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今日は、定休日。 看板の明かりも落ち、シャッターの降りた純喫茶は、まるで町からそっと取り残されたように静かだった。
窓の外に立つのは、猫を抱えた婦人。
ガラス越しに薄暗い店内をのぞきこみ、少しだけ肩を落とす。
「あら、今日はお休みなのねぇ」
腕の中の猫にそっと語りかける。
「メルちゃん、残念でちゅね〜。おいしいミルク飲みたかったでちゅね〜」
「ニャア」
猫が一声だけ、まるで返事のように鳴いた。
その声だけが、静まり返った商店街にぽつんと響いた。
五十嵐浩二は、商店街の角にある古くからの惣菜屋へと向かっていた。
目当ては、昔から変わらない味の「かぼちゃコロッケ」。
ショーケースのガラス越しに、きつね色の衣が香ばしく湯気を立てている。
揚げたての匂いが、つんと鼻をくすぐる。
「……かぼちゃコロッケ、ひとつ」
店先の女将が、奥から出てきた。
歳は六十を過ぎたあたりだが、声にはまだ張りがある。
「あら、いらっしゃい。五十嵐さんとこの坊ちゃんね。このあいだ、お母さんいらしてたわよ〜」
「……いい加減ガキ扱いすんのやめてくださいよ」
そう言いながら、浩二は少し耳のあたりを赤くし、
コロッケが包まれるのをそわそわと待った。
女将は、ふふっと笑って紙袋にもうひとつ入れる。
「これ、ささみカツ。オマケしとくからね」
「……どーも」
五十嵐は一瞬だけ眉を動かし、目を逸らすようにして紙袋を受け取った。
その仕草はどこか、
思春期の少年が“ありがとう”を上手く言えずにいるような、
そんな気恥ずかしさを滲ませていた。
五十嵐は、再び商店街をゆっくり歩きながら、いつものように目の前にぶら下がった看板に目を向けた。
隣の八百屋が今日も果物を並べ、パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
そして、何気なく目をやった先に──
「……あ、あいつ」
足を止めた。
数歩先、前方に見覚えのある人物が歩いている。
萌香だ。
いつもならお店で会うのに、こうして商店街で出会うとなんだか新鮮な気分だ。
「おい」
五十嵐は、無意識に声をかける。
すると、萌香がびっくりしたように体を跳ねさせて振り返る。
「きゃ!! びっくりした!! 人を呼ぶ時に“おい”はないでしょ!!」
「あぁ、ごめん、すっげぇ集中してたから……」
萌香は、顔を赤くしながらも、すぐに笑顔を見せて「何してんの?」と尋ねた。
「何って、買い物に決まってんだろ」
五十嵐が肩をすくめて答えると、萌香も自分のエコバッグを指さしながら言った。
「私も、ちょっと買い物中。今、明日のブレンド考えてたんだけどね。こんな日に限って、なんで人を驚かせたくなるのかな、ホント。」
「……真面目だな。お前」
何気ない五十嵐の一言に、萌香はきょとんとした表情を見せた。
「そう? 私にとったら、『燈』はおじいちゃんとの思い出の店だから……。沢山の人に喜んでもらいたいだけなんだけどな」
そう言って、夕暮れの商店街の空を見上げる。
「そーいうの、真面目っつぅんだよ」
五十嵐の声には、少し照れたような響きがあった。
萌香はふふっと笑うと、エコバッグを肩にかけ直して一歩前を歩き出す。
その背中を見ながら、五十嵐は少しだけ、歩幅を合わせるようにして彼女の隣に並んだ。
「だいたい、叔父さんに任しといてゆっくり休めばいいだろ」
五十嵐が、歩きながらぽつりとこぼす。
萌香は、ふっと笑って首を横に振った。
「そういうわけにはいかないよ。私だって、身内なんだし」
その横顔は、どこか懐かしいものを見つめるような優しさをたたえていた。
夕焼けが背後から彼女の髪に差し込んで、ふわりとオレンジに染めている。
「……そっか」
五十嵐はそれ以上なにも言わなかった。
ただ手に持ったささみカツの紙袋が、少しだけ暖かく感じられた。
「それ、美味しそうだね」
萌香が隣を歩きながら、五十嵐の手元に視線を落とす。
「ああ? これか?……どうせサービスで貰ったやつだし、やるよ。ささみカツ」
