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愛人の一言も出なかったな……と思いながら、唯由はチラチラと背後の蓮太郎をうかがっていた。
蓮太郎は早月と話しながら、なにやら頷いている。
言わなくていいのですか?
あなたのお嬢さんは、所詮、私の愛人ですとか言わなくていいのですか?
「あの~、お姉様。
うさぎの作り方を教えてくださるのではなかったのですか?
……お姉様、なんかすごい超絶技巧な林檎になってるんですけど」
月子に言われ、は? と唯由が手許を見ると、いつの間にか林檎に繊細で美しい、今にも飛び立ちそうな蝶が止まっていた。
はっ、しまったっ。
ぼんやりしてたっ、と唯由が無意識のうちに仕上げてしまった蝶を見ながら思ったとき、
「さ、月子。
帰るわよ」
と早月が立ち上がった。
「えーっ?
もうですのっ?」
まだお姉様に林檎の皮のむき方、習ってるところなんですが」
残念がる月子を急かして、早月は言う。
「林檎の皮むき機でも買いなさいよ」
「そんなのあるんですの?」
「あるわよ。
今は可愛いのがいろいろ」
お母さん、林檎の皮むくために、そんなかさばりそうなもの買うんですか……。
「まあ、うちのは業務用だけどね」
いや、一体、何個林檎むいてるんですか、と思ったが。
忙しいときの家事は金ですべて解決な早月らしいと思った。
まあ、家電や便利グッズそろえた方が家政婦さん雇うよりは安いかな……。
「じゃあね、蓮太郎くん。
唯由をよろしく」
振り返りそう言って、早月は去っていった。
……なにしに来たんだろうな、あの人。
滅多に覗かないのに。
保子からのメッセージが来ているようだった。
そのスマホを見て気づく。
もしかして、保子さんから、私たちが旅行に行くことを聞いてて、様子を見に来たんだったのかな?
スマホを手にメッセージを見ていると、蓮太郎がすぐ側に来ていた。
なんとなく一歩後退すると、蓮太郎も何故か下がる。
「……何故逃げる」
いや、あなたも逃げてますよ、と思いながら、唯由は蓮太郎を見た。
蓮太郎は沈黙して、唯由の顔を見つめたあと、
「みんな帰ったから、俺も帰るよ」
と言ってきた。
「あ、そ、そうですか。
わかりました。
そういえば、駐車場、月子がとめてましたよね?」
ああ、と蓮太郎は窓の外を見る。
「だから、いつものコインパーキングに入れてきた」
「そうなんですか、すみません」
駐車場まで送っていきましょうか、と唯由が言うと、いやいい、と言いかけた蓮太郎だったが、
「……そうだな。
送ってもらおうか」
と言う。
「俺がそのあと、此処までお前を送ってやるから」
いやだから、それ、面倒臭くないですか? と思っていたのだが。
実際に唯由の口から出た言葉は、
「……はい」
だった。
一度、車を駐車場から出し、物陰にとめた月子たちは二人の様子をうかがっていた。
「あの男は莫迦ですのっ?
せっかくお姉様と二人きりにして差し上げましたのに。
何故、すぐに出て来るんですのっ?」
しばらくすると、蓮太郎が車に唯由を乗せて戻ってくる。
唯由が中に入るのを見届け、蓮太郎は帰っていった。
「わざわざ送ってもらって、また送ってくるとか。
なんで、あんな面倒臭いことをするのかしら?」
「あれが恋というものよ、月子」
なんだかんだで一緒にいたいのよ、と早月は言う。
「今の状況をあんたとあんたの好きな人に置きかえてごらんなさいよ」
月子はしばらく黙り、妄想にふけったあとで、
「ときめきますわっ」
と叫んだ。
「そう。
よかったわ。
月子。
私、朝、早いからついでに送ってね」
助手席から早月に言われた月子は、
「わかりましたわっ。
お姉様のお母様っ」
と発進したが、すぐに早月に叫ばれる。
「ごめん、降ろしてっ。
私、忙しいのっ。
入院するわけにはいかないのっ。
自分の病院に担ぎ込まれるのも嫌っ」
あんた、もう一回、教習所行ってきなさいっ、と住宅街から広い道に出る前にもう、派手に駄目出しされていた。
唯由を送ったあと、アパートから出ようとした蓮太郎は窓際に唯由が立っているのに気がついた。
他の男に見初められてはいけないから、カーテンも開けるなと言ったので、唯由は、ちゃんとカーテン越しに送ってくれているようだった。
……莫迦なことを言っているという自覚はちょっとだけある。
そんな自分の阿呆な話を唯由がちゃんと聞いてくれているのは、たぶん、ごちゃごちゃ言われたら、面倒臭いからだろう。
だが、蓮太郎自身は、自分でカーテンも開けるなと言ったくせに、別れ際に顔が見られなかったことを寂しいと感じていた。
勝手なもんだな、と自分で思う。
そして、自宅に帰り、寝ようとしたところで気がついた。
怒涛の騒ぎで実感がなかったが、そういえば、キャンセルが出たから旅行に行けることになったんだったと。
この間の旅は、日帰りだったし。
生首にされそうになったり、バズーカで撃たれそうになったりで、落ち着かなかったが。
今度は二人でゆっくりできる。
そう思うと、なんだか眠れなくなってきた。
蓮太郎はそれでもベッドに入り、目を閉じる。
明日の仕事に差し支えるからだ。
だが、唯由の笑顔ばかりが浮かんできて眠れない。
駄目だっ、眠れないっ。
何度目かの寝返りのあと、蓮太郎は思った。
羊だ。
羊を買いに行かなければ!
