テラーノベル
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玄関の扉を開けると、榊さんは傘立ての前で足を止めた。
「傘をお預かりいたします」
「いや。自分で持っています」
黒い長傘を手にしたまま、彼は靴を脱いだ。
スリッパを揃えて出す私の手元を、上から黙って見下ろしていた。
その視線の重さに、私は一度も顔を上げられなかった。
*
応接間に、四人がそろった。
ピンクのレースのカーテンの前で、麗奈がクッションを抱えている。蒼真は窓際の椅子で脚を組み、お義母さまは正面の椅子に、背筋をまっすぐにして座った。
その向かいに、榊さんがいた。
ソファに浅く腰かけ、膝の上に黒い鞄を置いている。
長い脚が、パステルのクッションに囲まれて、ひどく窮屈そうに見えた。
「お茶をお持ちいたしました」
私は盆を持ち、一人ずつ湯呑みを置いていった。
指が震えないように、盆の縁に親指を押しつけた。
「で、何の用?」
蒼真が口を開いた。笑ってはいなかった。
「株主として、上場前の資料を拝見したい。御影ホールディングスの持ち株の比率と、ミカゲ・ライフへの貸付の明細。来週までに、事務所へ送ってください」
「それは、会社を通してもらえれば」
「通しました。三度。返事がないので、来ました」
蒼真の頬から、えくぼが消えた。
「それと、離れの鍵を」
榊さんは、お義母さまのほうへ顔を向けた。
「父がアトリエに使っていた離れは、遺産の分け方で私の名義になっています。今月から、仕事場として使わせていただきます」
「……あそこには、あの人の絵が」
「絵には触れません。掃除も、自分でします」
お義母さまの扇子が、膝の上で止まっていた。
氷の榊。
業界では、そう呼ばれているらしい。企業の不正を調べる弁護士で、これまでに役員を三人、刑務所へ送ったという。蒼真が苦い顔でそう話していたのを、私は覚えている。
部屋の誰も、彼と目を合わせようとしなかった。
*
「ねえ、それって、これからずっとうちに出入りするってこと?」
麗奈が、クッションを抱えたまま身を乗り出した。
その肘が、テーブルの端の湯呑みに当たった。
榊さんの湯呑みが倒れた。
緑色のお茶が天板に広がり、端から床へこぼれかける。
体が、先に動いていた。
私はエプロンのポケットからハンカチを出し、テーブルの縁でお茶を受け止めた。
布に吸わせ、天板を拭き、湯呑みを起こす。榊さんの膝には、一滴もかかっていなかった。
「失礼いたしました。すぐに、新しいものを」
「やだ、凛さん、ちゃんと置いてよ」
麗奈が眉を寄せた。
自分の肘のことは、もう忘れた顔だった。
「家政婦なんだから、お客様の前でそういうの、気をつけてくれない?」
「申し訳ございません、奥様」
私は頭を下げた。
「こぼしたのは、私の肘です」
榊さんの声だった。
麗奈が、ぽかんと口を開けた。
「身を乗り出したときに当たりました。この人のせいではない」
榊さんは麗奈を見もしなかった。
湿ったハンカチを持った、私の手元を見ていた。
「……え、私、当たってた?」
「当たったのは私の肘だと言いました。二度は言いません」
麗奈は黙った。
蒼真が、鼻で笑うような息を吐いた。
なぜ、この人が家政婦をかばうのだろう。
放っておけば済むことなのに。
私は、濡れたハンカチを畳んだ。
いつもの癖だった。
正方形を三角に折り、両端を内側へ折り返して、もう一度斜めに。
母が器の店で、売り物を包む布をそうやって畳んでいた。羽を広げた小さな鳥の形。千鳥、と母は呼んでいた。
盆の端に、千鳥を一羽、置いた。
置いてから、気がついた。
榊さんの目が、止まっていた。
盆の上の、湿ったハンカチの鳥の上で。
一秒。二秒。
それから彼は、何事もなかったように顔を上げ、お義母さまに向き直った。
「鍵は、今日いただいて帰ります。それから、もう一つ」
榊さんは、鞄の留め金に指をかけた。
「父の書いたものが、何か出てきたら。手紙でも、メモ一枚でも。私にも知らせてください」
お義母さまの扇子が、ほんのわずかに傾いた。
「……あの人は、何も残さなかったわ。三年前に、そう申し上げたはずよ」
「ええ。伺いました」
