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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「事故のあとは、笑うと喉が引きつりますので」
紙片を両手に包んだまま、私は答えた。
「お医者様にも、あまり大きな声で笑わないようにと言われております」
お義母さまは、何も言わなかった。
私の首のスカーフを、一度だけ見た。
それから、背を向けて、半地下の階段を上っていった。
足袋の音が、一段ずつ遠ざかった。
最後の一段で、少しだけ止まった気がした。
*
その夜、私はムギの散歩のついでに、手紙の紙片を離れへ持っていった。
ハンカチに包んだ白い紙片を、卓袱台の上に広げた。
榊さんは、長いあいだ、それを見下ろしていた。
「誰が」
「奥様です。私の部屋を、全部ひっくり返して」
榊さんの顎に、力が入るのが見えた。
「テープを、お借りできませんか。貼り合わせたいんです。いつか、松本の先生にお届けするまで」
「テープは、紙を傷める」
榊さんは立ち上がり、壁際の古い箪笥の引き出しを開けた。
薄い和紙の束と、小さな糊の瓶を取り出す。
「父が、絵の下貼りに使っていたものです。裏から和紙を当てれば、字は消えない」
卓袱台の上に、和紙を一枚広げた。
それから、私を見た。
「並べてください。俺は、字は読まない」
紙片を、一枚ずつ和紙の上に並べた。
破れ目の形を合わせて、裏返しに。凛さんの字が、見えないように。
榊さんは、私が置いた紙片の裏に、細い筆で糊を引いていった。
長い指が、驚くほど器用に動いた。一片も、ずれなかった。
時計の針の音と、ムギの寝息だけが、離れの中にあった。
最後の一片を置いたとき、榊さんが筆を止めた。
「……一つ、足りない」
角の小さな一片が、欠けていた。
床板の隙間に落ちたまま、拾い損ねたのかもしれない。
「明日、探します」
「見つからなくても」
榊さんは、欠けた角に、新しい和紙を小さく当てた。
「ここは、空けておけばいい。届けるとき、あなたが先生に、何が書いてあったか話せばいい」
「……読んでいないんです。一度も」
「なら、凛さんの代わりに、謝ればいい」
私は、和紙の上の手紙を見下ろした。
裏返しの紙片が、白い島のように並んでいた。
この人は、私が一番言われたかったことを、いつも先に言う。
「乾くまで、ここに置いておきます。ここなら、誰も触らない」
榊さんは、和紙ごと手紙を、書類の山の一番上の平らな箱にそっと移した。
それから、私の手袋の手を見た。
「……拾うとき、指を切りませんでしたか」
「切っていません」
「なら、いい」
その声が、少しだけ柔らかかった。
*
翌朝から、茶会の支度が本格的に始まった。
茶室の畳を拭き、露地の石に水を打ち、水屋の道具を一つずつ清める。
明日の朝には、坂上先生と、多恵子叔母さまと、白樺台の奥様方が二人、この茶室にやってくる。
昼過ぎ、私が水屋で茶巾を畳んでいると、お義母さまが一人で茶室に入っていった。
茶道口の襖が、指一本ぶん、開いていた。
お義母さまは、床の間の前に膝をついた。
掛けてあった軸を、両手で外す。七夕の茶会のために、軸を掛け替えるのだろう。
外した軸を巻き、脇に置く。
それから、お義母さまは、床の間の壁に手を伸ばした。
軸が掛かっていた場所の、壁の板。
お義母さまの白い指が、その板の端を押した。
板が、横へ滑った。
奥に、黒い鉄の小さな扉がのぞいた。
お義母さまの指が、扉の真ん中で何かを回した。
かち、かち、と小さな音が、四度。
鉄の扉が、手前に開いた。
息を、止めた。
三年間、私はこの茶室を毎朝拭いてきた。
床の間の壁も、何百回も。軸の裏に、こんなものがあるとは知らなかった。
お義母さまの手が、扉の奥から何かを取り出した。
白い封筒の端が、見えた。
厚みのある、古い封筒だった。
お義母さまは、それを胸の前で一度だけ持ち直した。中を開けはしなかった。ただ、そこにあることを確かめるように、指で縁をなぞった。
それから、元に戻した。
鉄の扉が閉まり、板が元の位置へ滑る。
新しい軸が、同じ場所に掛けられた。
天の川を一筆で描いた、淡い墨の軸だった。
