この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
地面に伏せたまま、呼吸が乱れていた。
肺が焼け付くほど苦しく、空気が薄く感じる。
血の匂い。
まだ消えない。
頭の奥にへばりついて、離れない。
――イロハが死ぬ。
その言葉だけが、何度も反響して脳を締めつける。
「ねぇレン。まだやるの? ほら、そんなに震えて……」
ヒバルの声が、霞んだ耳の奥を引っかいた。
子どもみたいに軽い声なのに、血で濡れた刃より鋭い。
レンは歯をきしませた。
胸の奥で、何かがカチリと軋むように鳴る。
違う。
こんなところで折れていいはずがない。
イロハが……イロハが倒れてるのに。
でも立てない。
足に力が入らない。
地面が遠く、暗く、揺れている。
「イロハ……」
名前を吐いた瞬間、胸の奥の痛みが爆ぜた。
失いたくない。
人殺しになりたくない。
今度こそ。
今度こそ――誰も失いたくない。
その願いなのか、悲鳴なのか、判別もできない想いが、
喉から音の形にもならず漏れた。
ヒバルが首を傾げる。
「ねぇ。壊れちゃうなら早く壊れてよ。そのほうが楽だよ?」
その瞬間だった。
視界の端で、色がひっくり返った。
世界の“裏側”が、薄く透けたように感じた。
耳鳴りがする。
腕が震える。
身体が、熱か冷気かも分からない何かに包まれる。
まるで、胸の奥に沈んでいた“何か”が
――目を覚まそうと蠢いた。
「……っ……!」
息が、勝手に吸い込まれる。
光が、漏れている。
どこから?
分からない。
ただ、自分の中心から“世界が引き裂ける音”がした。
ヒバルが、笑うのをやめた。
「……?」
空気が、押し返すように膨らむ。
空気が震えた。
ヒバルの髪が風もないのに揺れる。
レンは気づかなかった。
自分の両目の奥――黒い影と白い閃光がせめぎ合うように脈動していることに。
もう一度、イロハの名を思った。
その瞬間。
――世界が、微かに“軋んだ”。
「…………あ。」
イロハは、声とも息ともつかない音を漏らした。
遠くの闇の向こうで、流星が落ちるような光の柱が立ち上るのが見えたのだ。
何が……光っている?
視界は血で曇り、雨に濡れた窓越しの雷みたいにしか見えない。
なのに、皮膚の表面を針のような気配が這い上がってくる。
“ただの光じゃない”。
本能だけは、はっきりとそう警告していた。
……レン、まさか……!
彼の身に、何か起きているの……?
助けに行かなければ――そう思った瞬間、手が動かなかった。
助けるどころか、指一本さえ、意思に反して沈んだまま。
どうして……どうして動かないの?
こんなところで終わるなんて、赦さない……!
そんなイロハの焦燥など、シスには微塵も届かない。
彼女はイロハの血だまりを踏むことすら気にせず、光の方へ顔を向けた。
そして――獲物を捉えた猫のように、瞳孔を細くした。
まるで、“予定外だ”と呟くように。
その瞬間だった。
空気が、凍りつくように静止した。
吹いていた風が、糸を切られたように止まる。
遠くで揺れていた光だけが、名残を引くように弱まり、
残ったのは――何かが“近づく”気配。
緊張だけが、密度を増して流れている。
光は弱まりながらも、途切れることなく揺らめき続けた。
その中心に――ひとり、当たり前のように“立っている者”がいた。
まるで、舞台の幕が落ちた瞬間、
すべての視線と演技をひとりで奪い取る、一流の役者のように。
ああ……………そう。
それが、あなたの――力。
理解が追いついた、その一秒後。
イロハの視界は、すとん、と落ちるように暗転した。
空気が、砕けた。
世界がひっくり返ったのは、一瞬だった。
ヒバルの幼い笑い声も、イロハの倒れた場所から漂う血の匂いも、
すべてが遠くへ引き伸ばされ、触れられない膜越しの音のように歪んでいく。
胸の奥――
レンの持つ剣が、ようやく姿を現した。
ドクン。
その鼓動は、自分のものではなかった。
光る剣のものである。今まで仮面を被っていたのを、今外した。
「……あっ……」
ヒバルが声を漏らした。
驚いているのか、笑っているのか、判別もつかない声。
レンは、ゆっくり顔を上げた。
両眼の色が、変化していた。
いつもの空をそのまま放り込んだような色ではなく、雄黄に変化している。
喉が焼けるように熱く、呼吸をするたび胸の奥が軋む。
イロハが――死ぬ。
その事実だけが、異常に鮮明に、赤く染まって頭に浮かんだ。
あぁ。
なら、もう。
人を傷つけたくないとか、相手が子供だろうが、そんな理屈はもういいか。
「……あはっ。」
ヒバルが嬉しそうに笑った。
「出てきたね、“それ”。」
レンは、その言葉の意味を理解できなかった。
ただ、頭のどこかで何かが“折れた”感覚だけがあった。
レンが、剣を右から左下にへと動かした。
その瞬間。音もなく、突然ヒバルの腕から、消化器のように血が溢れはじめる。
誰も動いていない。誰も何も言っていない。攻撃の気配すら漂わせずに、誰かが攻撃したのだ。
「っ……!? え、今……なにが……」
シスの声は震えていた。
自分の兄の腕から、誰からの攻撃もなく傷ついた?
