テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
今日は、萌香が大学のゼミの日。いつもならカウンターに立っている姿が見られるが、今日は不在。
店は、叔父の佐藤大吉が預かっている。
が──この男、筋金入りのサボり魔である。
「浩二ー、暇なら戸棚の掃除でもしとけー」
新聞を片手に、ソファにふんぞり返っている。
「なんで俺がやるんすか。今ドリップしてて忙しいんすけど」
グラスを拭いていた五十嵐浩二が、めんどくさそうに返す。
「ドリップにそんな神経質になる味じゃねえだろ〜」
湯呑の茶をすする音が静かな店内に響いた。
「はぁ?この豆、萌香が焙煎からブレンドまでこだわったやつなんですけど」
五十嵐がピシャリと睨む。
「細かいこと言ってるから彼女できねえんだよ〜」
「関係ねぇだろ!!!」
バサッと新聞が折り畳まれ、大吉がニヤニヤと顔を出す。
「まぁまぁ。ゼミのない日は、萌香に全部やらせてるしな。たまには俺が出てこないと、“血縁者の影が薄い”って言われちゃうからな」
「もう言われてますよ。レアキャラって」
「……たまに現れるSSRみたいで、逆に良くない?」
「レア度高くても中身がゴミなら誰も回さないっすよ」
「言ったな!?叔父に向かってその言い草!!」
店の奥、グラスの揺れる音と共に、ささやかな日常が今日も静かに続いていく
…はずだった。
「あらぁ、浩二君。」
扉の鈴が鳴ると同時に、聞き慣れた声が降ってきた。
三毛猫を抱えた婦人──例の“猫おばさん”だ。
猫の名前は「メル」。
そのせいで、五十嵐は密かに彼女を“メル婆さん”と呼んでいる。もちろん、心の中だけで。
「……」
カウンターの奥から、大吉が「あいよ出番だぞ」と言いたげに顎をしゃくってくる。
(ああもう、めんどくせぇ)
五十嵐は無言で立ち上がり、カウンターを出た。
「……いつもの席でいいすか?」
「もちろんよぉ。窓際は暖かくて気持ちいいみたいで、メルちゃんもお気に入りなの」
にこにこと笑う婦人と、腕の中で「ニャア」と鳴くメル。
店内にふわりと、毛と共に春の気配が運ばれてくるようだった。
「……お席ご案内します」
淡々としつつも、どこか慣れた動きで五十嵐が窓際の席へ案内する。
「ミルク、今日も用意してくれるかしら?」 「……かしこまりました」
いつも通り。
何も変わらない喫茶「燈」の、木漏れ日のような一コマ。
「……今日は、成分無調整っす。」
五十嵐がそう言いながら、白い器に注がれたぬるめのミルクを手にしてくる。
「あらぁ、気が利くわねぇ。さっすが浩二君、気がつく男はモテるのよ〜」
くすくすと笑いながら、メル婆さんは腕の中の猫に声をかけた。
「ほら、メル。ミルクでちゅよ〜」
しかし、メルはぴくりとも動かず、婦人の腕の中で香箱座りを続けたまま、興味なさげにそっぽを向いている。
「……どうしたの?お皿、置いてあげて頂戴?」
婦人が困ったように促すと、五十嵐は仕方なさそうにしゃがみこみ、そっと器を足元に置いた。
「……ほらよ。高いミルクだぞ、猫一匹で飲むには贅沢すぎんだろ」
「まぁ、そんなこと言って。ふふふ、照れてるのねぇ」
「いや照れてねぇし。てか、これが照れって思うあたり昭和だろ……」
窓際の席に、春の陽が差し込む。
メルはようやく興味を示したのか、もそりと動き、器に顔を寄せて舌を出した。
「ふふっ、ほら、やっぱり美味しいんじゃないの〜?」
婦人がご満悦に微笑み、五十嵐は小さくため息をついた。
「……ま、飲むならいいけどよ。あとで吐くなよ」
「なによもう、猫にまで毒吐いて〜。ほんっとに可愛げないんだから」
「こっちはアレルギー持ちなんでね。好かれなくて結構」
五十嵐はそう言って立ち上がると、カウンターへ戻っていった。
大吉は新聞を読みながら、くくくと笑っていた。
「……なんだよ」
「いやぁ、お前も随分板についてきたじゃねぇか。接客がよ」
「皮肉にしか聞こえねえ」
「でも、おばあちゃん、嬉しそうだったぞ?」
五十嵐はグラスを拭きながら、そっけなく呟いた。
「……知らねぇよ、そんなの」
けれど、その言葉には、どこか温度があった。
「……うちも猫、飼うか?」
カウンターの奥から、新聞を畳みながら大吉が呟いた。
「招き猫。なんちゃってなぁ」
「絶対やめろ!!」
思わず大声で突っ込んだ五十嵐に、メルがびくりと身体を揺らす。
「あ……悪い」
「浩二君、メルちゃんが驚いちゃったじゃないの〜」
メル婆さんがふくれっ面で抗議する。
「いや、だって……猫とか無理だし。俺、アレルギーだって何回言や分かんだよ」
「だ〜いじょうぶだって。店の裏にでも住まわせときゃ、客寄せに……」
「アホか。裏に住まわせて誰が世話すんだよ、俺だろ!?」
「まぁまぁ、冗談冗談」
大吉はのんきに笑っているが、目はどこか本気の色をしていた。
「……そういうとこだけ機動力高いの、やめてくんない?」
「だってさぁ、ほら。猫と一緒にコーヒー飲めるって、ウケる時代なんだろ?」
「そういうのは、カフェでやってくれ。うちは“純喫茶”なんだよ」
「……じゃあ、“純喫茶・猫支店”つくるか?」
「ほんとにやめろ!!」
メル婆さんが笑い声を漏らすと、メルも「ニャア」と小さく鳴いた。
その音が、日常の中にぽつんと溶けていく。
店の中にはゆったりとした時間が流れていた。
「……そうだ!」
急に思い出したように大吉が手を叩く。
「西田さん。煮干しありますよ。出汁とった残りで良ければ〜」
「いらん情報追加すな!!」
五十嵐の鋭いツッコミが店内に響いた。
「メルのためにさ〜、栄養たっぷりでいいと思うんだよねぇ」
大吉はニヤニヤとメル婆さんに煮干しのタッパーを見せる。
「まぁ!それはありがたいわぁ。メル、煮干し大好きなのよねぇ〜」
「ニャア」
「……猫の食レポに使われる純喫茶って、うちぐらいだろ……」
五十嵐は溜息をつきつつ、黙ってドリップポットを傾けた。
カウンターから漂うコーヒーの香りだけが、唯一“純”を守っていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!