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やけに体が重い。
マンションを前にして,そう感じた。
階段を上る気力はとうに使い切ってしまった。いや,本当は歩く気力すら無かった。
エレベーターのボタンをやっとの思いで押す。次の瞬間には,体がふわりと浮かんだような感覚がして,とても楽だ,と感じた。ただ,それも束の間。降りる時には先程よりもずっと酷く,体が重くなった。まるで,鉛にでもなってしまったようだ。
沢山の書類と,大切なパソコンが入った鞄。これだけは濡らすまいと,大事に抱き抱えていたはずなのに,これでもかと言う程濡れている。…中身は無事だろうか。こういう時でも仕事の事を考えてしまう自分に,思わず失望する。
仕事とあたし,どっちが大事なの。
そんな台詞,何処かで聞いた気がする。…僕にはよく,分からない。もしも,もしもアメリカさんが,本当に浮気をしていたとするのなら。きっと僕はこの先,恋愛なんてものに時間を費やす事は無いだろう。
…ああ,駄目だ,無駄な事を考える!
気付けば,アメリカが待っているであろう扉は目の前。…早く,帰らないと。そう,思った矢先。
…手に,力が入らない。正確に言えば,どうしようも無い程,震えているのだ。
「大丈夫,大丈夫,大丈夫…」
自分に言い聞かせる様に,何度も何度も繰り返す。こうでもしなければ,今すぐにでも逃げ出してしまいそうだ。…いや,出来ることなら逃げ出したい。全てが,決まってしまう。この扉を開きさえすれば。その事実が,何よりも恐ろしく,日本を締め上げた。
足場の無い暗闇。何処まで落ちても,終わりは一向に見えない。
…躊躇っていたせいだろうか。天罰が下ったらしい。
「…日本!」
扉が,開いた。開いてしまった。
「アメリカ,さん…」
「何してたんだよ!心配したんだぜ,すっげぇ遅いから…て言うかびしょ濡れ!何でそんなに濡れてんだよ,そこまで酷くはならねぇだろ!?」
アメリカは一気にまくし立てた。お陰で息切れし,苦しそうにしゃがみ込んでしまった。
「…本当に,心配したから…」
今にも泣き出しそうな声。まるで,母親の帰りを待つ子供の様だ。
「…ごめんなさい」
取り敢えず,謝るより他は無い。
「…許さないから」
アメリカは立ち上がると,日本の腕を掴み,家の中に引き入れた。
「…取り敢えず,風呂入って…話はそれからだ」
話は,それから。
「待って下さい」
何を待つんだ。そんな顔で日本を見つめ返すアメリカ。
「それじゃ,遅いです」
「…だから,何が」
話さないと。勘違いならそれでいい,それでいいから。
「…さっき,知らない人と,歩いてましたよね」
声が震える。
「相合傘を,して」
見上げると,アメリカは大きく目を見開いていた。
「…とても,仲が,良さそうでした…」
「あの人は,誰ですか…?」
心臓が煩い。緊張で,叫びだしてしまいそうだ。
暫くの間,沈黙が流れた。実際には数分程度の沈黙だろうが,日本には永遠に感じられた。
「…何で」
静寂を破り,アメリカが呟いた。
「…俺が,浮気してると思ったのか」
怒気をはらんだ声。
「そう言うことじゃ…!」
「そう言う事だろ!」
大声の反論。思わず日本は,後退りした。
「違います,凄く仲が良さそうだったから,不安になってしまって…」
日本は,必死で弁明した。そうだ,ただ不安なだけだ。きっと,浮気なんてしてない。…だから,怒らないで。
「…ごめん,悪かった…」
アメリカは日本の怯える様子に焦ったのか,先程とは打って変わり,落ち着いた声で謝罪した。日本は安堵した。ちゃんと,伝わったのだと。…だが,それは思い違いだったらしい。
「…ちょっと,一人になりたい」
そう残すと,アメリカは奥の部屋へと行ってしまった。
…ああ,間違えたのだ。日本はそう思った。
僕は,間違えた。判断を誤った。アメリカさんを怒らせた。僕が,余計なことを言ったから。間違えたから。
段々,視界がぼやけていく。日本はそれを必死に押さえようとしたが,それはとめどなく流れ落ちてきた。スーツの袖でそれを拭う。日本はその時初めて,自分の体が酷く冷たいことに気付いた。
玄関のタイルに,スーツから滴る水が染み込む。もう,どうしようも無い。日本は鞄を床に放ると,静かに玄関のドアを開いた。
低く唸り声を上げる大雨は,日本を容赦無く叩いた。日本は心底,この雨を恨んだ。雨が降ることさえ無ければ,いつも通りの自分達で居られたはずだから。例えアメリカが浮気をしていたとしても…それは恐ろしい事だけれど。
よたよたと不安定な足元で,行く宛も無く彷徨った。とにかく,寒かった。何処かに入ろうか,とも考えたが,この様だ。きっと迷惑を掛けるだけだろう。
日本は駅に向かった。行く宛が無いなら,何処かに逃げてしまおう。それに,駅なら多少は暖が取れるだろう。これ以上,苦い思いはしたくない。
遠くから,電車の音が聞こえた気がした。きっともうすぐ,発車してしまう。ポケットをまさぐると,定期券があった。不幸中の幸いか,透明ケースに入れていたため,濡れてはいない。改札にそれを通すと,ピ,と小さく音がした。日本は,通勤するときのような嫌な感覚を覚えた。
目の前で電車の扉が開く。この扉をくぐれば,もう戻れない。
本当に,これでよかったのか。日本は,あと一歩が踏み出せない。もう少しちゃんと話し合うべきだったのでは?いや,まともに話を聞いてくれるはずが無い……
また,嫌な事が頭の中を回る。堪り兼ねて,日本はしゃがみ込んだ___
熱い!
