────それから七日間、特に何事もなく穏やかな時間は過ぎた。
イーリスはヒルデガルドにもらった手帳の中身とにらめっこをしながら毎日研究に励んでいる。魔法の基礎からの学び直しに熱心で、そんな彼女の傍ではいつもアベルとアッシュが言いつけられた部屋の掃除を頑張っていた。
そんな折、昇級試験についての通知が冒険者ギルドから届き、封筒の中身を見て、ヒルデガルドはダイニングで一人、じっと通知書を見つめている。町から離れた迷宮洞窟で行われる試験であり、最近になって突如現れたのもあってか、まだ調査が進んでいないため、ある程度まで進んで調査報告書を仕上げてくるか、あるいは最深部に辿り着くのが目標となっている。
目撃証言では通常よりも屈強なコボルトロードの姿があったらしく、危険度は高い。そんな場所にイーリスを連れて行っても大丈夫だろうか? もし分断でもされたら怪我をさせてしまうかもしれず、ヒルデガルドは少し悩んでいた。
「あれっ。何してるの、ヒルデガルド?」
「イーリス。ちょうど良かった、これを見てくれ」
通知書を渡すとイーリスは目を丸くする。
「シルバーランク昇級試験の案内通知書!? ボクたちに!?」
「実は少し前にアディクから直接の誘いがあってね」
ギルドに所属してそれなりの期間を経ているイーリスはともかくとして、まだ新人と呼べるヒルデガルドは本来、昇級試験のための任務を受けられない。通常どれだけの実力を持つかもわからない冒険者に対する信頼がないからだ。
しかし、彼女は既に先の問題──セリオンや奴隷売買に関わっていた冒険者たち──において完璧と言っていいほどの解決をしてみせ、その隠された実力を見抜いたアディクが特別に通知書を用意してくれた。極めて異例中の異例な出来事だったので、イーリスも嬉しい半分、信じられないと驚いている。
「えっ、そっ、それでもちろん行くんだよね?」
「……ああ。だが軽い調査報告書を仕上げて済ませようかと」
「なんで!? 途中で引きあげるって勿体ないよ!」
「うむ、それはそうなんだが、君が怪我をしたら困るだろう?」
最深部へ辿り着くなどヒルデガルドには大したことではない。朝起きて散歩へ行く程度の感覚で済ませてしまうだろう。最深部まで行けばシルバーランクへの昇級どころか、ゴールドランクも視野に入る。だが、それでイーリスを危険に晒すのは不本意だった。ランクなどゆっくり上げていけばいい。冒険者を続けていく以上、絶対に機会はやってくるのだから。
彼女の気遣いにイーリスは口を尖らせる。
「でもさ、やっぱり行くべきだよ。これから先、ブロンズだと依頼は本当に回ってこないんだ。でもゴールド以上は別。こうして持ち家もあれば生活に余裕も出てくるし、上位のパーティに勧誘だって受けるかもしれない。名前が売れるのって悪いことじゃないよ?」
プラチナランクのパーティにはゴールドランクの冒険者が所属していることもある。それは将来的な実力を見越した勧誘であり、誰もが憧れを抱くような、普通ならば雲の上の話だ。しかし、ヒルデガルドは首を横に振った。
「たしかに君の言う通り、生活に余裕があるのもいいだろう。だが、人の役に立ちたいと思うのと注目の的になりたいのは、まったく別の話だ。私はもともと目立つのは好きじゃないんだ。みんなが勝手に憧れを抱いているだけで」
大賢者の肩書きが欲しかったわけではない。自分のような悲しい過去を持つ人間が一人でも減るような平和な未来を見たかった。見知らぬ誰かのために、誰も知らないままでも構わないから役に立てれば良かった。
本当に、彼女の願いはただそれだけだった。
「じゃあ、なおさら行くべきじゃないかな」
「|頑《かたく》なだな……。何故そうまでして行かせたがるんだ?」
あまりに押しが強いのに困らされたが、イーリスにはそうまでして彼女に昇級試験をやり遂げるのを勧める理由がある。
「ヒルデガルドは冒険者についてはあまり知らないと思うんだけど、ゴールドランク以上はただ魔物の討伐とか近隣の村の警備だったり、商団の護衛任務に就くわけじゃないんだ。世の中に奴隷売買が未だ蔓延っているのと同じくらい、強盗団や連中に雇われる傭兵なんかがいて、誘拐事件も大体が彼らの仕業さ。そういった人たちを捕まえるなんて危険な仕事もある。……それって、ヒルデガルドの言う『見知らぬ誰かのために役に立つ』って願いに繋がるものだとは思わない?」
黙って聞くヒルデガルドに話は続く。
「勇者と大賢者……二人の働きで世の中は大きく変わったよ。でも水面下が起きてることは減るどころか増えていったんだ。コボルトの奴隷だってそう。今もまだ助けが必要な人たちもいる。見て見ぬふりができないならやろうよ。注目の的になるのなんて、ちょっと注文したお酒にナッツが付いてくるくらいのおまけだと思ってさ」
そう言われると弱いのがヒルデガルドだ。魔物が減った今、もっと平和で手を取り合うような世界になってほしいという理想を掲げ、大賢者ではなくひとりの冒険者として生きる目標にするのも悪くない。一人でも多くの人々が笑顔になれるのなら。あるべきでない悪が少しでも減ってくれるなら。
「──ま、そこまで君が言うなら、やるだけやってみることにしよう。ただし、魔物が君の手に負えない強さだと分かったらすぐに引き返すこと。迷宮洞窟の内部はいつだって不思議に満ちてる。何が起きてもおかしくないからな」