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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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コメント
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もう第14話……!めっちゃエモすぎて涙が止まらなかったよ〜😭💕 陽翔くんが「しょっぱい」って言った卵焼き、実はわざとだったんだね…ママの味を忘れさせないための必死のルールだったんだなって思うと、胸がぎゅってなった🥺💔 最後の「澪ママの味がする」で一気に涙腺崩壊…麗奈さんの目も怖いし続きが気になりすぎるよ〜!!✨
「一緒に、事故に遭った方です」
診察券を握ったまま、私は答えた。
「同じ車に乗っていました。私だけが、生き残りました」
嘘ではなかった。
嘘ではないことだけを、選んで並べた。
榊さんは、少しのあいだ黙っていた。
「そうですか」
それだけだった。
けれど、その目は少しも納得していなかった。
ぽつり、と額に冷たいものが当たった。
曇っていた空から、雨が落ちはじめていた。
榊さんは黒い長傘を開き、柄を私のほうへ向けた。
「使ってください」
「いえ、私はすぐそこですので」
「私は車です。返さなくていい」
断る前に、柄が手の中に押しこまれていた。
彼は雨の中を、門の外の黒い車まで歩いていった。濃紺の肩が、みるみる色を変えていく。
三年前の雨の日も、この人の肩は濡れていた。
あの日、私は勝手口で――。
首を振って、思い出を止めた。
傘の柄には、まだ彼の手の温度が残っていた。
玄関に戻ると、ホールに麗奈がいた。
私の手の、黒い大きな傘を見て、目を細める。
「それ、誰の?」
「お客様が、置いていかれました」
「ふうん。あの人、そういうことするんだ」
麗奈は、つまらなそうに肩をすくめた。
「傘立てにでも突っこんどいて。黒くて大きいの、うちの玄関に似合わないから」
「かしこまりました、奥様」
私は傘を畳み、勝手口の脇の、目立たない傘立てに立てた。
返さなくていい、と言われた傘だった。それでも、いつか返そうと思った。
*
陽翔は、この三日、ほとんど何も食べていなかった。
朝の卵焼きは、端をかじって残す。
幼稚園のお弁当は、ふりかけのごはんを三口だけ。夕食のハンバーグも、半分以上が皿に残った。
今年の連絡帳には、担任の先生の字で、こう書いてあった。
最近、お弁当をほとんど残しています。お家でのご様子はいかがでしょうか。
その夜、麗奈はそのページを開いたまま、食卓の端に放り出した。
「幼稚園って、いちいちうるさいのよね」
「家政婦の料理が、口に合わないのでしょう」
お義母さまは、箸を置いた。
私のほうは、見なかった。
「御影の子が、出されたものを残すなんて。前は、こんな子ではなかったわ」
「わがままよ、わがまま」
麗奈が、ワイングラスを揺らしながら笑った。
「前の人が甘やかしたから、こうなったの。お腹がすけば食べるって、何度も言ってるでしょ」
蒼真は、スマートフォンから目を上げなかった。
陽翔は何も言わず、ぴょんたの耳を握っていた。
小さな拳の関節が、白くなっていた。
*
その夜、私は陽翔の幼稚園バッグを片づけていた。
お弁当箱を出し、汚れたスモックを洗濯籠に入れる。
バッグの底に、表紙のすり切れた青いノートが一冊、挟まっていた。
連絡帳だった。
去年の、年中組のもの。新しいものに替わったあとも、誰もバッグから出していなかったのだ。
開いた。
左に傾いた、癖のある字が並んでいた。
私の字だった。
十月十五日。昨夜少し咳が出ましたが、朝は元気です。
十月二十八日。最近、食が細いです。甘酒を入れた卵焼きなら食べますので、お弁当に入れています。残したら、お知らせください。
その下に、担任の先生の、丸い赤ペンの字。
卵焼き、今日もぺろりでした! はるとくん、ママの卵焼きがいちばんだそうです。
ノートを持つ手が、震えた。
