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定時を待たず、俺は「体調不良」を理由に会社を飛び出した。
阿部の憐れむような視線が背中に刺さって痛かった。
電車に揺られながら、俺は必死にスマホを操作していた。
母さんの言葉が、阿部の記憶が正しいのだとしたら、俺の知っている「俺」はどこへ消えた?
「……検索してみるか」
自分の名前、「佐藤タクミ」をSNSの検索欄に打ち込む。
ありふれた名前だ、同姓同名なんて腐るほどいる。
そう自分を納得させようとした瞬間、一つのアカウントが目に留まった。
プロフィールの経歴が、俺のものと完全に一致している。
出身中学、高校、大学、今の勤務先。
趣味の欄には「海釣り」と書いてある。
「……いた」
だが、アイコンに設定されている写真を見て、俺は息を止めた。
そこに写っているのは、俺じゃない。
彫りの深い顔立ちに、日焼けした肌。
全く見覚えのない、見知らぬ男だ。
投稿を遡ると、そこには俺が知らない「俺の人生」が記録されていた。
三年前の父親の葬式の写真。
俺が持っていたはずの万年筆を失くしたという愚痴。
そして、一週間前の投稿にはこうあった。
『ようやく、整理がついた。美咲、今までありがとう。俺は新しい一歩を踏み出すよ』
写真には、あの日俺が管理所から持ち帰った「プラチナの指輪」が
質屋のカウンターのような場所に置かれている様子が写っていた。
「こいつが……こいつが本物の『佐藤タクミ』なのか……?」
じゃあ、俺は何だ?
俺の脳内にある、美咲と過ごした記憶や、生きている親父の感触は、どこから来た?
気づくと、俺は自宅近くの公園のベンチに座り込んでいた。
ふと、自分の手を見る。
節くれだった指、爪の形。……おかしい。
俺の指はもっと細く、白かったはずだ。
「ッ……!」
俺は慌てて、公園の公衆トイレへ駆け込み、鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、ひどく顔色の悪い男だった。
まだ俺の顔だ。かろうじて俺の面影はある。
だが、右目の下に、昨日まではなかったはずの小さな「火傷の痕」が浮かび上がっていた。
ポケットから、あの真鍮製の鍵を取り出す。
これは、あのSNSの男の家の鍵か?
それとも、この火傷の痕を持つ「誰か」の鍵なのか。
俺は自分の顔を両手で強く擦った。
皮が剥けるほど擦っても、火傷の痕は消えない。
それどころか、鏡の中の男が、俺の知らない表情でニヤリと笑った気がした。
俺の身体が、俺の持ち物が、俺の過去が。
「忘れ物」の代償として、誰かの不用品と入れ替わっていく。
スマホが震えた。
通知画面には、SNSの「もう一人のタクミ」からの新規投稿が表示されている。
『新しい生活。最高の部屋だ。前の住人が置いていった時計も気に入ってる』
添えられた写真に写っていたのは、俺が今朝まで住んでいたはずの、俺の部屋だった。
そしてその男の腕には、俺が愛用していた腕時計が巻かれていた。