テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
翌朝。
王太子府の中庭に、秋の光が落ちていた。
帝辛は一人だった。
池の端に立ち、水面を見ている。
縫季は回廊の柱の陰から、その背中を見ていた。
昨日の祭祀から、帝辛は一人になる時間を作っている。臣下たちは距離を測りかねている。
帝辛の背は真っ直ぐだ。崩れていない。
崩れていないから、余計に痛い。
縫季は掌を開いた。
殷の線を探る。
外縁に、何かが触れては離れる感触がある。来ようとして、来られない。足場を探し、見つからない。
(……まだ彷徨っている)
縫季は掌を閉じた。
そのとき、別の揺らぎを感じた。
殷ではない方向。遠い場所から、細い波が届いている。
正史に記録のない方向から、力が動いた形跡。
方向は東。
(……東境)
脳裏に、あの書付がよぎる。
「東境、小規模な集落に不審な動き。詳細不明。継続監視中」
日付は、安堵配給が始まって三日後。本来、まだ十年先の話だ。
点が、また一本繋がった。
そのとき、足音がした。
清朗だ。
清朗は帝辛を見て、少し足を緩めた。それから迷わず歩み寄る。
迷わない。それだけで、縫季の胸の奥が微かに軋んだ。
「殿下」
帝辛が振り向く。その顔に、ほんのわずかな安堵が浮かぶ。
「……清朗か」
「お一人でしたか」
清朗は隣に立った。二人で池の水面を見つめる。
しばらく沈黙が続いた。
帝辛が口を開く。
「昨日の祭祀……私が至らないのだろうか」
声は静かだった。
清朗は少しだけ間を置いた。
「そんなことはありません」
帝辛は水面を見たままだ。
「私は、陛下の代わりにこの国を支えなければならない」「民に天命を示さなければならない」「なのに、天が応じない」
帝辛の言葉が、池の水面に落ちた。
「私には、何が足りないのだ」
問いではない。自分へ向けた刃だった。
清朗が一歩近づく。
「殿下は、背負えています」「間違っていない。だから、自分を責めないでください」
帝辛の目が揺れた。
縫季の掌が、わずかに熱くなる。
帝辛が自分で立つはずだった場所に、清朗の言葉が先に立っている。
「清朗……」
そのとき、風向きが変わった。
甘い香りが、縫季の鼻先をかすめる。
(……香)
清朗の衣から、静かに滲んでいる。
香袋でも香炉でもない。身体に染み込んだ香だ。
清朗は気づいていない。
帝辛の肩に手を置いた。
帝辛は何も言わない。ただ、その温度を受け取りながら、ゆっくり息を吸う。
帝辛の表情が、少しだけ緩んだ。
「……不思議だな」
帝辛が呟く。
「清朗のそばにいると、少し楽になる」
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
その言葉が、線の観察より先に胸へ刺さった。
一拍遅れて、縫季は判断を取り戻す。
(違う。楽になったのではない)
不安を感じる回路が、鈍くなっただけだ。
それが、もう毒になっている。
縫季の掌が、冷えた。
殷の線が、音もなく薄れた。
今日、帝辛は狂楽香を吸った。清朗の善意ごと。
誰も気づかない。帝辛も。清朗も。
だが線は知っている。
清朗が側にいるたび、帝辛が「一人で立っていた」記録が薄れていく。
固定点へ至る観測経路が薄れれば、天界側の足場も薄れる。足場が薄れれば、記録上そこへ降りる者も来られない。
来られなかった力は、別の線へ落ちる。
東へ。
(これが、歪の本体だ)
誰も間違っていない。
それなのに。
縫季は目を閉じた。
帝辛の笑顔が戻っている。それが本物ではないと、分かる。
分かるから、急がなければならない。
縫季は柱の陰から離れた。
足音を立てないように。二人の時間を汚さないように。
回廊を歩きながら、一度だけ振り返る。
池の端で、帝辛と清朗が並んでいる。
穏やかな秋の光の中で。
清朗の手が、帝辛の肩にある。
(あの笑みを、守る)
守るために、奪う。
縫季は前を向いた。廊下の先に、朝の光が伸びている。
明日の手順を頭の中で並べながら、縫季は歩き続けた。
コメント
1件
うわ、これ…めっちゃ重い回だ……。 帝辛が「何が足りないんだ」って自分を刃で刺すような問い、胸に来たよ。清朗の優しさが毒になってるって縫季が気づくシーン、ゾッとした。誰も悪くないのに、善意ごと狂楽香を吸わせてる構造が辛すぎる。 「守るために奪う」って縫季の決意、かっこいいけど切なさが勝つな……。次どうなるかマジで気になる🔥