お義母さまは、しばらくその前に座っていた。
背中が、いつもより小さく見えた。
*
和館の電話が鳴ったのは、夕方の四時だった。
「はい、御影でございます」
「あら、家政婦さん? 貴和子さん、いる?」
多恵子叔母さまの声だった。
受話器を耳から少し離しても、はっきり聞こえる声だった。
和館の座敷で、お義母さまが受話器を受け取った。
私は、廊下に控えていた。
「入札、行ってきたのよ。昨日」
受話器の向こうの声が、座敷の外まで漏れてきた。
「落としたわ、あの赤楽。曙にそっくりの。ちょっと高くついたけど、うちの人が面白がっちゃって」
お義母さまの横顔が、見えた。
白い。
着物の衿の白と、同じくらいに。
「明日、持っていくわね。せっかくだから、坂上先生に、二つ並べて見ていただきましょうよ。双子の赤楽なんて、七夕にぴったりじゃない」
受話器を置く音は、ひどくゆっくりだった。
「佐伯さん」
お義母さまは、受話器に手をのせたまま言った。
こちらを見なかった。
「いまの電話のことは、誰にも言わないこと。蒼真にも、麗奈さんにも」
「かしこまりました、大奥様」
蒼真にも麗奈にも、言うつもりはなかった。
けれど、この人のために黙るのではない。それだけは、自分に言い聞かせた。
*
その夜、お義母さまは洋館の二階へ上がった。
蒼真の書斎へ行くのだ、とすぐにわかった。
お義母さまが洋館の階段を上るのを、私は三年間で数えるほどしか見たことがない。
私は厨房で、明日の水屋に使う布巾を煮ていた。
配膳リフトの竪穴から、声が降りてきた。
「蒼真。お金を、用意してほしいの」
お義母さまの声だった。
いつもの、命じる声ではなかった。
「八百万。いいえ、もっとかもしれない。瑞雲堂に、曙を買い戻させて」
「無理だよ」
蒼真の声は、すぐに返ってきた。
「上場の審査中なんだ。一円だって、変なふうに動かせない。母さんだって、わかるだろ」
「あなたにも、渡したでしょう。あのとき、三百万」
沈黙があった。
「……あれは、母さんがくれたんだろ。立会人になってくれって頼んだのも、母さんだ」
蒼真の声が、低くなった。
「それに、いま買い戻しの話なんかしたら、瑞雲堂の帳面に僕の名前が残ってるのが、表に出るじゃないか。上場前の社長が、母親の家宝を売るのに立ち会って金を受け取ってた、なんて」
グラスの氷が、からん、と鳴った。
「母さんが自分で売ったんだ。母さんが、自分でなんとかしてよ」
足音がして、書斎の扉が閉まった。
竪穴の中は、それきり静かになった。
私は、布巾を煮る鍋の前に立っていた。
湯気が、顔を湿らせた。
ざまあみろ、と思うはずだった。
この人は、私の葬式を急いだ人だ。
扇子で私の手の甲を打ち、一晩水屋に座らせ、御影の嫁は埃ひとつで家の格を落とすと言った人だ。
その人が、息子に頭を下げて、断られた。
なのに、鍋の湯気の向こうで、私の胸に浮かんだのは、あの夜の茶室だった。
稽古の道具も出さずに、床の間の前に、一人で座っていた背中。
*
十時を過ぎて、厨房の灯りを消そうとしたときだった。
勝手口のほうから、足袋の音がした。
お義母さまが、厨房の入口に立っていた。
胸に、桐の箱を抱えていた。
真田紐で結ばれた、あの箱だった。
「大奥様」
お義母さまは、何も言わずに厨房に入ってきた。
配膳台の上に、箱を置く。
その手が、震えていた。
三十年、人に茶を教えてきた手が。
「佐伯さん」
声も、震えていた。
お義母さまは、箱を私のほうへ押しやった。
指先が、箱の角から離れなかった。
「茶会の前に、この茶碗を割りなさい」
老眼鏡の奥の目が、まっすぐに私を見ていた。
「あなたの粗相ということにして」
コメント
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第29話、読み終えました。掛け軸の裏に隠し金庫、そして「茶碗を割れ」というお義母さまの言葉…一気に張りが走りましたね。佐伯さんが「ざまあみろ」と思うはずなのに、一人で座っていた背中が浮かぶところ、すごくじんときました。人間ってそう簡単に割り切れないんだなあ。榊さんが字を読まずに糊を引くシーンの静けさも、対照的で印象に残りました。続きが気になります!