日本はそう思った。実際には,熱いどころか,少し冷たいまでもあった。が,長時間大雨にさらされていた日本にとって,熱いと感じさせるには十分な温度だった。
驚いて振り返ると,そこにはびしょ濡れのアメリカが居た。傘も持たず,息を切らしている。恐らく走ってきたのだろう。
「アメリカさん…」
なんで,どうして。そんな事を聞く間も与えられず,日本の口は塞がれた。
また,遠くで電車の音が聞こえた。今度こそ,電車に乗れなくなってしまった。
駅のホームに佇む数人の人から,冷たい視線が送られる。日本は顔を真っ赤にして,アメリカにせがんだ。
「あ,アメリカさん…!どこか移動しましょう…!」
アメリカは何やら不満げに立ち上がると,もう離すまいと日本の腕を掴み,歩き始めた。
コンビニの前の小さなベンチ。そこにアメリカと日本は並んで腰を落とした。日本は,不安と疑問でいっぱいだった。
「…なぁ,悪かった」
アメリカが,先に口を開いた。
「家に,日本が居なくて,探し回ったんだ…」
だからびしょぬれだったのか。相当探し回ったに違い無い。
「今日あったこと,ちゃんと話すよ」
アメリカは静かに,日本が見たことについて話し始めた。
「___傘が無いから,送って欲しい?」
アメリカはそう頼んできた,小柄な女性社員を前にして,すっとんきょうな声を上げた。
「…悪いけど,今日は早く帰らなきゃなんないんで…」
勿論,送るつもりは一片たりとも無い。何故なら,アメリカには日本と言う,それはもう天使のような恋人が居るからだ。日本を不安にする訳にはいかない。それに,今日はお互い定時なのだから,早く帰りたい。
しかし,女性社員はどうしても送って欲しいらしく,粘り強く頼んできた。
「そんなに濡れるのが嫌なら,傘,貸しますよ」
アメリカがそう言うと,遂に女性社員は泣き出してしまった。こうなってしまっては仕方無い。アメリカは渋々,女性社員を送る事にした。
女性社員を送っている間も,脳内は日本のことばかりを考えていた。濡れていないかとか,家に誰も居なくて寂しくないだろうかとか,早く帰りたいとか。女性社員は隣で楽しそうに何か話していたが,アメリカは何も聞いていなかった。
やっと家に着くと,アメリカは一刻でも早く家に帰ろうとした。が,女性社員に腕を捕まれた時はぎょっとした。
「お礼がしたい?」
…全く,嫌になる。お礼と言えば何でも許されると思うな。こっちは一刻も早く帰りたいんだ。
「すみません,家で恋人が待ってるので」
女性社員は,酷く驚いた顔をした。十中八九,自分に気があったのだろう。残念ながら,こっちは一片たりとも無い。むしろマイナスだ。
恋人が居ると伝えると,女性社員は驚く程あっさりと解放してくれた。こんなことなら最初から伝えれば良かった,と思いつつも,アメリカは帰路を辿った。
話終えると,アメリカは日本に対し,静かに謝罪した。
「…ごめん,不安にさせるようなことして」
日本は驚いた。まさかそんな理由があったなんて,想像にもしなかったからだ。
「…いいえ,僕こそ,早とちりしてしまってすみません…!」
心の底から安心した。良かった,本当に良かった。浮気してたんじゃ無かった。そう思うと,涙が溢れて止まらなかった。
「う,うわ…!ごめん…!泣かせるつもりはなくて…」
「…違います…!」
日本は,全身の力を込めてアメリカに抱きついた。
「に,日本!?」
「…アメリカさん,大好きです…!」
「…俺も,大好き……」
お互いにびしょ濡れなのに,とても暖かかった。
「…日本,帰ろうぜ」
暫くして,アメリカが声をかけてきた。
もう少し抱き締め合っていたかったが,この大雨だ。早く帰った方がいい。
けど,その前に。
「…アメリカさん,アイス,買って行きません?」
透明なビニールに,水滴が滴る。くるくると傘を回すと,辺りにそれが飛び散り,また濡れる。
「何してるんだよ」
「面白いですよ」
その下には,不器用で,優しい人が二人。
「…日本,帰ったら風呂入ろうぜ」
「アイスも食べたいです」
「一緒に寝たい」
「もっとぎゅーしたいです」
お風呂に入ろう。アイスを食べよう。一緒に寝よう。抱き締め合おう。
小さいことでいい。高望みなんてしないから,この人の熱を感じていたい。
___この先も,ずっと。
春雨が優しく,二人を包み込んだ。
コメント
4件
電車 の 所 で バトエン を 想像 してしまった … () 幸 せになってよかったよぉ 😭
あぁよかった。バッドエンドにならなくて😭