テラーノベル
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夜明け前。王太子府は、まだ静まり返っている。
縫季は、清朗の部屋の前に立っていた。
接触、ではない。侵入だ。
縫季は、深く息を吐いた。吐いたはずなのに、胸の奥の重さは動かない。重いものを、ただ別の場所に移しただけの感覚だった。
(……やるしかない)
清朗の部屋に、香の出所がある。それを確かめなければ、歪の全体像は見えない。
縫季は、扉に手をかけた。
施錠はされていない。清朗は、疑うことを知らない男だ。あるいは――疑う必要のない場所に、ずっといた男だ。
扉が、静かに開く。縫季は、音を殺して中へ滑り込んだ。
部屋は、整っていた。
質素な寝台。卓の上には竹簡が几帳面に積まれている。壁際には、医官府の記録竹簡。竹簡の角が揃っている。それだけで、胸の奥がざらついた。
清朗らしい。『きちんと』している。そのきちんとが、すべて殿下へ向いている。
縫季は、卓に近づいた。
積まれた竹簡を、順に手に取る。配給の記録。医官府の活動報告。民生視察の予定表。
どれにも「殿下」の文字が多い。多すぎる。
指先に残る竹の乾いた感触が、妙に痛かった。
縫季は、卓の脇の小箱を開けた。
印、筆、墨。そして――小壺。
縫季の手が、止まった。
小さな銅製の壺。蓋は閉じているのに、甘い香が滲むように漂っている。
喉の奥が、勝手に渇いた。唾を飲み込むと、甘さが舌の裏に残る。
(……これだ)
縫季は、小壺を手に取った。
その瞬間、殷の線が反応する。
香の出所ではない。香の、核だ。
この小壺が存在し始めた日から、線が薄れ始めた。天界が応じなくなった。帝辛の孤独の記録が、上書きされ始めた。
全部、ここから始まっている。
重い。壺の重さというより、指の節が重くなる。持った瞬間、体が拒むのが分かった。
狂楽香。
名を思い浮かべただけで、胸の奥が冷える。
縫季が小壺を見つめていると、
「……お前、何してる」
声がした。
縫季は、振り返った。
清朗が、扉の前に立っていた。
いつもの笑顔はない。困惑だけが、顔に残っている。
「縫季……俺の部屋で」
視線が、小壺に吸い寄せられる。そこだけ、異様に鋭くなる。
「返してくれ」
短い声だった。その一言で、縫季の胃の奥がきゅっと縮む。
「清朗、これは――」
「それは」
清朗が、一歩踏み込んだ。
「俺の、香だ」
目が、小壺から離れない。
「返してくれ」
二度目の声は、低かった。怒りよりも、切羽詰まった音だった。
(……香がないと、不安なんだ)
理解した瞬間、胸の奥が痛む。同時に、別の感情が薄く熱を帯びる。
「清朗、この香は……」
「返せ!」
声が荒れた。
縫季は、息を呑んだ。
清朗が、こんな声を出すのを初めて見た。いつも穏やかで、笑顔を崩さない男が。
「これは……安堵の香だ」
清朗が言う。言い訳の形をしているのに、視線は壺から逸れない。
「医官から勧められて……」
言葉が、少しずつ整っていく。整うほど、怖くなる。
「殿下が、最近お疲れなんだ少しでも楽になってほしくて」
清朗の目が、遠くなる。
「殿下は……一人で戦ってる」
声に、熱が宿る。
「陛下が床に伏してから、ずっと」「民の期待、官吏たちの視線、黒闢の影……」
その名が出た瞬間、部屋の空気が冷えた。
「全部が、殿下の肩にのしかかってる」
清朗の拳が、強く握られる。
「俺にできることは、側にいることだけだ」
声が、わずかに震えた。
「でも、それだけじゃ足りない」
清朗が、縫季を見る。
「だから……この香を」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「殿下が少しでも楽になるなら」「俺は、何でもする」
胸の奥が、ひゅっと冷えた。
(……何でも)
縫季は、小壺を強く握りしめた。
清朗は、息を吐き、言葉を落とした。
「……俺は」
一拍。
「帝辛を、愛してる」
その瞬間、縫季の胸が凍りついた。
(……愛してる)
清朗は、それを言える。言葉にしても、揺るがない場所に立っている。
幼い頃から、ずっと一緒だった。帝辛の笑顔を、誰よりも知っている。側にいる理由が、時間の中に織り込まれている。
俺には、ない。
後から来た、よそ者だ。帝辛の過去を知らない。側にいる資格もない。
知っているのは、保存された後年の記録だけだ。
胸の奥で、黒いものが膨らむ。羨ましさに似ていて、吐き気にも似ている。
清朗が、続けた。
「幼い頃から、ずっと」「帝辛の笑顔を守るために、生きてきた」
縫季の拳が、無意識に握られる。爪が、掌に食い込む。
「あいつが笑ってくれるなら」「俺は、何でもできる」
その言葉が、胸の奥をきしませる。
(……お前は、それを言える)
縫季は、視線を落とした。
「……なあ」「お前も、帝辛が好きなんだろ?」
清朗の声は低かった。切羽詰まっているのに、押し殺した音だった。いや、押し殺しきれていない。
言葉の端に、掠れた震えが乗っている。
縫季は、小壺を握ったまま動けない。甘い香が、喉の奥に貼りつく。肺まで、ゆっくりと染み込んでくる。
「俺も――」
#BL
#ヒューマンドラマ
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コメント
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第24話、読みました。縫季が清朗の部屋に忍び込む緊張感から、小壺を握ったときの「指の節が重くなる」感覚まで、細かい描写が刺さりました。そして清朗の告白。「幼い頃からずっと」という言葉に、縫季が「後から来たよそ者」と自分を位置づける胸の冷え方が切なくて。香の出所が歪の核心だったという設定も、なるほどと腑に落ちました。続きが気になります。