レンは、ゆっくりと前に歩き出す。
自分の足が地面を踏む感触は薄い。
まるで身体が、自分とは別の何かに操られているようだった。
胸の奥で鳴り続ける心臓は、どくどくと、獣のように脈打つ。
イロハの血の匂いが、世界のすべてを覆っていた。
――奪うな。
頭のどこかで、誰かの声がした。
――これ以上、俺から奪うな。
レンの中で何かが燃え広がる。
その熱は怒りではなく、憎悪でもない。
もっと深く、もっと黒い、
“喪失そのもの”のような感情。
ヒバルは、初めて見る光景に目を輝かせながら、
血が流れる腕を眺めていた。喚くことも、抑えることもなく。
赤の液が、六回、雫となって落ちた頃に――
口の端を、じわりと吊り上げた。
「それが、見たかった」
嬉しそうに血を振り払うと、今度は囁くように続けた。
「リアス様が言ってたんだよ。
――“レンの覚醒は、僕らが追いかけ続けた答えのひとつだ”って。
だからね、僕らはその瞬間 を“見る役目”なんだ。」
ヒバルは笑う。
腕の痛みより、その事実の方がよほど快感であるかのように。
「だから、腕の一本くらい……安いよ?
だって、これを持って帰れば――長は 、絶対に喜ぶよね、シス?」
シスは返事をしなかった。
兄の腕から流れる血より――レンの瞳の“雄黄”の色の方が、よほど恐ろしかったからだ。
風が、逆流した。
ヒバルが息を呑むより早く、
レンの姿が――目の前に“あった”。
一瞬前まで、数十メートル離れていたはずなのに。
移動の気配も、踏み込みの音も、一切なかった。
ただ、“次の瞬間にはそこにいた”。
「っは……!」
シスが声を漏らす。
その距離の詰め方が、人間ではなかった。
空間ごと“巻き取って短くした”みたいに、間合いが消えていた。
レンの瞳は雄黄に染まり、
表情はまるで死人のように感情が抜け落ちていた。
怒ってもいない。
狂ってもいない。
ただ――この状況を“終わらせる”ことだけを目的に動いている。
ヒバルは、震えた声で笑った。
「いいよ……すごくいい……!
そんな顔で殺しに来るなら……!」
レンは、ヒバルの言葉を最後まで聞かない。
刃が、横一閃に走った。
音が――しなかった。
ただ、世界が一枚、切り取られたように静まり返った。
刹那遅れて、
ヒバルの頬に赤い線が浮かんだ。
「……え?」
それはヒバル自身の声だった。
自分が斬られたことに、脳が追いつかない。
レンは剣を振った感覚すらない表情で、
ただ淡々と、次の一歩を踏み出した。
ヒバルは頬を押さえ、震えながら笑う。
「っ、は……ははっ……!
すごい……なんで……?
僕、見えなかった……“僕が”見えなかった……!」
シスはその光景を、恐怖で染まった瞳で見つめるしかなかった。
ヒバルは生まれてからずっと、
誰の攻撃も“見えなかったことなどない”。
それが――たった一振りで覆された。
「こいつ……」
シスは声にならない声で呟いた。
レンの周囲の空気が、色を失っていく。
音が吸い込まれ、世界が“静まり返っていく”。
まるで、
レンの周りだけ、世界が“死んでいく”みたいだった。
ヒバルは血を拭わず、目を輝かせる。
「もっと……もっと見せてよ……!
その力……観測者の、底……!」
レンは返事をしなかった。
ただ剣を構えず、腕を下ろしたままヒバルへ歩く。
武器を構える必要すらない。
ただ近づくだけで殺せると、身体が理解している。
ヒバルは笑いながら後ろへ跳ぶ。
「来いよ、レン!」
跳んだ瞬間――ヒバルの右肩が吹き飛んだ。
斬られた描写はない。
剣が触れた気配もない。
ただ、ヒバルが跳んだ位置に“死”が置かれていただけ。
シスは悲鳴を上げた。
「お兄ちゃん!」
だがヒバルは痛みも感じていないかのように笑う。
「……ッは……ははは!!
最高……本当に最高……!
そうだよ、それでいい……もっと……!」
レンは何も感情を返さない。
雄黄の瞳が、ただ“消すべき対象”を見るだけだった。
ヒバルは手首から血を垂らしながら、興奮で体を震わせた。
「ねぇ、レン。
君、それ……“観測の剣”だよね……?
君の真似事をしたイロハの剣でもなく。」
レンの足が、一瞬で消えた。
同時に、ヒバルの腹部に深い裂傷が走り、
彼の体がくの字に折れた。
血しぶきが舞うより早く、
レンがヒバルの横を歩き抜けた。
剣を振った軌跡すら見えない。
レンは自分が攻撃した実感すらなく、ただ呼吸だけしている。
ヒバルは血を吐きながら、それでも笑う。
「……あは……見える……見えるよ……!
