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「新しい建物を建てる時にね、一緒に御庄の家を解体しようとも思うちょるんじゃけど……くるみ、耐えられそう?」
実篤をじっと見上げてくるくるみの手をギュッと握ると、実篤はあえて彼女を呼び捨てにしてそう切り出した。
「えっ」
くるみはあの家にはもう住まないと明言した。
ならば、と思ったのだ。
「やっぱりイヤ?」
実篤が真剣な目で問えば、くるみがオロオロと瞳を揺らせる。
傾いていてボロボロのままとはいえそのままそこに在り続けるのと、全くもって形を失くすのとでは、心にかかる負荷が全然違うはずだ。
「直さんまんまじゃったら……家、傾いちょるし……危ないじゃろ? 倒壊とかして誰かが巻き込まれたりしたら大事じゃ? 直す気がないんじゃったら更地にしてしもうた方がええと俺は思うんよ」
言いながら、実篤は自分はなんて酷いことを言っているんだろうと胸が痛んだ。
でも、これをくるみが承諾してくれなければ次の段階に進めないのだ。
ある意味実篤はくるみの覚悟を推しはかりたいと思っていた。
実篤に握られた手へギュッと力を込めると、くるみが一度だけ下を向いて……しばらく考えてから「耐えられます」とハッキリと告げる。
実篤はその言葉を聞いてグッと奥歯を噛みしめると言った。
「分かった。ほいじゃあ、土地を買ってアレコレ動き始めたら……御庄の家は取り壊すね」
くるみが実篤の言葉にコクッとうなずくのを見て、実篤は泣きそうな顔をしたくるみをギュウッと腕の中に抱き締めた。
――くるみちゃんが覚悟を決めてくれたんじゃけぇ、今度は俺が男を見せる番じゃ。
そう思いながら。
***
台風から数日後の九月十三日は実篤の誕生日だったのだが、正直それどころではないと思っていた実篤だ。
だからその日もいつも通り。
仕事を失って家で留守番してくれているくるみに行ってきますのキスをして、「なるべく早めに帰るけん」と言ったら「約束ですよ?」と上目遣いに見詰められた。
そんなことは今までなかったので「おや?」と思いはしたけれど、考えてみればここ数日、くるみは日中、家に一人きりでいるのだ。
(きっと寂しいんじゃろうな。早よぉ何とかしちゃげんと)
でも――。
夕方に仕事を終えて帰宅してみたら、家の中がほわりと甘い匂いに溢れていて、思わず何事かと思ってしまった実篤だ。
「実篤さん、お帰りなさい!」
玄関先で靴を脱ぎながら(何の匂いじゃろ?)と鼻をひくひくさせていたら、エプロン姿のくるみがパタパタと嬉しそうに駆け寄ってきた。
「くるみちゃん、ただい――」
「ま」まで言い切らないうちに、ギュウッとしがみ付いてきたくるみに、実篤の心臓はバクバクだ。
「手ぇ洗うたりしよったらお出迎えが遅うなりました。――あのっ、実篤さん! お誕生日おめでとうございます!」
ふんわりと紅茶の香りをまとったくるみが、腕の中でニコッと微笑むから。
条件反射的にその小さな身体をギュッと抱き締め返したら、すぐ間近、 色素の薄い大きな目できゅるるんっと見上げられて、その余りの可愛さに実篤は胸が苦しくなった。
バタバタし過ぎていて、自分では本当に誕生日のことなんてすっかり失念していた実篤だ。
「……ありがとう」
思わずくるみのへの愛しさに気圧されて返事が遅れて、 くるみに「もう、実篤さん。もしかして自分の誕生日、忘れちょったん?」とクスクス笑われてしまった。
誕生日ケーキは、くるみが紅茶のシフォンケーキを手作りしてくれていたのだけれど。
(ああ、それでこの匂い……)
リビングに入るなり所狭しと並べられた料理と、ふわふわのシフォンケーキが目に入って、色々合点がいった実篤だ。
もしかしたら車がなくて、ケーキ屋に行けなかったというのもあるかも知れない。
だが、甘いものが苦手な実篤には市販の生クリームたっぷりのケーキより、くるみが作ってくれたあっさりとした味のシフォンケーキのほうが嬉しかったから何の問題もなかった。
「うち、パン作りは得意なんじゃけど……ケーキは専門じゃないし焼くん自体久々じゃったけん。失敗するか思うてドキドキしました」
――実は材料も一回分しかなかったので、とはにかんだくるみだったけれど、実際『くるみの木』で彼女が焼くシフォンケーキは人気メニューのひとつなのを実篤は知っている。
くるみが焼いたシフォンケーキのきめ細かさとふわふわの食感を味わったら、他所のシフォンケーキは食べられなくなるとお客さんがよくベタ褒めしていて、 実際リピーターもとても多かった。
今回は慣れない栗野家の古臭い台所。
なおかつ慣れない調理器具と慣れないオーブンを使って焼いてくれたから、きっといつも通りには作業がはかどらなかったはずだ。
なのに――。
家があんなことになって辛くてたまらない時期だろうに、こんな風に自分のために色々してくれたくるみの健気さがたまらなく愛しく思えた実篤だ。
「あんね、実篤さん。うち、ホンマはちゃんとプレゼントも用意しちょったん。だけど――」
きっとあの大水で流されてしまったのだろう。
言葉を濁して瞳を潤ませたくるみをギュウッと腕の中に閉じ込めると、実篤は「くるみちゃんが傍におってくれるんが俺には一番のプレゼントじゃけぇ何も問題ないよ」と彼女の額にキスをした。