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激しい雨音を遮るように、重厚な馬車の扉が閉まった。
ガタゴトと心地よいリズムで揺られ、到着した先は
街の外れにひっそりと、けれど威風堂々と佇む信じられないほど立派な屋敷だった。
これまで私が「家」と呼んでいた場所とは、何もかもが違う。
けれど、ディオール様は立ち並ぶ使用人たちに私を預けることなく
泥だらけの私を大きな腕で抱きかかえたまま、迷いのない足取りで中へと進んでいく。
「あの、ディオール様……自分で歩けます。泥で汚れてしまいますから。その、絨毯も、お体も……」
申し訳なくて、居たたまれなくて、お借りした上着の裾を指先でぎゅっと握りしめる。
私の汚れが、彼の輝くような軍服や美しい屋敷を侵食していくのが怖かった。
すると、彼はふっと眉を下げて、困ったように、けれどどこか愛おしそうに微笑んだ。
「ラヴィ、君は今にも消えてしまいそうなほど軽い。それに、今は雨で冷え切っているだろう? 紳士として、凍えている女性を冷たい床に立たせるわけにはいかないんだ」
紳士。女性。
私には一生縁のない、物語の中だけの言葉だと思っていた。
継母からは「不気味な小間使い」と呼ばれ、姉からは「動く標的」のように扱われてきた私を、彼は一人の「女性」として扱ってくれる。
その事実に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼は私を客室のふかふかなソファにそっと降ろした。
沈み込むような柔らかさに驚いていると、彼はすぐさま使用人に命じ、湯気が立つほどの温かいタオルを持ってこさせた。
「……失礼。少しの間、我慢してくれ」
断りを入れてから、彼の大きな手が、私の濡れた髪を優しく包み込む。
継母に髪を掴んで引きずり回されたことはあっても、こうして壊れ物を扱うように労わって触れられたことなんて、生まれて一度もなかった。
タオルの隙間から伝わる彼の指先の温かさが、雨に打たれた頭皮にじんわりと染み込んでいく。
「……お手をかけてしまってごめんなさい。でも、その、あ、ありがとうございます…」
「礼には及ばないよ。……ラヴィ、さっきの話だが。無理にメイドとして働けとは言わない。体が回復するまで、ここでゆっくり休んでから決めていいんだ」
その言葉に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。
「ゆっくり休んでいい」という言葉は、私にとって「いつ捨てられてもおかしくない」という宣告に等しい。
役に立たない人間が、この贅沢な空間に許されるはずがない。
「い、いえ…っ、こんなことまでしてもらって…お世話になるのに、何もしない訳には行きません。是が非でも働かせてください」
私は慌てて顔を上げ、彼を見上げた。
何もせずに、ただ施しを受けてここに居座るなんて、そんな恐ろしいこと私にはできない。
「何か、恩返しをさせてください。私……掃除でも洗濯でも、何でもしますから。捨てないでください……」
無意識に漏れた本音。それは、私の人生を支配してきた根源的な恐怖だった。
ディオール様は、私の悲痛な叫びに一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、彼はゆっくりと腰を落とし、私の目の高さに合わせるように床に膝をついた。
王都騎士団の団長という高貴な身分でありながら、泥に濡れた私を見上げるような位置で、視線を合わせる。
「……分かった。では、君には僕の『専属メイド』になってもらおう。だが、一つだけ条件がある」
「条件……?」
厳しい修行だろうか。
それとも寝る間もないほどの過酷な労働だろうか。
それとももっと低俗な……
私はどんな不当な要求にも応えるつもりで、身を固くして言葉を待った。
けれど、彼の口からこぼれたのは、私の予想を遥か彼方まで裏切る言葉だった。
「一日に三回、しっかり食事を摂ること…そして、夜は温かいベッドでぐっすり眠ること。……これが、君への最初の『仕事』だ」
「……え?」
拍子抜けして、間の抜けた声が出てしまった。
呆然とする私に、ディオール様はいたずらっぽく、少年のように目を細めた。
「君の今の仕事は、体力を戻すことだ。顔色が悪いままでは、掃除一つ任せられないからね。いいかな?」
「……は、はい」
震える声で精一杯の返事をすると、彼は満足そうに頷き、私の頭をそっと撫でた。
その手からは、雨の冷たさを完全に忘れさせるような、力強くて確かな体温が伝わってくる。
「いい子だ。……ラヴィ、ここはもう安全だよ。…何があったかは聞かないが…家族から酷い扱いを受けていたのは目に見える。でもここの人は誰も君を責めないし、叩かない。だからゆっくり、自分を大切にすることを覚えていこう?」
自分を、大切にする。
その言葉の意味を、私はまだ知らない。
教わったことすらない。
鏡を見るたびに自分の顔を醜いと思い、自分の存在が誰かの迷惑だと信じ込んで生きてきた私にとって
それはあまりに高く、難しい壁のように思えた。
やがて運ばれてきた、銀のトレイに乗った温かいココア。
ディオール様に促され、湯気とともに立ち上る甘い香りを吸い込み、一口飲んだとき。
お腹の底からじわじわと広がる熱に、喉の奥がツンとして、堪えていたはずの涙が不意にこぼれそうになった。