“未来まで斬ってる”……
君、怖……っ……!」
言葉の最後は、痛みで途切れた。
シスは歩み寄ろうとしたが、
レンの雄黄の眼が一瞥した瞬間、
体が金縛りのように固まった。
「……っ……!」
怖いとか、怯えたとか、そんな次元ではない。
レンに“見られた”ことが、ただそれだけで、
死ぬと本能が警告していた。
そして。
血の匂いが、風に乗る。
遠く――イロハの倒れている方向から。
レンの胸の奥で、何かが強く脈打つ。
――ドクン。
“剣が呼んでいる”。
イロハが危ない、と。
レンは、ゆっくりと顔を向けた。
雄黄に染まった目が、かすかに揺れる。
そこには涙ではなく、“喪失の恐怖”があった。
ヒバルは血まみれのまま笑った。
「……行くの……?
あの子のところ……?」
シスは、
レンは答えない。
だが――その沈黙が、“答え”だった。
ヒバルは血を垂らしながら、満足げに笑った。
「ふーん……そうか……」
脱力し、声が小さくなっていく。
シスは、混沌に包まれていた。
お兄ちゃんがやられた。
お兄ちゃんがやられた。
お兄ちゃんがやられた。
どうして眺めるしかできなかったの?私たちの任務を忘れたの?
篠塚レンの捕獲とイロハの抹消。
任務遂行……今の私はイロハの能力を全て模倣した状態。
隙をついてお兄ちゃんに触れて、傷を治す。
怯えるな、動け。
シスはそう唱えて、イロハを串刺しにしていた剣を、鍵を開ける時のように、乱暴に引っこ抜いた。
その時、不意に。
レンの口角は、微かにあがった。
それでいい、それがいい。というように。
シスがイロハの剣を模倣して突進する。
残像を引くほどの速さ――イロハの身体能力そのもの。
だが。
レンは、ただ一度、手首を返しただけだった。
金の残光が弧を描き、
シスの剣に触れた瞬間。
――パァンッ!!
まるで“概念そのもの”が砕かれたように、
剣は光の破片となって霧散した。
「……え? え、ちょっと、なんで……?」
シスの瞳が揺れる。その直後――
ドサッ。
膝が沈む。
筋力が急速に抜け落ち、肺がうまく動かない。
イロハの身体能力が、
“ゼロに巻き戻された”のだ。
「……模倣が……切れた……?」
シスは慌てて、レンの剣を模倣しようと意識を集中させる。
だが――
バン。
絵に描いたように、
視界の奥で“黒いシャッター”が閉まる。
完全拒絶。
アクセス権限がない端末を叩いたときの、不快なエラー音が頭に鳴る。
「……っ!? え、模倣できない…… 」
レンがゆっくり歩いてくる。
淡く金色の揺らぎを宿した目が、
静かにシスを見下ろす。
「……“俺の剣”は、誰にも触れられない。」
それは宣告でも脅しでもない。
ただの“事実”。
シスの全身に、言いようのない悪寒が走る。
この人だけは模倣しちゃいけない。
この人は“世界の外側”にいる。
ああ、まさかこんなに……。
……いや、諦めちゃダメ。お兄ちゃんのために、お兄ちゃんか危ない。
反芻して言い聞かせ、シスは生身のまま、殴り掛かる。
シスは喉を裂く勢いで叫び、
生身の拳をレンの顔めがけて振り抜いた。
もう剣はない。
能力もない。
ただ“兄を守る”という、それだけで身体を動かしている。
だが――
パンッ。
乾いた音とともに、
レンの手が、シスの拳を“そっと”受け止めていた。
衝撃も、痛みもない。
それどころか――
まるで幼児の手を受け止めたかのような優しさだった。
「うっ……」
シスの声が震える。
怒りでも恐怖でもない。
理解できない、という絶望に近い色。
レンはただ静かに、
雄黄の瞳でシスを見下ろす。
その目には敵意も嘲りもない。
ただ一つだけ、深い底で燃えている。
――イロハのもとへ行かせろ。
シスの拳を握ったまま、レンが低く言う。
「……どけ。
今のおまえじゃ、俺は倒せない。」
その言葉は残酷でも優しいでもなく、
ただ“真実”だった。
シスの全身から力が抜ける。
「……お兄ちゃん、守らなきゃ……」
か細い呟き。
だがレンは、その言葉だけには反応した。
ほんの僅か。
目が揺れた。
「……守りたいなら、そこを離れろ。
死なせたくないんだろ?」
シスの息が止まる。
ずっと殺意を向けられていると思っていた。でも違う。
どれだけ力を振るっても、
どれだけ抗っても、
“この人は、私を殺すつもりがない”
そう、気づいてしまった。
――あぁ。
これが“観測者”か。
「……無理。あなたは通させない。」
「どうして?」
「あなたを捕縛できなくて死んでも……
せめて、あいつを抹消できたら……まだマシだから。」
レンは、わずかに目を細めた。
「兄が死ぬけど?」
シスの肩がびくりと震える。
レンは続けた。
静かで、あまりにも“普通すぎる”声で。
「……なんだ。
君、俺の妹と同じくらいの歳なんだな。」
その言葉が、シスを刺した。
「……妹?」
「……殺せるわけないだろ。」
淡々と。怒りも嘲りもない。
「そっちの兄も……致命傷は負わせてない。
イロハが……どうにか……してくれたら……
生きて帰れる……はずだ。
…………どうにかして……くれたら。」
最後の一言だけ、
声がかすれた。
祈りとも、願望とも、恐怖ともつかない。
