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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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コメント
1件
ああ、この話……すごく苦しかったです。手紙を破られるシーン、鳥肌が立ちました。凛さんが書いた最後の字を、笑いながら破る麗奈の残酷さと、それを拾いながらも「私が書いた手紙ですと微笑む言う凛の嘘でぐっと言葉で守る決意に強い意志。 でも一番好きなのは最後の台詞先生の好きな最後の台詞、考え深いのに好き。お母様のおばぎ母さまが「面接短くおばぎ様母さんの最後に、母さまがら知ってる蝶一人の人は、よくもそって書く伝わってくる重みがある吐き出しにしようって思ったで……本当にこの物語が好きです。
足が、小径の途中で止まりかけた。
陽翔の重みが、腕の中でゆっくりと上下していた。
眠りかけの子どもの、湿った息。
「……坊ちゃんが、歌っていらしたからです」
私は、前を向いたまま答えた。
「お部屋で、歌っていらしたでしょう。きれいな歌だったので、覚えてしまいました」
返事は、なかった。
首筋に、陽翔の頬が押しつけられた。
小さな手が、私のスカーフの端を、きゅっと握った。
「……そっか」
それきり、陽翔は寝息を立てはじめた。
ベッドに寝かせ、毛布を肩まで掛けた。
ぴょんたを、腕の中に入れてやる。
部屋を出るとき、窓辺のコップが目に入った。
半分の水に、褪せた紫陽花が一輪、まだ挿してあった。
十時十五分、お義母さまのタクシーが門の前に止まった。
私は玄関で、草履を揃えて待っていた。
*
翌日の日曜日、私はお義母さまの使いで、駅前の和菓子屋へ出かけた。
七夕の茶会の主菓子を、注文するためだった。
天の川に見立てた、青い錦玉羹。お義母さまが毎年、同じ店に頼むものだ。私が嫁いだ年も、そうだった。
「御影さんの、七夕の錦玉ね。毎年ありがとうございます」
店のおかみさんは、帳面をめくりながら言った。
「去年までは、若い奥様が頼みに見えてたのよ。あんなことになって、本当にねえ。いつも、坊ちゃんの分を一つ多く包んでって」
「……さようでございますか」
「今年も、一つ多くしておく?」
私は、少しだけ迷ってから、うなずいた。
おかみさんは、何も知らずに、帳面に「一つ増」と書き足した。
帰りは、午後の三時を過ぎていた。
勝手口から入り、半地下への階段を下りた。
自分の部屋の前で、足が止まった。
ドアが、開いていた。
*
部屋の中は、ひっくり返されていた。
鉄のベッドの布団が、床に引きずり下ろされている。
鏡台の引き出しは全部抜かれ、中身が床の上にぶちまけられていた。ヘアピン、ハンドクリーム、替えの手袋。トキさんに借りたスーツが、ハンガーごと床に落ちていた。
その真ん中に、麗奈が座っていた。
私の鉄のベッドの端に、脚を組んで。
膝の上に、凛さんのバッグを広げていた。
「おかえり、凛さん」
麗奈は、顔を上げなかった。
手に、白い封筒を持っていた。
封が、切られていた。
あかつき園の、大貫先生宛ての手紙。
凛さんが、ポストに入れられなかった手紙。私が一度も開けずに、バッグの内ポケットにしまっていたもの。
「奥様。それは」
「読んであげるね」
麗奈は、便箋を指でつまんで広げた。
丸い、右上がりの字が、ちらりと見えた。
「『大貫先生。お元気ですか。東京のお屋敷で、働かせてもらえることになりそうです』」
麗奈の声が、わざとらしく抑揚をつけた。
「『お屋敷の大奥様は、ちょっと怖そうな方だけど、凛は、ずくを出して働きます』」
ずくを出して。
凛さんの声で、その言葉が聞こえた気がした。
雨の坂の途中で、ずぶ濡れのまま笑っていた、あの人の声で。
「ずく、だって」
麗奈が、顔を上げた。
「長野の言葉なんでしょ? 調べたの。根気がある、って意味なんだって」
便箋を、ひらひらと振った。
「あんた、ここに来てから一回も、そういう言葉使ったことないよね。全然訛ってない。長野で三十年暮らした人が、そんなことある?」
麗奈の足は、床板の上にあった。