蓮形寺のじいさんみたいにっ。
だが、こんな時間に何処で羊を売っているのかわからず。
そういえば、以前、テレビで食料品から車から鍾乳石まで売ってるスーパーを見た。
あそこに羊はいるだろうかと思う。
蓮太郎は頭の中で、羊を買いにスーパーのある九州に飛ぶシミュレーションをしてみた。
この時間に飛んでる飛行機はないから、自家用飛行機で飛ぶか。
それか、夜行列車で行くか。
蓮太郎は唯由とともに、殺人事件が起きそうな豪華列車に乗り込んだ。
だが、たどり着いたスーパーには置物のタヌキはいたが、羊はいなかった。
仕方なく唯由とふたり、練行の牧場に向かい、羊を連れ出そうとしたが、家政婦の雅代にグレネードランチャーで狙われる。
練行の家の広い庭にあったリンカーンに唯由と飛び乗って逃げようとしたが、パリン、と窓を割り、羊が飛び込んでき
「そうかっ。
お前が敵の工作員だったのかっ」
まんまと騙されていたっ、と叫んだところで目が覚めた。
……何処までが羊を買いに行く俺の計画で、何処からが夢だったんだろうな。
眩しい朝の光の中、蓮太郎は、ぼんやりする。
夢もリアルな世界での思考もあまり境目がなく。
何処からが夢だったのか、自分でも判別がつかなかった。
旅行が楽しみすぎて、それまでどう過ごしていいのかわからない。
そんなことを思いながら、蓮太郎は次の日、社食に向かい、歩いていた。
すると、その道中、道馬と一緒になる。
あ、月子に狙われてる道馬……と思ったが、月子がせっせと料理の特訓をしていることは黙っておいた。
なんとなく道馬に旅行の話をすると、
「ほう。
お前にしては、ちゃんと進展してるんだな。
旅行までどう過ごしていいかわからないって。
当日、楽しく過ごせるように、それまでに、よりラブラブになっておけばいいじゃないか」
そう道馬はアドバイスしてくれた。
「より、ラブラブに。
どうやったらなるんだろうな」
すると道馬は意外にもそこで考え込んだ。
改めて聞かれてもわからない、と言う。
「いちいち、頭で考えて動いたことないからなー」
「そういえば、訊いておいてなんなんだが。
そもそも、チャラいと評判のお前の言うことなど聞いて大丈夫なのだろうか」
「……いくら歯に衣着せぬ雪村とは言え、同期から正面切って、チャラいとか言われると、もう落ち着いてもいい年だし、不安になるな」
二人で、うーん、と考えながら社食に入ろうとしたとき、ちょうど紗江が出てきた。
「今日の日替わり、洋食はタンシチュー。
美味しかったよ~。
どうしたの? 二人で渋い顔して」
「いや、どうしたら、蓮形寺とラブラブになれるのかなと」
「ははは。
そんなこと、頭で考えてるうちはなれないよ。
でも、最近、姫はさあ。
前と違って、れんれんに……」
そこで、ビクッと紗江は振り返る。
「なになになに~っ。
れんれんが付いてくるっ。
道馬くん、とってとってとってーっ」
と蓮太郎を虫かなにかのように言い、逃げ惑う。
紗江の足が速くなったので、自分もさらに早足になりながら、蓮太郎は言った。
「いやいや、紗江さんがしゃべりながら行ってしまうからですよ」
紗江はいつものように、話している途中でもう歩いていってしまっていたのだが。
今日は気になりすぎて付いていってしまったのだ。
「いや~、れんれんがザカザカやってくるーっ。
道馬くーんっ」
と紗江は叫んだが、道馬は社食の入り口で女子社員と笑顔で話していた。
チャラいのやめるんじゃなかったのか……と思いながらも、蓮太郎は紗江に付いていく。
「たいした話じゃないっ。
たいした話じゃないって、れんれんーっ。
あっ、姫ーっ」
紗江はたまたま現れた唯由に泣きついていた。
どう過ごしていいかわからないな、と思っていた。
旅行まで緊張しすぎて。
そんなことを考えながら、社食に向かって歩いていた唯由の許に紗江が逃げ込んでくる。
「れんれんがっ。
れんれんがっ。
私が、最近、姫が……
唯由ちゃんが、れんれんに対して、すごく気を許してる感じがするって言おうと思ったら、何処までもついてきてっ。
唯由ちゃんっ、助けてっ。
唯由ちゃんっ、なんで逃げるのっ。
私、唯由ちゃんが最近、れんれんのこと、前より好きみたいって言いたかっただけなのにっ。
なんで走っていなくなるのっ、唯由ちゃーんっ」
とってもとってもいい人なんだけどっ。
今だけ、ハタキで、えいっ、てやりたいです、紗江さんっ、と思いながら、唯由は今、出てきた本館に走って戻った。