レン自身が、自分の言っていることを
完全には信じられていない声。
シスは、息を呑んだ。
――この人、自分より壊れてる。
「……どうして、そこまで……」
「“奪われるのが嫌なんだ”。」
レンは静かに、胸の奥を押さえた。
「これ以上……俺から……
誰も……奪うな……」
雄黄の瞳が、燃えるように揺れた。
シスはその圧に、立っているのがやっとだった。
シスが言葉を失い、レンと向き合ったまま固まっているその瞬間だった。
――ぱちん。
乾いた指の音が、空気を裂いた。
「はーい、ちゅうもーく。」
ひどく幼い声だった。
場の空気にまるでそぐわない、明るすぎる声。
“ヒバル”が、笑っていた。
血まみれの腕を押さえもせず、
壊れたおもちゃを拾う子供のような仕草で。
「シスばっかり、ずるいよ。
なんでお兄ちゃんを置いて、そんな楽しそうに話してるの?」
シスの肩がぴくりと跳ねた。
「……お兄ちゃん、喋らないで。今は危ないから――」
「危ない? ねぇ、それ言うなら“もっと危ないの”がいるじゃん?」
ヒバルは、ゆっくりとレンの方へ顔を向ける。
雄黄の瞳と視線がぶつかる。
普通の人間なら、息をすることすら忘れるだろう緊張。
だがヒバルは――
「ねぇレン。」
血だまりの上を平然と歩きながら言った。
「“それ”になっちゃったんだね。」
レンの眉がわずかに動く。
ヒバルは続けた。
「嬉しいよ。
だって、お前みたいなのが、
“僕らの敵になる”って、面白すぎるじゃん。」
シスの顔色が変わる。
「お兄ちゃん、……今のレンは――」
「危ないんでしょ?
……だから、いいんだよ。」
ヒバルは笑いながらシスの肩に手を置いた。
優しいようでいて、逃がさない。
「シス、どかなくていいよ。
どうせ僕ら、どっちにしろここで死ぬかもしれないんだから。」
シスは震えた。
「……お兄ちゃんだけは、死んじゃダメだよ。」
ヒバルはゆっくり歩き、レンの目の前で止まる。
そして。
「ねぇレン。」
血塗れの子供が、天使のように微笑んだ。
「僕を殺してみせて。
その方が、ずっと楽しいから。」
その瞬間、空気が裂けた。
レンの剣が、低く唸る。
乾いた金属音が、反響した。
瞬きする間もなく、ヒバルが距離を詰めてくる。ぼさりとした前髪の向こうで、彼は笑っていた。まるで、この戦い自体が退屈しのぎだと言わんばかりに。
「レン、ほら、顔あげてよ。怖いの?」
刃が横薙ぎに来る。
レンは剣を滑らせるように受け、力の流れを殺す。しかしヒバルの腕はしなやかで、不気味なほどしなる。反撃の隙を作らせない。
「うるさい」
「えー? じゃあさ、こういう話はどう?」
ヒバルの足が軽く床を蹴った。影がぶれ、視界の端から鋭い痛みが走る。
肩を切られた――浅い傷だ。だが痛覚よりも、笑い声のほうが胸につき刺さる。
「ねぇ……お母さんとは最近どうかなぁ?まだ、嫌われてる?」
呼吸が止まった。
だが紛らわせるように刃を振るう。熱いはずなのに、指先は氷のように冷えていた。
ヒバルは楽しげに旋回し、床の上を滑るように避ける。
心がまだ迷っているのを、ヒバルは嗅ぎ取っている。
「ねぇレン。まだ帰りたいんでしょ?お父さん、 妹がいる優しい世界にさ」
ヒバルの刃がゆらりと光る。
無秩序なのに、美しいほど正確な軌道。
「いつまで、夢を見ているつもり?」
その刹那、ヒバルの動きが弾けた。
床を蹴る音すら消え、刃の軌跡だけが残像となって迫る。
レンは反射で剣を掲げ、受け止めた。衝撃が腕に走る。膝がきしむ。
「おっかしーなぁ。君さ、剣に選ばれたんでしょ? 自信なさげなわけ?」
「……」
「最初から選ばれなきゃよかったのにね」
ヒバルの足がレンの腹にめり込む。
「!」
床に叩きつけられた衝撃で、肺の空気が全部押し出される。
視界が揺れ、耳鳴りが世界を覆う。
床に片膝をつく。
立ち上がろうとするたび、腕が震えた。
選ばれるように仕組んだのは、お前たちだろう。
胸の奥に、影が渦巻く。
ヒバルが目を丸くし、すぐにくつくつと笑った。
次の瞬間、二人の動きが加速した。
ヒバルの刃が風を裂く。床を蹴る音さえ消える速度。
レンは寸前でそれを受け、押し返す。衝撃が火花となり散った。
「へぇ、さっきよりいい顔するじゃん」
「……
お前のためじゃない。」
レンの剣が重く、真っすぐ振り下ろす。ヒバルは横跳びでかわし、髪を払いながらニヤリと笑った。
「イロハはどうするの? ほら、後ろで死にかけてるけど」
胸に鈍い痛みが走る。
イロハの気配が、弱く揺れているのが分かった。
数多の人から命を狙われた、普通じゃない少女。
しかし、自分のことを知らない。イロハ自身は心は大人と言うが、実際は。
あまりにも幼い、背伸びをした子供なだけ。
ヒバルの攻撃が再び迫る。
「守れる? 不幸を振りまいた君に!」
「……不幸を振りまいたのは俺じゃない、お前ら観測者共だ」
レンの声が揺らぎながらも、確かだった。
二人の刃が激突し、火花が散る。
ヒバルの笑い声が全体に響く。
レンの足が踏み込み、風圧が生じる。
ふわり。
背後に、コトン、と足音が響いた。
軽く、ゆったりとした、それでいて凍るように冷たいものが。
後ろに誰かいる?