アイロンの焦げ跡の残る、あの床板の上に。
その下に、家事ノートと、青い缶が眠っている。
私は、そこから目をそらした。
「……事故のあとで、抜けました」
トキさんに教わったとおりに、答えた。
「喉を焼いてから、言葉を一から習い直しました。病院の先生に、教わったとおりの話し方をしております」
「ふうん」
麗奈は、立ち上がった。
付け爪の先で、便箋をつまんだまま、私の前まで歩いてくる。
「私ね、ずっと考えてたの。撮影の日のこと」
声が、低くなった。
「セラーの鍵は、私が持ってた。なのに、料理は全部できてた。サフランパンにしようって言ったのも、あんた。葛城さんが聖ルチアの人だって、知ってたんじゃないの?」
「大奥様の雑誌を、拝見したことはございます」
「やっぱり」
麗奈の目が、細くなった。
「あんた、何者? 誰に頼まれて、この家に来たの?」
返事をする前に、麗奈は便箋を両手で持った。
「出しもしない手紙、大事に持っててさ。気持ち悪い」
紙の裂ける音がした。
一度。
二度。
便箋が、封筒ごと、細かく千切れていった。
麗奈の指のあいだから、白い紙片が、床の上に雪のように落ちた。
最後の一片を、麗奈は私の足元に放った。
「ごめんね。手が滑っちゃった」
*
私は、しゃがんだ。
床の上の紙片を、一枚ずつ拾った。
右上がりの丸い字が、あちこちで切れていた。凛。先生。お屋敷。ずく。
凛さんが、最後に書いた字だった。
この手紙を、私はいつか、松本の大貫先生に届けるつもりだった。
凛さんの代わりに。凛さんが死んだのは私のせいだと、頭を下げて。
開けもしなかった。
読む資格がないと思っていた。
それを、この人は読み上げて、笑って、破った。
紙片を拾う指が、震えていた。
手袋の中で、薄い手袋が汗で指に張りついた。
バッグの中身も、床に散らばっていた。
凛さんの免許証。家政士の資格証。それから、柘植の櫛。
櫛は、鏡台の脚の陰に転がっていた。
私はそれを拾い、指先で歯を確かめた。折れていなかった。茶色がかった短い髪が、まだ二本、歯のあいだに残っていた。
エプロンのポケットに、そっと入れた。
最後の紙片を拾い終えて、私は顔を上げた。
麗奈を、見た。
家政婦の目ではなかった。
自分でも、それがわかった。
麗奈が、一歩、下がった。
付け爪の手が、胸の前で止まった。
何か言おうとして、唇だけが動いた。
「……私が書いた手紙です」
凛の声で、言った。
嘘だった。
けれど、この部屋でこの手紙を守れるのは、凛の名前を借りている私しかいなかった。
「私を育ててくださった先生に、書いたものです。奥様に読んでいただくために、書いたものではございません」
声は、低く、かすれていた。
怒鳴ってはいなかった。それでも、麗奈はもう一歩、下がった。
「な、なによ。手紙くらいで」
「手紙くらい、でございますか」
私は、紙片を両手に包んだまま立ち上がった。
麗奈の背中が、開いたドアの枠に当たった。
「――何をしているの」
廊下から、声がした。
*
お義母さまが、ドアの外に立っていた。
手に、茶会の会記の下書きを持っていた。
私が帰ったかどうか、確かめに下りてきたのだろう。
お義母さまの目が、ひっくり返された部屋を一巡りした。
床の布団。抜かれた引き出し。それから、私の手の中の紙片。
「お義母さま、違うの。この人、何か隠してるの。ずっとおかしいと思ってたのよ。だから」
「麗奈さん」
お義母さまの声は、静かだった。
「御影の嫁が、使用人の部屋を荒らすものではないわ。あなたの部屋に、戻りなさい」
麗奈は、唇を噛んだ。
私をにらみつけ、ヒールの音を響かせて、階段を駆け上がっていった。
半地下の廊下に、私とお義母さまだけが残った。
お義母さまは、部屋に入ってこなかった。
敷居の外に立ったまま、私の手の中の紙片を見ていた。
それから、私の顔を見た。
長いあいだ、見ていた。
去年の十一月二十日。
この人は、和館の座敷で、本物の凛さんと向かい合った。凛さんの顔を見て、凛さんの声を聞いて、凛さんを雇うと決めた。
この家で、凛さんの顔を知っている、ただ一人の人だった。
「佐伯さん」
お義母さまは、会記の下書きを、袖の中にしまった。
「面接の日のあなたは、もっとよく笑う人だったわね」