最後のページは、十一月二十日の朝だった。
明日は、お弁当に卵焼きを入れます。
その明日は、来なかった。
私は連絡帳を閉じ、バッグの底の、同じ場所に戻した。
どこにあるかを、覚えておけばいい。
*
夜中の二時。
水を取りに半地下から上がると、二階の廊下に、小さな影があった。
陽翔だった。
子ども部屋の前の床に、パジャマのまま座りこんでいる。
膝を抱え、ぴょんたを胸に押しつけて、吹き抜けの下の暗がりを見ていた。
「……坊ちゃん。眠れませんか」
陽翔は答えなかった。
私が近づいても、逃げなかった。
私は陽翔から、人ひとり分離れて座った。
廊下の床板が、紺のワンピース越しにひやりとした。
窓の外で、雨が降り続いていた。
しばらくして、陽翔が、ちらりと私の首を見た。
「……それ、なんでいつもまいてるの」
スカーフのことだった。
「火傷を、したんです。痕が残っているので」
「いたい?」
「もう、痛くありません」
陽翔は、ぴょんたの耳を指でつまんだ。
それから、また前を向いた。
その目は、階段の下を見ている。
玄関ホールの、暗い吹き抜け。朝になればあそこからママが上がってくると、まだどこかで思っているのかもしれない。
喉の奥で、歌が動いた。
ねんねの舟は、ぎいこ、ぎい。
唇が、最初の音の形になった。
私は唇を噛んだ。鉄の味がするまで、噛んだ。
歌えば、この子は気づく。
この歌を知っているのは、世界で、この子と私だけだ。
陽翔が、ぽつりと言った。
「……澪ママに、会いたい」
雨の音に消えそうな声だった。
「澪ママの卵焼きは、もっとあまいの。りんさんのは、しょっぱい」
初めて、名前を呼ばれた。
私の名前ではない、名前で。
「……そうでしたか」
それ以外、言えなかった。
ごめんね。しょっぱいのは、ママがわざとそうしているからなの。
本当は、そう言いたかった。
「澪ママ、あしたの朝起こしてくれるって、やくそくしたの。耳ぽんぽんって、したのに」
陽翔は、ぴょんたの耳に顔をうずめた。
私は膝の上で、両手を握りしめた。
手を伸ばせば、届く距離だった。その距離を、私は縮めなかった。
陽翔が眠りに落ちて、私の肩に寄りかかってくるまで。
小さな頭は、温かかった。
パジャマの裾から出た足の裏だけが、床板と同じくらい冷えきっていた。
私はその子を抱き上げてベッドに運び、布団をかけた。冷たい足を、布団の上から両手で包んだ。
耳には、触れなかった。
半地下の部屋に戻っても、眠れなかった。
鉄のベッドに腰かけて、自分の手を見た。
右手で書く。右手で切る。甘酒の卵焼きは、作らない。
あのルールは、この家で生き延びるために作った。
生き延びるのは、陽翔のそばにいるためだった。
そのそばで、あの子が痩せていく。
それなら、ルールのほうが間違っている。
天井近くの窓が、白みはじめていた。
*
翌朝五時。
私はパントリーの奥から、甘酒の瓶を出した。
自分で決めたことだった。
甘酒の卵焼きは、作らない。紙に書いて、燃やした。
燃やしたのは、守れなかったときに言い訳をしないためだ。
だから、言い訳はしない。
卵を三つ割る。甘酒を大さじ二杯。砂糖をひとつまみ、塩をほんの少し。
右手で菜箸を握り、卵焼き器に流す。
左手は、使わなかった。
それでも、焼ける匂いは、半年前と同じだった。
食堂に、皿を並べる。
陽翔の前に、小さな皿を一枚。
新聞を広げていた蒼真が、ふと顔を上げた。
「……なんか、甘い匂いがしないか」
味噌汁の椀を置く手が、止まりかけた。
私は、止めなかった。椀をそっと置き、箸を揃える。
「パンを、少し焼きましたので。奥様のお好きな」
「ああ、そう」
蒼真は、また新聞に目を落とした。
麗奈のためのクロワッサンを、本当に温めておいてよかった。私は胸の中で、短く息を吐いた。
陽翔はまた、箸で端をつまんだ。
少しだけ、かじった。
それから、もう一口。
小さな口が、止まった。
大きな黒目に、みるみる水がたまっていく。
ぽろり、と一粒、皿の上に落ちた。
「……澪ママの味がする」
食堂が、静まりかえった。
陽翔の肩の向こう、食堂の入口に、麗奈が立っていた。
パステルピンクのガウンの袖を胸の前で組み、私の顔を、じっと見ていた。