そんな思考を浮かばせる間もなく、本能的にレンは後ろにいる誰かを、振り向いて掴んだ。
「……ち。」
レンが掴んだのは、
レンが掴んだのは、白く細い手首、その手には、斬れ味が良さそうな短剣が握られていた。
シスだ。兄の能力を、模倣したのだ。
「シス、怖いんじゃなかったの?」
「お兄ちゃんが戦ってるそばで戦わないなんて、そんなことするわけないでしょ?私たちはいつもいっしょだもん。」
レンはシスの手首を掴んだまま、眉一つ動かさない。
だがその指先は、微かに震えていた。
短剣の冷たい刃が、皮膚に触れるほどの位置にあったからではない。
――この子を、本気で傷つける気になれない。
その事実が、自分の戦いを鈍らせる。
「観測者の剣持ちさん。びっくりした?」
シスは笑っていなかった。
けれど、それは怯えではない。
――決意に近い、何か歪んだ熱。
その眼差しに、ヒバルが満足そうに口角を上げる。
「そうそう、シスはこうじゃなきゃ。
ねぇ、レン。僕たちを可哀想だと思ってる?」
レンの喉がひりついた。
否定できない。胸の奥で、言葉にならない感情が小さく疼く。
「……頭がおかしいのが可哀想だなって。」
「じゃあ、どうするの?」
ヒバルの声は低く、ぞっとするほど楽しげだ。
「可哀想だから手加減する? シスが妹くらいの歳だから、斬れないんでしょ?」
「……ッ」
息が詰まる。
ヒバルはシスの横にゆっくり並んだ。
その立ち方は完全に“二本の刃”。
隙も、ためらいも、一切ない。
「僕たちは二人でひとつ。
生きるためなら、相手が誰だろうと迷わない」
シスが短剣を構え、穏やかに微笑む。
「観測者なのに迷ってるのは、あなたの方だよ?レン」
「……何が言いたい」
「だって――」
その声は小さいのに、刃より鋭かった。
「“選んだ今”より、
“失った過去”の方が好きなんでしょ?」
刺さった。
本当に心臓を殴られたみたいだった。
その瞬間。
ヒバルとシスが、鏡像のように同時に駆け出す。
「っ……!」
左右からの一撃。
レンは剣を横に構えてシスの短剣を受け止めつつ、ヒバルの斬撃も跳ね返す。
衝撃が二方向から襲いかかり、腕が痺れる。
足元が――崩れる。
そう思った、その刹那。
「レン」
かすれた声。
振り返るまでもなく分かった。
イロハだ。
イロハは立ち上がっていた。
ぐらつく足で。それでも剣を、絶対に手放さずに。
傷口は完全には塞がっていない。
肩から滴った血が床に落ち、赤い点を作る。
本当は戦える状態じゃない。
それでも――
「……大丈夫。」
その姿は痛いほど危うくて、
命そのものが火花のように揺れているのに。
ヒバルは舌打ちした。
「……串刺しのままにしておけばよかったな」
「ごめんなさい……」
「ううん、シスのせいじゃない。
悪いのは……諦めの悪い馬鹿だよ」
イロハはそこで、首を傾げた。
「馬鹿……? 私は馬でも鹿でもありませんよ?」
ヒバルが額に手を当てる。
「……あー、やっぱり馬鹿みたいだわ」
シスは表情ひとつ変えず、再び短剣を構える。
ただ、その足元には淡い“靄”がまとわり始めていた。
ヒバルの足元にも同じ靄が集まり、二人の影がゆらりと重なり合う。
ヒバルがレンを指差し、無邪気とも狂気ともつかない声で囁いた。
「じゃあ――決めようか。僕たちの“最後の手段”。」
「うん。お兄ちゃん、いっしょに。」
次の瞬間、空気がひっくり返ったみたいに重くなる。
二人の間に、説明のつかない“歪み”が走った。
レンの瞳が鋭く細まる。
「……来る!」
ヒバルとシスの気配が、完全に一致した。
二人の呼吸、歩幅、心拍――すべてが“同期”している。
「双鏡・断罪連舞」
ヒバルとシスが同時に跳ぶ。
二人の軌道は左右から迫っているのに、なぜか真正面からも斬撃が来ているように錯覚する。
「っ……!」
レンは剣で受け止めるが、二人の攻撃は呼吸すら赦さないほど速い。
受け止めるたびに、腕の骨が軋む。
――押し切られる。
そう確信した、その瞬間。
イロハの足元を、淡い蒼の光が走る。
それは“剣が動く時にだけ起こる微光”ではない。
もっと根源的な、イロハ固有の力が漏れ始めていた。
「その色……」
イロハの剣が震え、まるで喉奥で唸る獣のような音がした。
イロハが踏み込み、シスとヒバルの連撃に割って入る。
その剣筋はまだ不完全で、身体は限界のはずなのに――
二人の同期攻撃を確かに断ち切った。
「なっ……!」
シスの足が一瞬止まり、ヒバルの攻撃も遅れる。
「……レン!」
「分かってる!」
レンはイロハの前に半歩出る。
二人の剣先が、まるで呼応するように同じ方向を向いた。
