テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昨日の放課後、侑くんたちから逃げるようにして繋いだ手の熱が、一晩経っても掌に残っているような気がしていた。
三限目、数学の時間。
窓から差し込む初夏の光が、教室内をうっすらと白く飛ばしている。先生の単調な解説を聞きながら、私は必死にノートを埋めていた。
(……あ、ここ、公式なんだっけ)
ペンを止めて教科書をめくろうとした、その時。
スッ、と隣から使い古されたノートが私の机に滑り込んできた。
主(ぬし)は言わずもがな、銀髪を少し揺らして欠伸を噛み殺している宮治くんだ。
ノートの端、余白の部分に、殴り書きのような、でもどこか丁寧な字でこう書かれていた。
『今日の昼飯、朱里の卵焼き、一口ちょうだい』
心臓がドクン、と跳ねた。
「おすそ分け」をする側だった治くんからの、初めての「リクエスト」。
私は慌てて、自分のノートの端に返事を書く。
『えっ、いいけど……治くんの豪華な購買パンと交換だよ?』
ノートを戻すと、彼はそれを一瞥し、フッと鼻で笑った。そしてまたサラサラと何かを書き足して、私の手元へ戻してくる。
『パンはいらん。お返しの「一口」は、放課後、俺が直接選ぶ』
「……っ」
思わず声が出そうになって、口を押さえた。
放課後、直接選ぶ? 卵焼きじゃないの?
治くんの書く言葉は、いつも食べ物の話のはずなのに、時々こうして私の思考を「計算外」の方向へ引きずり込んでいく。
「おい、宮! 成井! そこ、文通しとるんか。集中せぇ!」
教壇から田中先生の怒号が飛んできた。
私は飛び上がるように背筋を伸ばし、治くんは「……すんません」と、ちっとも反省していない様子で頭をかいた。
昼休み。
屋上のベンチで、約束通り私はお弁当箱を広げた。
治くんは私の隣にどっかりと座り、自分が買ってきた焼きそばパンには目もくれず、私の卵焼きをじっと見つめている。
「……はい、治くん。一番きれいに焼けたやつ」
「……ん。いただきます」
彼は箸を使わず、私の指先から直接、卵焼きをぱくりと咥えた。
唇が指先に微かに触れる。
「……っ、治くん! お箸使ってよ!」
「……ええやん。指についてる味まで美味いわ。……朱里、これ、毎日食いたい」
彼は満足げに咀嚼しながら、私の顔をじっと覗き込んできた。
スナギツネのような細い瞳が、今は獲物を完食した後のような、穏やかで深い熱を帯びている。
「……放課後の『お返し』。楽しみにしてろよ」
その時。
「あーーーっ!! また二人で屋上におる!! 治、自分だけ朱里ちゃんの卵焼き食うとかズルイぞ!!」
屋上の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、お約束の侑くんだ。
後ろには、スマホを構えた角名くんがニヤニヤしながら続いている。
「……ツム、うるさい。……これは朱里と俺の『契約』や。死ね」
「なんやと!? 俺にも一個よこせぇ!!」
「……やだ。一個もやらん。……朱里、行くで」
治くんは私の空いた手をグイッと掴むと、半分残った焼きそばパンを侑くんの口に押し込み、そのまま私を連れて屋上を後にした。
ノートの端の、秘密の注文。
卵焼きよりもずっと甘くて、胸が焼けるような「注文」が、まだ私の頭の中でリフレインしていた。