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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
ヒバルは、レンの隙をついては刃を振るい、じわじわと体力を削っていく。
レンもまた、断片的に“未来予知”を使い、攻撃をかわしながら剣を振るった。
だが――このままでは埒が明かない。
二人とも、それを理解していた。
声が、聞こえる。
イロハの声だ。
苦しそうで、何かを必死に掴もうとしている。
まるで夢の中みたいに遠くて、掴めない。
掴めないのは、俺のほうか。
その声を聞いても、何もしてやれない。
視界がぼやけていく。
血の匂いと、鉄の味。
身体を動かすたび、焼けるような痛みが走った。
目の前の子供を、何とかしない限り。
助けの手を、伸ばすことすらできない。
自分のこの力で、どうにかするしか……!
「楽しいね、その焦る様子。」
突如、レンの背後にて姿を見せたヒバルは、レンの肩を掴んだ。
どくん、と言った、言葉では表せられないような身体全体に伝わる熱。
ただ手を肩に乗せられただけのはずなのに、レンにとっては何百キロもの重りを乗せられているのと同じ感覚である。
反射的に、剣で下から上へと、斜めに斬るように腕を動かした。
だが、大ハズレ。
その様子を見て、一、二歩ほど離れた場所で ヒバルは、目を狐の形に変化させると、首を傾げて大きく口を開けた。
「無駄だよ。君は誰も守れないまま、イロハも消えていって、君は組織の道具になる。」
「無駄……?そんなのやってみねぇとわかんねぇだろうがよ!」
「そうやって無駄な想いを乗せて、結局助けられなくて、自分の首を絞めてるだけだよ。」
「お前には、俺の事なんて分からないだろ!」
雪のような、冷たい沈黙。
幻の雪が、地面に落ちて弾けた。
ヒバルは呆れるように息を吐く。
「なら、過去の失敗を見てみれば?」
その言葉に、心臓が軋んだ。
父さんとミヨの笑顔。そして、喪失。
“失敗”という言葉が、刃のように胸を抉る。
もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
願った瞬間、世界が、
軋んだ。
空気が歪み、血と鉄の匂いが遠のく。
代わりに、記憶と幻の境界が溶け出していく。
「なん、だ?」
「過去の己をみたら?そしたら、どれだけーー」
どれだけ自分が“弱い”のか、わかるよ。
その刹那。
『レン』
背後から、レンにとって聞き覚えのある声が耳に届いた。
優しく、日なたのような温かさを持ち合わせた男性の声。
レンには分かった。その声の名も、顔も。ただ、もう二度と聞くこともないと思っていた声を。
ゆっくり、振り返ると、細身で背丈の高い男がそこに立っていた。
青い瞳、ボサボサの黒髪。
一瞬だけ、レンは息を止めた。
そして、止めた分の息を吐きながら、呟いた。
「父さん?」
父さんは、死んだはず。
あの日、俺を庇って……そのまま。
血が飛び散り、 周りの悲鳴と、自分の激しく鼓動する心臓。
赤い絨毯のような血液が、歩道を、自分の目の前の光景を赤に染め、絶望に染めていく。
その時の喉の乾きだとか、自分の情けなさは、忘れることは無い。
忘れられるはず……!
いつの間にか、肩が激しく上下し始めていた。
胸元を乱暴に抑えて、どうにかしないとと、自分に言い聞かせる。
『レン、大丈夫だ。』
「……?」
『俺が、ちゃんと守ってやるから。』
その言葉は、今を見ていなかった。
これは今のレンに向けて言っている言葉では無いのだ。
向けているのは、幼き頃のレン。
その言葉に、レンは心当たりがあった。
それは本当に小さな頃の、ぼやけた記憶。
レンは、昔の幼い自分にへと意識を戻らせる。
確か、齢八歳の時。
レンは父に、「好きなやつはいないの?」と聞かれ、思わずその質問をそのまま返した。
すると、父は笑って答えた。
「俺は、今も昔も、母さんが好きだよ。
もちろん、レンもミヨも、家族みんな大好きだ。大切な人たちだ。」
その言葉が、当時の幼いレンには不思議に聞こえて、思わず問い返した。
「大切……? おれたちが?」
父はぱちくりと瞬きをしたあと、レンの頭を撫でて、優しく微笑んだ。
「うん。俺はレンやミヨ、母さんに危険な目に遭わせたくないからな。
いざという時は、絶対――」
“守ってみせるから。”
……ああ。
そうだ。父さんは昔から、いつもそういう人だった。
そして、有言実行した。
俺を、庇って死んだ。
気づけば、胸の奥で何かが弾けた。
頭を棒で殴られたような衝撃と、どうしようもない焦燥が入り混じる。
おかしい。父さんは――死んだはずだ。
俺の、目の前で。
血の匂いも、崩れ落ちる音も、ちゃんと覚えてる。
じゃあ、今ここにいる“それ”はなんだ?