ヒバルとシスの身体から吹き上がる靄が、まるで黒い花弁みたいに散り始める。
二人の輪郭がぶれ、影が何重にも増えていく。
「兄さん……やろう。」
「うん、シス。最後まで、いっしょに。」
二人は手をつないだわけでも、触れたわけでもない。
なのに、まるで同じ心臓を共有しているみたいな脈動が空気を震わせていた。
ヒバルとシスが同時に息を吸う。
「終ノ型・双鏡断界」
世界が、音ごと割れた。
床が爆ぜ、空気が悲鳴をあげる。
双子が走った軌跡に、黒い線が残り――次の瞬間、その線は空間ごと裂けた。
そして、ヒバルの認識延長が重なり。
「はっ……!」
既にレンの目の前に、ヒバルの刃は迫っている。
そのまま避けることすら赦さずに、短剣は。
レンの片目を、冷たい鉄は潰した。
「ぐあぁぁぁぁあ……っ!」
レンは衝撃で大きくふらつき、床に片膝をついた。
手で抑えても意味をなさない。紅い花は、指の隙間から溢れ続けている。
視界が揺れ、暗転が迫る。
ヒバルは、そんなレンを見下ろし、冷徹な笑みを浮かべた。
「片目が潰れようが、盲目になろうが――
君の“観測者としての力”さえ残っていればいい。
目も耳もいらないよ。道具っていうのは、最低限動けば十分なんだから。」
イロハの胸が、張り裂けそうになった。
――なんて、ことを……!
だが意外にも、イロハの声は震えていなかった。
「……大丈夫です、レン。」
彼女の手に握られた剣が、静かに、けれど確かに光を帯びていく。
蒼の粒子が舞い、まるで剣そのものが息をしているようだった。
イロハはレンの腕をつかみ、ぐいっと引き寄せる。
「少し、こちらに寄ってください。」
強引だった。
だが次の瞬間――
イロハの細い指が、レンの頭に触れ、優しく撫でた。
その瞬間、
レンの喪失したはずの片目が、みるみるうちに再生していく。
「あ……!」
焦点が合う。
その奇跡が、痛みよりも先にレンを震わせた。
イロハは、ひとつ息を吸い、瞳を上げる。
その瞳が――螺鈿色を経て、夜空のような深い藍へと染まった。
「さて。あなたを私の側へ寄せたのは……治すためだけじゃありません。」
心臓が止まったように思えた。
イロハの心眼。
すべてを見切る力。
背後で、シスが何かを察した。
「やば……――!」
襲いかかろうと足を踏み出すが、そんな時レンは。
「させるか。」
剣を思い切り、シスの腹部めがけて狙う。
剣はシスの小さな身体を突き刺し、そこに熱が籠り始める。
シスは吐血。声を漏らすことはなく、ただ剣を見て、レンを見る。
とくん、と剣は鼓動し、雷のようにバチバチと光り、音を立てる。
「……ごめん。」
レンがそう言った時、大きく爆発し、世界が揺れた。
それを冷淡に眺め、 イロハは、天へ向けて剣を高く掲げた。
蒼い光が走る。
そして、ひと言。
「――散れ。」
発せられた瞬間、世界が弾けた。
烈風が渦を巻き、レンとイロハを中心に嵐が生じる。
桜吹雪のような無数の斬撃が、暴風になって双子を襲った。
斬撃が舞い、風が咆哮し、視界が蒼に染まる。
ヒバルとシスは、まるで逃げ場のない夜に飲み込まれていくように――
完全に押し込まれた。
世界を裂いた嵐が、ふっと音を失った。
蒼い粒子が舞い落ちる。
床には斬撃の跡が無数に刻まれていた。
ヒバルとシスは、その中心で――
糸が切れたように崩れ落ちていた。
「……終わった、のか……?」
レンはよろめき、まだ治りきらない体で息を吐く。
イロハは返事をしない。
ただ、ゆっくりと剣を下ろしながら、
倒れた双子を見つめていた。
その視線は冷たくない。
怒りもない。
ただ――胸を締めつけられるような痛みだけが宿っていた。
レンが問うようにイロハを見た。
イロハは小さく首を振る。
「……まだ、生きています。
でも……もう戦いの決着はついています。」
ヒバルの指がかすかに震え、
シスが兄の服を掴もうと手を伸ばす。
レンは息をのむ。
イロハの声は静かで、けれど決して優しくはなかった。
「これは……あなたたちが望んだ結末じゃないはずなのに。」
その言葉に、レンは気づく。
イロハは彼らを“敵”として斬ったのではない。
救うべき対象として、斬ったのだ。
蒼い残光が静かに漂う。
傷ついた双子は、互いに寄り添うように動き、
息を整えようとしていた。
その姿は、戦いの化け物でも、兵器でもない。
ただの――
離れたくても離れられなかった兄妹。
レンは唇を噛む。
「……ヒバル……シス……」
イロハの剣先が、蒼く微かに揺れた。
「ここから先は……あなたたち自身が選ぶ番です。私にこのままトドメを刺されるか、残りの人生を堪能するか。」