榊さんは、それ以上言わなかった。
言わないことが、何よりも重く聞こえた。
私は盆を持って、応接間を出た。
扉を閉めるまで、うなじの火傷の痕がひりひりと熱かった。
*
厨房で新しいお茶を淹れながら、私は自分の手を見下ろした。
家政婦は、ハンカチを千鳥になど畳まない。
畳むとしても、ただの四つ折りだ。そんなことは、トキさんの家での三週間で、体に叩きこんだはずだった。
右手で書く。右手で切る。
十三段目は、わざと踏む。
決めたことは、守れている。
守れないのは、決めることさえ思いつかなかった、小さな癖のほうだ。
母の手つきまで、私は燃やしきれていなかった。
「凛さん」
厨房の入口に、蒼真が立っていた。
応接間を抜けてきたらしい。白いシャツの襟元のボタンを、指で乱暴に外している。
「あの男には、近づかないでくれ」
「……榊様、でございますか」
「様なんかつけなくていい。弁護士だよ。人の家の粗を探して、金にする仕事だ」
蒼真は、流しの横の私の手元を見た。
新しく淹れた湯呑みから、湯気が上がっている。
「離れを使うなんて言ってるけど、本当は、この家を嗅ぎ回りに来たんだ。何を聞かれても、何も答えなくていい。それと」
声が、少し低くなった。
「あいつが離れで誰と会って、何を運びこむか。気がついたら、僕に教えてくれ。……頼めるよね?」
えくぼが浮かんだ。
頼む顔ではなかった。
「かしこまりました、旦那様」
家政婦に、兄の見張りをさせる。
この人はいつも、自分の手は汚さない。ブレーキにも、触らなかった。
*
一時間後、お義母さまが離れの鍵を桐の小箱から出し、私に渡した。
「お見送りして、これをお渡しして。……私は、もう会いません」
玄関の扉を開けると、外は曇っていた。
石畳の先、門の手前で、榊さんが黒い長傘を手に、空を見上げていた。
「榊様。離れの鍵でございます」
私は鍵を両手で差し出した。
彼はそれを受け取り、上着のポケットにしまった。
「ありがとうございます」
それで終わるはずだった。
私は頭を下げ、きびすを返しかけた。
「佐伯さん」
足が止まった。
振り返ると、榊さんがスーツの内ポケットから、何か小さなものを出していた。
白いプラスチックのカード。
聖和医科大学病院の、診察券だった。
佐伯凛様。
私の名前ではない、私の名前が、そこに印字されていた。
「四十九日に、墓の陰で落としましたね」
声が、出なかった。
一月の、雪の墓地。杉の木の陰。
参列者が帰ったあと、榊さんは私が立っていた杉の根元に、しばらくしゃがみこんでいた。靴紐だと、私は思っていた。
「お返しする機会を、探していました」
彼は診察券を、私の手のひらにのせた。
指先は、触れなかった。
「……ありがとうございます。どこで落としたのか、わからなくて」
声が、いつもよりずっとかすれた。
「あの日は病院から、外出の許可をいただいて。事故で亡くなった方の法要だと、聞いたものですから」
「そうですか」
榊さんの声は、平らだった。
眼鏡の奥の切れ長の目が、私の顔の上で止まったまま、動かなかった。
この人とは、三年前に一度会っただけだ。
雨の勝手口で。ずぶ濡れの肩で。言葉は、ほとんど交わさなかった。
顔は、もう違う。声も違う。
なのにどうして、この人の目は、私の顔の向こう側を見ているのだろう。
「もう一つ、伺っても?」
榊さんは、診察券を渡した手を、ゆっくりと下ろした。
「なぜ、会ったこともない人の墓で、泣いていたんです?」
#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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コメント
1件
みぅです🤍 第13話、めっちゃ痺れた……「氷の弁護士」って呼ばれる榊さん、最初からただ者じゃない雰囲気だったけど、最後の診察券返すシーンほんと鳥肌立った。あの日、墓の陰で泣いてたの知ってたんだね…。それに、手帕を千鳥に畳む癖、思わず出ちゃう母の面影、すごく繊細で切なかった。凛さんの過去と榊さんの繋がり、これからどう動くのか気になりすぎる…更新楽しみにしてるね🖤