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冷たい雨が、容赦なく私の肌を叩く。
空は低く垂れ込め、まるで世界そのものが私を押し潰そうとしているかのようだった。
安物のボロ布のような服はぐっしょりと濡れ、肌に張り付いては、わずかに残った体温を根こそぎ奪っていく。
けれど、不思議と寒さは感じなかった。
感覚を失っていく指先よりも、胸の奥に空いた大きな穴の方が、ずっと痛くて、冷たかったから。
目の前に広がるのは、夜の闇に溶け込んだ漆黒の海。
荒れ狂う波は岩礁を噛み砕かんばかりに逆巻き
その轟音だけが、空っぽになった私の頭の中に響いている。
「……やっと、終わらせられる」
震える唇から漏れたのは、安堵の溜息だった。
目を閉じれば、呪縛のように私を縛り付けてきた記憶が蘇る。
継母に突き飛ばされてできた腕の青黒い痣。
鏡を見るのが好きだった私の髪を、異母姉が嘲笑いながらハサミで切り刻んだ、あの金属の音。
「出来損ないには食事など不要だ」と地下室に閉じ込められ、三日間何も食べさせてもらえなかったお腹の、焼け付くような痛み。
この海に飛び込めば、そのすべてが泡となって消えてなくなる。
「ごめんなさい、お父様、お母様。出来損ないの娘で、ごめんなさい……」
天国にいるはずの本当の両親へ、誰に届くはずもない謝罪を口にして、私は断崖絶壁の淵に足をかけた。
一歩。ただ、躊躇いを捨てて踏み出すだけ。
それで、明日という地獄から自由になれる。
ふわり、と体が宙に浮いた。
重力に引かれ、死という名の安息へ吸い込まれていく感覚。
(あぁ……これで、いいんだ)
私は静かに瞼を閉じ、叩きつけられる衝撃を待った。
けれど、次に私を包み込んだのは、凍えるような冷たい海水ではなく、驚くほど熱い「体温」だった。
「──おっと、危ない。こんなところで迷子かな?」
低く、けれど耳に心地よい、穏やかな声が鼓膜を震わせる。
衝撃に備えて強張っていた私の体は、ふかふかな絨毯にでも沈み込んだかのような錯覚に陥った。
気がつくと、私は固い地面の上で、誰かの逞しい腕の中にしっかりと抱きとめられていた。
「え!だ、だれ?離して……!放っておいてください……!」
パニックに陥った私は、自分を救ったはずの腕の中で、狂ったように暴れた。
死なせてくれないことへの恐怖と、触れられることへの拒絶反応が、私を突き動かす。
けれど、その人は決して力ませることなく、けれど羽交い締めにすることもなく
ただ壊れ物を扱うような優しさで、私を包み込み続けた。
「落ち着いて…君…死のうとしてたろう?どうしてそんなこと──」
雨を避けようともせず、豪雨の中で膝をつき、泥にまみれることも厭わず。
その人はただ、怯える私を安心させるように、一定のリズムで背中を撫でてくれた。
「だって、死ななきゃ……私、生きていても意味がないんです。無能で、不気味で、家族にも捨てられて……。どこにも行く場所なんて、ないん…です」
喉の奥から絞り出した言葉は、嗚咽とともに雨に溶けていく。
あんなに願ったはずの死が遠のき、情けない生の実感だけが私を責め立てた。
けれど、その人は私の支離滅裂な独白を
静かに、一言も聞き漏らさないというように聞いていた。
たまらず私が顔を上げると、そこには夜闇の中でも鮮やかに輝く、太陽のような黄金の髪があった。
そして、深い知性を湛えた碧眼が、まっすぐに私を見つめていた。
「……行く場所がないのなら、僕のところへ来たらどうだい?」
信じられない言葉だった。
その瞳には、私がこれまで向けられてきた蔑みや、腫れ物に触れるような憐れみの色は一切なかった。
ただ、一人の人間として等しく価値を認め、深く慈しむような光が宿っている。
「申し遅れたね。僕はディオール。王都騎士団で団長を務めている。……君の名前も、教えてもらえるかな?」
「……な、名前……は、ラ、ヴィ……」
「ラヴィ、か。響きの良い、素敵な名前だね」
ディオール様はそう言うと、震える私の泥だらけの手を、汚れなど一切気にする様子もなくそっと取った。
そして、まるでお姫様に永遠の誓いを立てる騎士のように
泥を被った私の手の甲に薄く慈しむように唇を寄せた。
「ラヴィ。今この瞬間から、君の命は私が預かろう」
「え……っ」
心臓が大きく跳ねた。
命を預かる、という言葉の重みに、息が止まりそうになる。
「…と言っても、堅苦しい話じゃない。私の屋敷で、メイドとして働いてみないかい?」
「メイド……?」
「ちょうど人手不足で、新しいメイドを探していたんだ。その代わり、衣食住は保証する。君はただ、明日を生きるだけでいい」
「で、でも…」
困惑する私に、彼は柔らかく微笑みかけた。
「また死にたいと思ったら、そのときは何も言わない。でも、ここで会ったのもなにかの縁だ。考えてみてくれないかな?」
彼が差し出した掌は大きくて厚くて、そして驚くほど温かくて。
家族から一度も差し伸べられたことのない、唯一の、本当の意味での救いの手だった。
「……でも、私、何もできません。不器用だし、グズだし…きっとご迷惑を……」
私は、彼が差し伸べてくれたその手を汚してしまうのが怖くて、うつむいた。
けれど、ディオール様はふっと声を立てて笑った。
「ふふ、初めから完璧な人なんていないよ。ゆっくり覚えていけばいい。まずは、暖かい場所へ行こうか。……ほら、お手を。お嬢さん」
ディオール様は私の震える体を気遣いながら、自分の仕立ての良い上着を躊躇いなく脱ぐと、ずぶ濡れの私に羽織らせてくれた。
鼻をくすぐる彼の香りと、残されていた体温が私を包み込み
死ぬことしか考えていなかった凍てついた心に、ほんの少しだけ希望という灯がともった。
雨の音に混じって、トクン、と私の心臓が小さく跳ねる。
それは、私がまだ生きていることを教える鼓動だった。
絶望の淵、漆黒の海の崖の上で出会った、黄金の騎士。
この日から、凍りつき、止まっていた私の時間は
ゆっくりと、けれど確かに動き始めた。