テラーノベル
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広間の中で、動いたのは藤乃の手だけだった。
膝の上で、指が一度、帯を握った。それだけで、顔は動かない。整った顔のまま、恭介の手の中の紙を見ている。
恭介は紙を持ったまま、玲司を見た。
「……玲司。これは、いつ書いた」
「縁談を仲人に頼んだ日に。三月の初めだ」
「長女と、書いてあるぞ」
「書いた」
玲司は膳に手も触れずに言った。
「私は最初から、有明家の長女を頼んだ。仲人から返ってきたのは、有明家の娘は梢殿お一人、という返事だった。それでも縁談を進めた。来たのは、頼んだとおりの人だった」
千歳は、聞いていた。聞きながら、何を聞いているのか、分からなかった。
最初から。長女を。
藤乃が千歳を送ったのは、藤乃の算段だ。けれど玲司が頼んだのは、その算段より前に、千歳だった。穴埋め、という言葉が、千歳の中から一つ、抜けた。
なぜ。
その言葉が喉まで来て、止まった。この席で聞くことではない。
「仲人」
恭介の声が、白鳥夫人に向いた。今度は低かった。
「どういうことだ」
白鳥夫人の扇が落ちた。
絨毯に落ちて、夫人はそれを拾わなかった。拾わずに、両手を膝について、頭を下げた。誰に向かってでもなく、ただ下げた。
「有明の、奥様から」
声が、震えていた。
「娘は梢様お一人と、御堂様に申し上げるようにと。……お金を、いただきました」
広間の空気が、変わった。
親族の年寄り二人が、顔を見合わせた。恭介を見なかった。初めて、恭介を見ずに、顔を見合わせた。
「白鳥夫人」
藤乃が言った。声は整ったままだった。
「何を仰っているのか、私には」
「奥様。私はもう」
夫人は頭を上げなかった。
「もう、嘘は」
藤乃は口を閉じた。閉じた口の端が、少しだけ下がった。千歳は、その顔を知っていた。藤乃が、損を数えるときの顔だ。
「結納金は」
玲司が言った。
「返してもらう」
藤乃の顔が、玲司に向いた。
「五千円。耳をそろえて、一月のうちに。有明の長女を頼んで、娘は一人だと偽られ、偽りの名で花嫁を送られた。有明家に結納金を置いておく理由が、私にはない」
「……返せるものなら」
藤乃の声から、整いが剥がれた。
「返せるものなら、とうに」
「返してもらう」
玲司は同じ言葉を繰り返した。声は、上がらなかった。
恭介が扇子を閉じる。音がした。閉じて、膝に置いて、それきり何も言わない。親族の二人が、腰を浮かせる。帰り支度だ。
藤乃は、座ったままだった。
梢が「母様」と言った。藤乃は答えなかった。
やがて藤乃は立ち、襟を直す。それから、千歳のほうへ歩いてきた。
「千歳」
千歳は顔を上げた。
「お前の母が、商家の娘でさえなければ。こんなことには」
母。
千歳の中で、何かが、止まった。
商家の娘。それは藤乃が十年、千歳に向かって言い続けた言葉だ。商家の血。商家の趣味。千歳は、それを自分のこととして聞いてきた。自分が商家の娘の子だから、冷や飯で、土間で、袖の中の手なのだと。
今、それは母に向けられていた。
死んだ母に。熱の夜に赤い帯留めを枕元に置いてくれた母に。黄楊の櫛の母に。
「母を」
声が出た。
「悪く言わないでください」
藤乃の口が、開いて、閉じる。
梢が、「お姉さま、生意気」と言い、玲司が「妹御も帰られよ」と言った。どちらも、千歳の耳には遠い。藤乃の顔だけが近かった。十年、見上げてきた顔だ。今日は、見上げていない。座ったまま、まっすぐに見ている。
藤乃は、何も言わなかった。
背を向けて、歩き出した。戸口の手前で、足が止まった。
振り返らずに、声だけが来た。千歳にだけ届く、低い声だ。
「あの男が、姉を名指しした理由。お前は、知らないでしょう」
千歳は息を止めた。
「十年前の、火事の夜のこと」
藤乃は、それ以上は言わなかった。言わずに、出ていった。梢が追った。人力車が二台、門を出ていく音がした。
広間に、膳が残った。十人分の、ほとんど手のつけられていない膳だ。お初が入ってきて、指で数え始めた。数えながら、千歳の前で手を止めた。
「奥様。汁だけ、温め直してきますよ」
「……はい」
「温かいうちに、召し上がれ」
文が膳を下げに来て、千歳の横を通るとき、小さな声で言った。
「奥様、すっとしました」
お初が「文」と言った。笑っていた。
夜になって、二人きりになった。
書斎の火鉢の前だった。玲司は炭を直している。火箸の先が、赤い炭を転がす。千歳は向かいに座って、その手を見ている。
聞かなければならないことが、二つある。
一つは、聞いていいことだと思った。
「なぜ、私を」
火箸が止まった。
「最初から、私を、と。……なぜ」
玲司は炭を見ていた。しばらく、見ていた。
「理由は、いずれ話す」
「いずれ」
「まだ、君に言う資格が、私にない」
資格。千歳はその言葉を、口の中で繰り返した。この人が、資格がないと言う。財閥の当主が、身代わりの花嫁に。
もう一つは、聞いてはいけないことだと思った。藤乃の言葉だ。藤乃の言葉を、この人の前で口にするのは、藤乃の手を借りることだ。
それでも、口が動いた。
「……火事の夜、と」
玲司が顔を上げた。
「奥様が、帰り際に。十年前の火事の夜のこと、と」
玲司は千歳を見た。火鉢の明かりで、顔の半分が赤い。
火箸を置いた。立ち上がった。障子に手をかけた。
「有明の母御の言うことを、信じるのか」
障子が、閉まった。
コメント
1件
めっちゃ重くて美しい回だった…!😭💕 玲司様が最初から千歳さんを指名してたって衝撃すぎるし、「穴埋め」じゃなかった安心感と、藤乃さんの「あの男が姉を名指しした理由」って言葉がもう気になりすぎて夜しか眠れないんですけど!?千歳が「母を悪く言わないで」って初めて抗うシーン、ぐっときたよ…!続きが待ちきれない〜!🌸
草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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