ヒバルの能力か、この異界が見せている幻か。
そんな理屈を浮かべても、心が追いつかない。
それでも、気づけば手が伸びていた。
「父さん……」
喉の奥が焼ける。
子供みたいに震えた声が、自分の口から出たことに、レン自身が一瞬だけ驚いた。
それでも――今だけはどうでもよかった。
もう一度だけ。
ほんの一瞬でいいから、この手で“父”に触れたかった。
けれど、その願いに触れるより早く。
幻は、淡く揺らめいて――ひび割れ、砕けた。
まるで、無邪気に笑いながら消えていくように。
「ほら、まだ過去にすがってるの?」
空気がねじれ、温かい気配はすべて霧散した。
そこに立っていたのは、さっきまでの“父”ではなく――ヒバルだった。
「……。」
「今はもう変えられないよ。人の死を取り消す観測者でもいない限りね。
でもさ、そんな都合のいい奴は――どこにも存在しない。」
言葉は残酷で、理屈ばかりだ。
だが、その表情にはほんの少しだけ、色の薄い同情がにじんでいた。
ヒバルは短剣をペン回しするように器用に回しながら、教師が生徒に諭すように言葉を継ぐ。
「今君が見た“お父さん”の姿も声も、全部この異空間が生み出した幻。
……ねぇ、気づいた? ここって、心の弱いところを優先して形にするんだよ。」
刃がひときわ強く光を弾く。
「だから、ちょっと試してみた。
君が――どれだけ後悔に縛られてるのか、って。」
ヒバルの瞳が、愉悦とも興味ともつかない光を宿した。
「結果は、見てのとおり。君はまだ、過去に触れられただけで崩れる程度には“弱い”ってわけ。」
淡々としているのに、胸に刺さる。
言葉よりも、その無造作な態度の方が残酷だった。
ゆっくり、床を軽く叩くようにステップを踏みながら、ヒバルは楽しげに続けた。
「守りたいものがあるなら、さ。全力で守ればいいじゃん。
――本当に、できるならね。」
レンを見下ろす目は、無邪気で、残酷で、どこか子どもみたいだ。
「でも実際はできなかった。お父さんも、妹も、組織の思い通りに殺された。
ほら、それが“答え”じゃん。」
ヒバルは肩をすくめ、小さく笑った。
「勇気がなかったんだよ。君には。
僕みたいに“全部やっちゃう”覚悟があれば良かったのに。」
短剣がゆっくり回転し、光が線を描く。
「大事な人を奪うやつなんて。
僕なら――躊躇なく、徹底的に消すよ?」
小鳥がさえずるような明るい声で、彼は問いかける。
「それすらできないの? レン。」
レンの全身を、ぶわりと何かが逆立つように走った。
ヒバルの言葉は軽い。だが、その軽さに反比例するように、意味だけがあまりにも重かった。
「……そんな事。お前は、人の命をなんだと?」
ヒバルは首を傾げ、まるで本当にわからないというように瞬きをした。
「みんなそうでしょ? 自分と、大事な人以外の命なんて興味ないよ。」
「ふざけてんのか?」
「ふざけてないよ?」
無邪気な声音で、あっさりと言い切る。
「僕はね、妹――シスのことが大好きなの。
あの子は、僕の全部なんだ。」
短剣を回す指先が、くるりと軽く跳ねた。
「でもさ。ママもパパも、僕たちふたりを“要らないもの”みたいに扱って……
なんでか知らないけど、奪おうとしたんだよね。」
ヒバルは、まるで天気の話をするように微笑んだ。
「だから、消したんだよ。
ほら、その方が早いし、安全でしょ?」
レンの手が強く震える。
「……お前……!」
「これは守るための行動だよ? 正しいでしょ?」
ヒバルは悪意も罪悪感もなく、純真な目でレンを見つめる。
「レンもさ。
大事な人を守りたいなら、そのくらいの“勇気”を持てば?」
笑顔のまま、狂気だけが濃く落ちた。
