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🐸『カエルが運ぶ恋』
第五話「小さな再会」
二軍の練習施設に移った小郷健斗は、心のどこかでまだ、割り切れずにいた。
「もう一度這い上がる」と決めたはずの気持ちは、練習を終えるたびに少しずつ擦り減っていく。
この日も、夕暮れの道を柴犬のハチと歩いていた。
涼しい風が吹き抜け、汗ばむ肌を冷やしていく。
ふと、公園の隅にある野球場が目に留まる。
子どもたちの元気な声。グラブの音。バットの快音。
少年野球の練習だった。
気づけば、フェンスの外からその光景を眺めていた。
一球一球に全力で取り組む姿。転んでも笑って立ち上がる子。
野球が――ただ純粋に楽しいと思っていた、あの頃の自分がそこにいた。
「小郷か?」
ふいに背後から声がした。
振り向くと、そこには懐かしい顔があった。
「……監督」
少年時代のチームで指導してくれた恩師・高井監督だった。
「テレビで見てるぞ。どうした、珍しいな、こんなとこに」
「今、ちょっと……ファームで」
「そうか。まあ、打てないときもある。だけどな、俺はあんときからずっと思ってるぞ。
お前の一番の武器は、悔しさを“笑顔”に変える力だ」
小郷は驚いたように目を見開いた。
「俺が覚えてる小郷は、打てなくても、すぐまた次を見てた。
悔し泣きしながら、泥だらけで笑ってたよな。……今、その顔、どこいった?」
小郷は言葉が出なかった。
ふと、少年たちの方を見る。
ある少年が見事なヒットを打って、仲間と飛び跳ねている。
その笑顔は、勝ち負けや記録なんか関係なく、ただ野球を楽しむ姿そのものだった。
――いつからだろう。
数字に、期待に、自分で自分を縛っていた。
バットを握るたびに、怖くなっていた。
「……忘れてました。野球が、好きだったってこと」
監督は笑って頷いた。
「なら、それを思い出しに来いよ。たまには子どもたちとキャッチボールでもしな」
「……いいですか?」
「もちろんだ。お前みたいな“プロ”が来てくれたら、こいつら、飛び跳ねるぞ」
ハチが小さく尻尾を振った。
その瞳が「行け」と言っているように見えた。
その数日後、小郷は二軍戦で3安打を放ち、続く試合でも結果を出し続けた。
久々にベンチで笑い、ハイタッチをする。
心が軽くなっていた。
そして1週間後、首脳陣から一通の電話が入る。
「小郷、来週から一軍合流だ。よく戻ってきたな」
「……はい。ありがとうございます」
電話を切ったあと、空を見上げた。
――俺は、もう一度あそこに立つ。
今度は、楽しむために。
夜、りなの元に一通のメッセージが届いた。
《また一軍に戻れることになりました。
あのとき、話を聞いてくれてありがとう。
りなさんのおかげで、忘れてたものを思い出せた気がします》
その文面を見て、りなは思わずほほえんだ。
キューが水槽の中で「ククッ」と小さく鳴いた。
「恋も、野球も――迷ったときは、“最初の気持ち”を思い出すんだ」
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