その瞬間。
ヒバルの口が、ゆっくりと――
“言葉”を紡ぎ始める。
ヒバルは、幼い頃のシスの泣き顔を思い出していた。
散らかった部屋。
鼻を刺すアルコールの匂い。
踏むたびに軋む、壊れかけた床。
その部屋の端で、一人泣いていたのが――妹。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!』
乾いた音が響く。
殴る音。
骨の震える音。
「痛い」と泣く声が、壁に吸い込まれていく。
聞きたくなかった。
でも耳を塞ぐ勇気なんてなかった。
ママは泣いていた。
助けもしないで、ただ震えているだけ。
パパは酒に酔って、赤い顔で妹に手を上げる。
僕はその光景を、膝を抱えて、ただ“眺めることしかできなかった”。
――それが、僕たちふたりの“世界の中心”だった。
助けようとしないママ。
助けたくても力がない僕。
どちらも、救いにはなれない。
本当、滑稽だ。
僕は正真正銘の、意気地なしだ。
それでも――
妹は僕を嫌わなかった。
歪んだ世界の中で、唯一笑ってくれた。
「お兄ちゃんがいてくれるだけでいい」と言ってくれた。
世界でただひとりの味方は、
守れなかったはずの僕を、無垢な心は信じてくれた。
だから、だから。
僕は手を血に染めた。
パパとママが口論になった日のこと。
怒鳴り合うだけだったのが、度を超えて最終的に刃物を持ち始めた。
これはやばい。そう思った。
パパとママじゃ、絶対に男のパパの方が力で勝つ。
一体いつからこうなったのか、本当は仲良しだったはず。
なのに、もう。
互いを想いあってない、相思相愛って言葉からかけ離れすぎている。
このままは、二人どちらかの命どころか僕も妹も死ぬ。
失う?妹を?
僕だけが妹の心の拠り所であると同時に、僕にとっての心の拠り所は妹だけ。
嫌だ、奪うのはやめて。
そう思った時に、身体が勝手に動いた。台所から包丁を取り出して、僕は。
小さな殺人鬼と化した。
両親を殺したんだ。暴れまくったから僕も傷だらけ血だらけ。妹は無傷だけど、返り血がついてる。
僕はなんてことをしたんだ。
僕はなんてことをしたんだ。
刺した時の感触、気持ち悪い感触が離れない。
どうしたらいい?バレたら死んでしまう?
『お兄ちゃん……』
『……』
逃げよう。この小さな世界から。
僕は深夜、妹と手を繋いで家を飛び出した。
血だらけ、傷だらけで傷んだけど、そんなことはどうでもいいね。
でも、バレたら終わりかもね。
そう思いながら、手先が冷えている妹の手を、ぎゅっと握りしめた。
暗い夜道を二人で駆けた。
妹の手は氷みたいに冷たくて、握りしめても温度が戻らなかった。
それでも、泣きながら微笑んでいた。
『……お兄ちゃんがいれば、こわくないよ……』
胸が痛くて、吐きそうで、それでも僕は言葉を返せなかった。
逃げ続けた。
どれくらい走ったか分からない。
住宅街を抜け、街灯の少ない路地へ入り、やがて森の端まで来た。
僕らはただ、息を荒げて立ち尽くした。
血の匂い。
夜風。
そして――静寂。
その時だった。
『あら。こんな場所で……子どもが二人?』
声は、夜の闇の中から溶け出すように響いた。
どこか甘く、どこか底知れない。
月明かりが揺れ、ひとりの女が姿を現した。
黒いワンピース。
細く、長い指。
冷たい光を帯びた赤い瞳。
リアスだった。
僕も妹も、その場で固まった。
逃げたくても、足が動かなかった。
リアスは僕らを一瞥し、笑った。
『血の匂い……なるほど、事情は察したわ。』
妹の手が、びくっと震えた。
僕は隠すように、妹の前に立つ。
無意識に。
リアスはしゃがみ込み、僕らの目線に合わせて微笑む。
『ねぇ……生きたい?』
その声音は優しすぎて、逆に怖かった。
『生きたいなら、ついてきなさい。
あなたたちの過去なんて、誰も追ってこれない場所へ』
妹が不安げに僕を見上げる。
僕は迷った。
でも、もう僕らには行く場所がなかった。
『……お兄ちゃん。行こう?』
その言葉で、僕は決めた。
頷くと、リアスの唇がゆっくりと釣り上がった。
『いい子』
その笑みは、救いではなく――奈落の入口に見えた。
それでも、あの時の僕には分からなかった。
こうして、僕たちは
“ヒバル”と“シス”に
名前を奪われ、与えられ――
闇に呑まれていった。
もう長くない。
シスが、少しだけ笑った。
泣きそうな、でも泣かない、幼い笑みだった。
「ねぇ……お兄ちゃん」
「……なに、シス」
「私の名前、最期くらいちゃんと呼んで?」
ヒバルの指が、かすかに震えた。
