一時間もしないうちに、四十三階の扉がノックもなく開いた。
ヒールの音で、誰だかわかった。
「どういうつもり?」
麗華さんは、封筒を社長の机に置いた。白いパンツスーツの肩が、少しだけ上がっている。
「フーズの営業利益、四十六億への上方修正。経営企画の私が知らない修正版なんて、この会社にあるわけないでしょう」
社長は、何も言わなかった。
麗華さんの視線が、社長から、扉の脇の私の机へ移った。
赤い唇が、ゆっくり形を変えた。
「――あなたね。秘書さん」
私は、椅子から立ち上がった。
「私を疑ってるのね」
「疑っていません」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「だから、一条さんの数字だけは、誰にも漏れないはずなんです」
麗華さんは、私の顔をしばらく見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。笑ったのだと、少し遅れてわかった。
「……何それ。じゃあ私は、外れ馬の番号を持たされてるってわけ」
「はい」
「失礼な人ね」
麗華さんは封筒を取り上げ、胸の前で軽く振った。
「いいわ。乗ってあげる。私が黙っていれば、私の数字は出ない。出たら、あなたが謝りなさい。社長室の全員の前で」
ヒールの音が、扉の向こうへ遠ざかっていった。
社長の右の口元が、ほんの少しだけ上がっていた。
本人は、たぶん気づいていない。
*
翌日、浅井社長を、もう一度四十二階の小さな会議室に呼んだ。
今度は、眼鏡を外して座った。
「浅井社長。一つだけ、お聞きします」
浅井社長は、組んだ指を見つめていた。
「御影キャピタルの、御影代表に、お会いになったことはありますか」
浅井社長は、ゆっくりと顔を上げた。
「私が、御影さんに会ったか、ですか?」
少し間があった。
「……会っていません」
質問を、そのまま繰り返してから答えた。
答えを用意するための、時間稼ぎ。言葉を口にする前に、頭の中で一度、形を整えた人の話し方だった。
言い終えた口元が、わずかに引きつった。
――ぶれた。
浅井社長は、御影さんに会っている。
けれど、と私は思った。会ったことと、数字を渡したことは、同じではない。
この人の膝の上の指は、昨日からずっと、何かを守るように組まれたままだった。
「浅井社長」
私は、眼鏡を手の中で握った。
「誰かに、何かを言われていませんか」
浅井社長は、答えなかった。
唇を固く閉じたまま、深く頭を下げて、会議室を出ていった。
*
会議室を出ると、廊下の向こうから、紺のカーディガンが歩いてきた。
副社長だった。小脇に、社員食堂のトレイ返却の札を挟んでいる。
「やあ、瀬名さん。浅井くんと話していたのかい」
副社長は、浅井社長が消えたエレベーターホールのほうを、穏やかに見やった。
「彼は、工場の床を掃くところから社長になった人でね。会社が売られるかもしれないと聞いて、眠れていないだろう。かわいそうに」
「……御影キャピタルのことは、副社長もご存じなんですか」
「御影くんかい」
副社長は、丸い眼鏡の奥で目を細めた。
「ずいぶん前に、ある勉強会で一度だけ、名刺を交換したことがあるよ。頭のいい青年だった」
三秒。四秒。
一本の線。
副社長は「無理をしないようにね」と私の肩を軽く叩いて、役員室の並ぶほうへ歩いていった。
くん、と呼んだ。一度だけ名刺を交換した相手を。
この人は、誰のことも、くん、と呼ぶ。浅井くん。大河内くん。怜くん。だから、きっと何の意味もない。
私は、肩に残った手のひらの軽さを、なぜか払い落としたくなった。
*
御影さんが、どの数字を口にするか。
それがわかるまで、待つしかなかった。
一日目の夜、私は十時まで社長室に残って、フーズの取引先の資料をめくっていた。
帰り支度をしてエレベーターホールに出ると、社長が立っていた。
上着を腕にかけて、エレベーターの階数表示を見上げている。
「……社長。まだ、いらしたんですか」
「偶然だ」
社長は、階数表示から目を離さなかった。
二日目の夜も、十時十分に、同じ場所に立っていた。
「偶然だ」
三日目の夜は、九時四十分だった。私がいつもより早く切り上げたのに、社長はもう、そこにいた。
上着は、腕にかけたまま。たぶん一度も、袖を通していない。
「偶然だ」
社長は、エレベーターのボタンのほうを向いていた。
顔は、見えなかった。
見えなくても、わかることはある。三日続く偶然を、偶然とは呼ばない。
「ノック二回ですね」
社長の指が、ボタンの前で止まった。
振り返らなかった。
長い指が、黙って下向きの三角を押した。
エレベーターの扉が開く。社長が先に乗り、扉を手で押さえて、私を待った。
四十三階から一階まで、四十秒。
鏡張りの壁に、二人分の背中が映っていた。社長の耳の縁が、ほんの少し赤かった。
私は、それを見なかったことにした。
一階に着くと、社長は先に車寄せへ向かった。私は駅へ。
別々に帰るという取り決めは、まだ生きている。
けれど、正面玄関の前で、社長は一度だけ振り返った。
「駅から、十二分だ。寄り道をするな」
同じ家に帰るのに。私は、笑いそうになるのを、唇の内側を噛んでこらえた。
*
四日目の朝。
社長室のパソコンに、柏木室長から一本のリンクが届いた。
御影キャピタル・パートナーズのウェブサイト。株主の皆さまへ、という題の、公開書簡だった。
鷹宮フーズの売却を、改めて求める内容。そして、その理由の段落に、数字が一つ。
『最新の社内計画では、鷹宮フーズの来期営業利益は四十二億円に上方修正されている』
四十二億。
私は、画面から顔を上げた。
執務机の向こうで、社長が、同じ画面を見ていた。
堂島常務に渡した、数字だった。
コメント
1件
「三つの数字」、めちゃくちゃ面白かったです…! 数字で嘘をつかせるっていう仕掛け、すごく頭いいしスリリングだった。麗華さんの「乗ってあげる」って台詞、カッコよすぎて痺れました。でも、最後に口にされたのが堂島常務の数字って——そういうことか、って。 あと社長の「偶然だ」連発、三日目にはもうノック二回の暗号みたいになってて、二人の距離が静かに縮まってる感じがたまらなかったです。耳の縁が赤いとこ、見なかったことにした主人公の優しさにも胸きゅんでした。 次、どうなるんだろう。本当に楽しみです🥀🌙