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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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翌朝、千歳は書斎の障子の前に立っていた。
中で、紙をめくる音がする。玲司はもう起きている。千歳はそれを、廊下の冷たさの中で聞いていた。
聞くなら、今だ。昨夜、障子を閉められた。閉められたまま、一晩が過ぎた。十年前の火事の夜のこと。藤乃が置いていった言葉は、千歳の枕元で一晩、動かなかった。
手を伸ばした。障子に触れる手前で、止めた。
信じるのか、と玲司は言った。藤乃の言うことを、信じるのか。
信じたくはない。信じたくはないが、藤乃は、千歳が知らないことを知っている口ぶりだった。あの男が姉を名指しした理由。それを、藤乃が知っていて、玲司が「いずれ」と言う。
千歳は手を下ろした。
聞かない。聞いて、答えさせたくない。資格がない、とあの人は言った。資格ができるまで、待つ。それが何かは分からないまま、待つ。待つのは、得意だ。十年、待っていた。何を待っていたのかも知らずに。
背を向けかけたとき、障子の向こうで紙の音が止まった。
「園遊会の話は、今日はしない」
玲司の声だった。障子越しで、くぐもっている。
千歳は足を止めた。
「来月、鷲宮伯爵邸の園遊会がある。御堂は毎年呼ばれる。君も来い。御堂夫人として」
しない、と言って、した。
千歳は障子を見た。障子の向こうで、玲司は背を向けているのだろう。襲の桟を握る音が、小さくした。
「……私が、でございますか」
「ほかに誰がいる」
「人前に、出たことが」
「ない。知っている」
紙の音が、また始まった。
「支度は柘植に言ってある」
千歳は障子の前に立ち尽くした。園遊会。華族の屋敷の庭に、婦人たちが集まる。その中に、御堂夫人として、立つ。右手の痕を持った、身代わりの名の夫人が。
障子が、少しだけ開いた。
玲司の目が、隙間からこちらを見た。千歳の顔を見て、それから、髪を見た。結わずに一つにまとめただけの髪を、一度だけ。
障子は、また閉まった。
「三年前の、火事のことですか」
台所で、お初は火を起こしながら言った。
千歳は聞くつもりで来たのではなかった。十年前の火事のことを、誰かに聞きたかった。誰にも聞けないので、台所に来た。来てみると、口から出たのは、別の火事のことだった。
「梅の木が、焦げていました」
「ええ」
お初は火吹き竹を置いた。
「三年前の、冬でした。母屋の、いまの食堂のあたりから火が出ましてね。先の旦那様が、お亡くなりになりました」
千歳は上がり口に座った。
「旦那様は、まだお若くて。大学をお出になって、会社に入られたばかりで。あの夜、火が出たとき、旦那様は火の中にお入りになりました。あたしは止めたんですよ。止めたって、聞く方じゃありません」
お初は手を膝で拭いた。
「怖いものを、先に引き受ける人なんですよ、旦那様は。小さい頃から。犬が怖いって文が泣けば、自分が先に犬のところへ行く。火でも同じ。怖くないわけじゃないんです。怖いから、先に行く」
千歳は右手を見た。
煙の中で、梢を抱えて、戸に手をついた。あのときの火も、怖かった。怖くて、入った。入らないと、梢が、あの部屋にいた。
「……先の旦那様は」
「お助けできませんでした。旦那様は、それからずっと、ああです」
お初はそれ以上、言わなかった。離れのことも、言わなかった。離れのことを聞けば、お初は答えないだろう。お初は毎日、離れに膳を運んでいる。それを千歳は知っている。知っていて、聞かない。
「お初さん」
「はい」
「十年前に、私の家でも、火が出ました」
言ってから、驚いた。十年、誰にも言わなかったことだ。言う相手がいなかった。
お初は、火吹き竹をもう一度取った。
「そうでしたか」
それだけだった。それだけで、火を起こし続けた。千歳は、それがありがたかった。
昼過ぎ、文が縁側に来て、髪の話を始めた。
「園遊会の奥様方は、みんな髪を大きく結うんですよ。こう、前を張って」
文は自分の髪を両手で持ち上げて見せた。
「奥様の髪、長いですもんね。結えば映えますよ。あたし、結ったことないけど」
「私も、ない」
千歳は言った。梢の髪を結ったことはある。藤乃の髪も。自分の髪は、朝、一つにまとめるだけだ。鏡を見る間もなかった。見ても、見るものがなかった。
「お初さんが結ってくれますよ。お初さん、若い頃は髪結いの手伝いをしてたんですって」
文は言って、転びかけて、縁側の柱につかまった。
夜、千歳は鏡台の前に座った。
母の櫛を帯から抜いて、髪をとかした。黄楊の櫛は、歯が一本欠けている。欠けた歯のところで、髪が一度、引っかかる。
母がこの櫛で、千歳の髪をとかした。熱の夜に。赤い帯留めを枕元に置いて、櫛で髪をとかしながら、歌をうたった。歌の文句は、もう覚えていない。
窓の外に、離れの灯りがある。
昨夜は、見なかった。見る気になれなかった。今夜は、見た。黄色い灯りが、障子に四角く映っている。
廊下に足音がした。書斎から出てきた足音だ。千歳はもう、聞き分けられる。
障子が開いた。玲司が戸口に立っていた。中には入ってこない。
鏡台の前の千歳を見た。櫛を見た。髪を見た。
「髪は、お初に結わせろ」
「……はい」
玲司は障子に手をかけた。閉める前に、言った。
「十年前のことは、園遊会のあとだ」
コメント
1件
ああもう、この話の空気感がたまらないっす……!!千歳が障子の前で手を伸ばしては止めるシーン、めっちゃ胸にくる。玲司の「来月園遊会に来い」って、いきなりぶっこんでくるとこも好き。絶対お互いちゃんと伝えたいこと言えてないのに、不器用に近づいてる感じがエモすぎる😭 お初と台所で火を起こしながら十年前の話をする場面も良かったな。「そうでしたか」って余計なことを言わずに受け止めてくれる大人の優しさが沁みる。 そして最後の玲司の「十年前のことは園遊会のあとだ」でまた続きが気になりすぎる展開に!次話が待ちきれないよ〜!