「…………でも、今は任務……」
「もう終わるじゃん。」
二人の肩が触れ合う。
シスの瞳に、ふっと光が揺れた。
「もう……痛くないの。ねぇ、怖いって気持ちもないの」
ヒバルは、返事をするまでに少し時間がかかった。
言葉を探していた。
きっと、妹を安心させる言葉を。
でも結局、ただひとつしか出てこなかった。
「……カナタ」
その声は初めて震えていた。
妹の本当の名は、カナタ。
どんな願いが込められているのか分からない。
カナタは、兄の手を握る。
「ふふっ、お兄ちゃんは……守ってくれたよ。
私の世界、全部……お兄ちゃんだったから」
ヒバルは、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
その表情に狂気は一つもなかった。
ただ、ひどく優しい兄の顔だった。
「……なら、最後まで一緒だね」
「うん」
双子の身体を包む光が、限界に達する。
レンが息をのみ、前へ出ようとした。
イロハが彼の腕を掴む。
「行かせてあげてください。
……これは、二人の“終わり”です」
その声は驚くほど静かで、祈るようだった。
双子は互いに寄り添い、最後の呼吸をそっと合わせた。
「お兄ちゃん」
「なに、カナタ」
「生まれてきてよかった?」
「……カナタがいたからね」
光が満ち――
二人は、粉雪のような蒼い粒子へと崩れていった。
痛みも、怒りも、孤独もない。
ただ、静かに消えた。
残されたのは、二人の温度があった場所だけだった。
蒼い粒子が風に溶けていくのを見つめながら、レンは拳を握りしめた。
「……俺たちは、本当に……これで良かったのか」
声が震えていた。自分で殺ったことなのに。
イロハは隣に立ち、息を吸い込む。
目を閉じ、その痛みを受け止めるように。
「正しさなんて、誰にも分かりません。
でも……彼らは最後の瞬間、迷っていませんでした」
レンは胸の奥の痛みを吐き出すように、深く息をついた。
イロハはその横顔を見つめ、そっと言葉を添える。
「――だから、大丈夫です」
その一言に背中を押されるように、レンは双子が消えた場所に膝をつき、静かに頭を下げた。
蒼い粒子はすでに風に溶けて消えかけていたが、
そこには確かに、ふたりの “最期の温度” だけが残っていた。
短い、けれど真摯な弔いだった。
レンは立ち上がり、イロハと共に前を向く。
まだ終わっていない。
この先で、もっと深い闇が牙をむいている。
だが――今はただ、彼らの最後に敬意を捧げた。
ピキ……。
その瞬間、足元の世界が軋んだ。
異空間の床に亀裂が走り、
ガラスのように透き通った破片が、ぱらぱらと空へ舞い上がる。
砕けて消えゆく世界が、まるで小さな風鈴のように音を奏でた。
「……外は、何時でしょうか。」
イロハの問いは、現実を確かめるようであり、
それでいてどこか、不思議な静けさを帯びていた。
「さぁ……。」
レンは崩壊する空間を見上げながら呟く。
ガラス片のきらめきが、二人の影を揺らした。
まるで――夜明け前の星のように。
ピキ……ピキ……。
異空間の亀裂は一気に広がり、視界が白く弾けた。
――風。
――草の匂い。
気がつけば、ふたりは冷たい硬質の床ではなく、柔らかな草原の上に倒れ込んでいた。
「……外、ですか?」
イロハがまばたきを繰り返しながら空を見上げる。
そこには、茜色に染まった空。
夕日が大きく傾き、世界を金と橙に塗っていた。
「……うん、さっきまでいた場所。」
レンはそのまま仰向けになり、息を吐いた。戦いの緊張がようやく解けて、身体が地面と溶け合うように落ち着いていく。
イロハも隣に寝転がり、そっと目を閉じる。
「双子の最期が……こんな空だったら、少しは、救われたでしょうか。」
「……どうだろうな。」
レンは空を見上げたまま答える。
「何も変わらないのかも。」
優しい風が草を揺らし、二人の間を通り抜けた。
遠くで鳥が鳴く。
さっきまでの惨劇が嘘だったかのように、世界は静かで、温かくて、やさしかった。
「……もう少しだけ、こうしていてもいいですか?少し傷が痛みます。」
イロハがぽつりと言う。
「もちろん。」
ふたりはしばらく何も言わず、ただ茜色の空を眺め続けた。
戦いはまだ終わっていない。
この静けさは、きっと嵐の前のひととき。
それでも――今だけは。
風に揺れる草の音と、落ちていく陽の光に身を委ねて。
ふたりはただ、深く、静かに呼吸した。
第十五の月夜「星空のヒトカゲ。」へ続く。
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