ヒバルの笑顔が目の前で揺れた。
言い返す言葉は、確かにあるはずだった。
間違ってるとか、ふざけるなとか、そんな理屈が通るかとか。
今の自分なら、いくらでも言えたはずだ。
……でも、声にならなかった。
喉の奥が、さっき父の名を呼んだときのまま固まっていた。
胸のどこかがまだ痛くて、熱くて、苦しい。
幻だとわかっているのに、あの手を掴めなかった後悔がまだ指先に残っている。
ヒバルの言葉が、静かに沈んで染み込んでくる。
「勇気がなかったんだよ。君には。」
違う。
違うはずなのに。
「さぁ、どーする?」
その幼い声が、どこかで父の声と重なった気がした。
“守ってみせるから。”
ふたつの声が胸の奥でぶつかり、混じり、ぐしゃぐしゃに揺れた。
レンはただ、浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
否定も肯定もできないまま――
ただ、自分の心がぐらりと傾いていくのを、必死に止めようとするだけだった。
どうしよう、こんなの、あまりにも。
答えなんて出ない……!出せない!
「見てみなよ。ほら。」
ヒバルはレンに急接近した。
小さな体で背伸びをし、レンの顔を両手でぐいっと掴む。
「っ……!」
抵抗する間もなく、視線が強制的に動かされる。
そして――見えた。
遠くの床に、イロハがうつ伏せに倒れていた。
白い髪は血で汚れ、背中には深く剣が突き立てられたまま。
微動だにしない。
空気も、光も、彼女だけを避けているように見えた。
世界から切り離された“死”の静けさだった。
「………………え?」
声にならない空気が、喉の奥でひゅっと掠れた。
胸の奥が、さっき父の幻を見たときよりも、ずっと深く、鋭く締めつけられる。
シスがそのそばでしゃがみ込み、子どものような無邪気さで笑っていた。
「ねぇレン。“守る”って、こういう時に使うんだよ?」
ヒバルの明るい声が、遠くで割れ、歪んで響く。
膝が、勝手に震えた。
思考が霧に呑まれていく。
“幻覚だろ?”
頭ではそうわかっているのに、身体がまるで理解しない。
心臓だけが暴れて、壊れそうだ。
過去も、後悔も、罪の記憶も――全部、吹き飛んだ。
ただひとつだけ、鮮烈に突き刺さる。
イロハが、“死”の淵に立たされている。
あぁ……。
どうして、こんな酷い目に遭わされなきゃいけない?
どうして、いつも俺は――こうなんだ。
どうして、俺なんかに力があった?
守りたいのに。
なのに、何も守れなかったくせに。
吐き気が込み上げて、レンはその場に崩れ落ちた。
手が震えて、地面に触れた指先が土を掴む。
これは幻覚だ、幻だって言い聞かせても――
血の匂いだけは、こびりついて、離れない。
「どーするのー? あのままだと、死んじゃうけど?」
分かってる。分かってるんだよ……!
あれは、幻覚だと思いたかった。だが実際は、あの姿は本当に起きていることなのだ。だから早く手を打たないと、本当に……。
また俺のせいで失ってしまう!
そんなレンの心情を掻き乱すべく、ヒバルはしゃがんで耳元で囁き始める。
「ねぇ〜。ぼーっとしてないでさ、どうにかしないと!」
息まじりの声で挑発するヒバルの声に、レンは視界が少しづつ暗転していく。
毒の含まれた針を刺され続けた心臓は、やがて。
プツリと、音を立てた。
イロハは、一人、赤を零していた。
串刺しにされて痛みに囚われ、更に 自分の無力さに潰されそうになる。
呼吸をするのが精一杯。
その様子を、蟻の行列を見下ろす、野心に満ちた目でシスは眺めていた。
イロハは霞んでいる意識の中、思考を反芻させてグラグラしている。
このまま出血し続けたら、どうなる?