気恥ずかしそうに差し出された紙袋。
萌香は受け取りながら、呆れたように眉を下げる。
「“どうせ”とか、“貰ったやつ”とか言わないの。もう少し可愛げある言い方しなよね」
「……うるせーな」
そう言いながらも、五十嵐の耳が、ほんのり赤いのを萌香は見逃さなかった。
暫し、たわいのない話をしていた。
けれど、沈黙の合間にふと訪れる視線の交差が、少しずつ気恥ずかしさを連れてくる。
「……コロッケ、冷めちまうから。先、帰るわ」
五十嵐がぶっきらぼうに言い残して、くるりと背を向ける。
「──あ、うん。……またね」
萌香は少し声を張って、その背に応える。
歩き出しかけた五十嵐が、足を止めて振り返る。
「……それ、熱いうちに食えよ」
「私、猫舌なんだ」
「……あっそ。じゃ、持って帰ってくえ」
言い終わると、また背を向けて、さっさと歩き出す。
夕焼けが、その背中をすっぽりと包んでいた。
すると、背後から誰かの足音が近づいてきた。
振り返ると、そこに立っていたのは──
先日、店でコーヒーを一口も飲まずに帰っていった、あのサラリーマンだった。
「あれ?萌香ちゃん。奇遇だね。今日はお休み?」
笑顔を浮かべながら近づいてくる男に、萌香は愛想よく会釈を返す。
「ええ。ちょっと、買い出しに出てきただけです」
男はその言葉に頷きつつ、どこか探るような視線を送ってきた。
「そうなんだ。……さっき、あの男の子と歩いてるの、見たよ」
言葉の端に、妙な棘が含まれていた。
ただの雑談にしては、声のトーンが低い。
萌香は笑顔を浮かべたまま、ほんの少しだけ首を傾げる。
「え?……あぁ、五十嵐くんですか。アルバイトの子ですよ。いつも手伝ってくれてて」
努めて淡々と、言葉を重ねる。笑顔は貼りつけたまま。
男は、それでもぐいと一歩詰め寄ってくる。
「……彼氏じゃないんだ」
突然、男の目が据わった。
その笑みには、前とは違う色が宿っていた。
「なら安心したよ。ねえ、今度こそさ。ゆっくり話せる時間、くれないかな」
「こないだはちょっと焦ってたけど、今日は……」
そのとき。
「──おい、何してんだ」
すぐ背後から、五十嵐の声がした。
サラリーマンの表情がわずかに引きつる。
「……チッ、何なんだ君は。彼氏でもないくせに」
その言葉に、五十嵐はピクリと眉を上げた。
「彼氏じゃなきゃなんだ?アンタこそ関係ないんじゃねえか?ただの客に、そこまで詮索されるいわれはねえよ」
男が顔をしかめる。だが五十嵐は怯まない。
「──ついでに言っとくが。
『君は可愛いから許す』とか、あの手のセリフ。全部セクハラだからな」
「な、何を……!」
「俺の前だけで言ってんなら、まだマシだったけどさ。
他の客がいたら、普通に出禁レベルだろ。わかってんのか?」
沈黙が落ちる。
男は口を開きかけたが、言い返す言葉が見つからない。
ただ、舌打ちして背を向けた。
「……覚えとけよ」
「そりゃどうも。記憶力には自信あるんでね」
五十嵐のその言葉が、完全にとどめだった。
「……ったく、こういう時に困んだぞ」
五十嵐がポケットに手を突っ込んだまま、目を逸らす。
「ハッキリ言わない性格が裏目に出んの。……分かったか?」
萌香は小さく頷いた。
「……ごめん。ありがとう」
風が、少しだけ強く吹いた。
商店街ののぼり旗が揺れ、夏の匂いを含んだ空気がふたりの間を抜ける。
「……ったく、お前のせいで、コロッケ冷めちまったじゃねえか」
そう言いながら、彼は紙袋の口をきゅっと閉じ直す。
それはまるで、何か別の感情まで包んで隠すような、不器用な仕草だった。
「ま、冷めてもまずかねえし。別にいいか」
五十嵐がそうぼやくと、萌香はふっと笑った。
「そうだね。誰かにこうやって、分けて貰ったものって──
……すっごく、美味しく感じるよねぇ。……って、あれ?」
返事がない。
振り向いた時には、彼の姿はもうなかった。
どこかで聞こえる蝉の声と、商店街を吹き抜ける風だけがそこにあった。
残ったのは、ほんのり温かいささみカツ。
そして、不思議と胸の奥まで沁みてくる、その優しさだった。