答えは一つ。永遠の眠り、それだけ。
どうする?今は腹部を刃物が貫通しているから、治癒しようにもできない。
動けない、指ひとつ動かせない。まるで脳が命令を出すのを諦めたようね。
ここで終わる訳にもいかない。でも何かできるような力も残されていない。
このまま、枯れるのを待つか。否。
レンはどうなる?私が死んだら……彼は?
レンは、今ヒバルと戦っているの?見えない。見えない。
「……なかなか、死なないんだね。図太いなぁ。」
シスは見飽きた、とでも言いたげにそう言った。
イロハは、なかなか回らない頭を稼働させて、ひとつの問いを絞り出した。
「…………どうして、殺さないの?」
「………ん?」
「あなたたちの、任務は……篠塚レンの捕獲、及び私の抹消。なら、さっさと殺ればいいのでは?」
「生きるのを諦めたの?」
「………いえ。生きる意思はある。でも、不思議なの。さっさと終わらせてやった方が、楽じゃないかって。私も、あなたも。」
シスは、イロハの言葉に小首を傾げた。
まるで、面白い玩具の仕組みを観察する子供のようだ。
「楽……?」
その言葉をゆっくり噛み締めるように繰り返し、
やがて小さく笑った。
「あなた、勘違いしてるよ。」
イロハの目の前にしゃがみ込み、顔を覗きこむ。
無邪気な笑顔。だが瞳は、ぞっとするほど冷たい。
「“楽にしてあげる”なんて優しさ、私たち持ってないの。」
腹部の刃が、わずかに揺れた。
そのたび、イロハの肺は悲鳴を上げる。
「私が知りたいのは……」
シスは囁く。
「あなたがどこまで耐えるか。どこまで粘るか。どこで折れるか。」
「………観察、しているのね。」
「うん。」
シスは無邪気に笑い、刃の柄に指を添える。
「それにね――」
彼女の声が落ちた。
幼い声なのに、その温度だけが現実離れしていた。
「“死ぬ直前の顔”って、一瞬しか見られないでしょ?
だから、焦らされる方が好き。」
イロハの血の温度が、少しだけ冷えた。
シスは細い足で立ち上がり、つま先で軽くターンした。
「それに、レンが必死になる顔も見たいしね。
君が死んだら、どんな音で壊れるのかなって。」
喉から、息とも声ともつかない音が漏れた。
レン……。
視界が滲む。
霞む目の端で、遠くに、ヒバルがレンを追い詰めている影がかすかに揺れる。
シスは楽しそうに、もう一度イロハを覗き込んだ。
「ねぇ。まだ死なないで。 だって――」
その笑みは、血の色よりも冷たい。
「壊れる瞬間を、ちゃんと見ていたいから。」
シスの言葉が脳に染みこむように響く。
死にゆく相手への興味。
壊れる瞬間への期待。
人とは思えない残酷さ。
イロハは、ゆっくり瞬きをした。
まぶたの裏に浮かぶのは、レンの顔。
……レン。
名前を呼んだ瞬間、
胸の奥で、小さく何かが弾けた。
限界だったはずの意識が、ほんのわずかに浮上する。
死の縁に立つ身体が、まだ一滴だけ熱を持つ。
レンを、一人にしてしまう。
そう思うと、痛みよりも恐怖が喉を締めつけた。
レンは、壊れてしまう。
彼は過去に、父と、妹を失っている。こんな私でも、居なくなればきっと。
また誰かを失ったと、自分を責めて……。
そんなこと……絶対に駄目。
その瞬間――空気が、震えた。
シスがぴたりと動きを止めた。
まるで、風の向きが突然変わったかのように。
「……ん?」
イロハの視線に映らない場所。
遠く、レンがいる方角から。
――ゴゥッ……。
低く、地の底を揺らすような音。
重い鼓動のような、軋むような、聞いたことのない気配。
イロハの皮膚が、わずかにザワッと粟だつ。
……レン?
シスはゆっくり振り返り、遠くを見つめた。
子供の顔のまま、笑っているのか怯えているのか判断できない色で。
「……これが……。」
空気が、ぴきりとひび割れるように震えた。
イロハの心臓が、最後の力で脈打つ。
レンに、何か起きている?
嫌な予感だけが、凍えるほどはっきりと分かった。
そして。
その直後。
風景の色が、一瞬だけ“逆さ”にめくれた。
柱状の光が、淡く空間を照らし始めた。
「…………あ。」
第十四の月夜「双の相思相愛。」へ続く。