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「穂乃果」
突然、低く名前を呼ばれ、反射的に顔を上げてしまった。
至近距離で、ナオミの瞳がこちらを覗き込んでいる。
メイクを落とした、剥き出しの美。眩しさのあまり、穂乃果は何度もまばたきを繰り返した。
「ふふっ」
ナオミが喉の奥で、くつくつと笑いを殺した。
満足げな微笑みは、誘い込むような悪魔的な色気を放ち――けれど同時に、毒気の抜けた子どものような、無邪気な光を湛えている。
「可愛い顔するじゃない」
ナオミが、穂乃果の耳元の髪を指先で一房、くるりと弄った。
湿った指先が熱い肌に触れ、穂乃果の思考は完全にショートした。
無抵抗で固まったままの穂乃果を見て、「本当におもしろい子ね」と一言残すと、ナオミは自分の部屋へ悠々と姿を消した。
「……っ!」
残された穂乃果は膝から崩れ落ちそうになるのを堪えながら、両手で顔を覆った。
掌に伝わる熱が尋常ではない。呼吸は荒く、心臓は暴れ馬のように跳ね続けている。
(……これで32歳?)
年齢詐称で訴えるぞ、と叫びたくなった。絶対に若い頃から女性ホルモンを注射しているに決まってる。そうでなければこの美貌と肉体に説明がつかない。あれは異常だ。人間の領域を超えている。
(っていうか、なんであんな格好でうろうろしてるのよ! この家での露出禁止! 玄関まで全裸禁止法制定!!)
脳内で法律を作り始めるレベルの混乱に陥りながらも、ふと脳裏にさっきの言葉が蘇る。
「可愛い顔するじゃない」
可愛い? 私が?
(いやいやいや。揶揄って遊んでるだけだって。本気にしたら負け。ほんと負け。あーもう。なんで私がこんなに振り回されて……)
「っ……!」
ついに耐え切れず、穂乃果はその場にへなへなとしゃがみこんだ。朝陽の差し込む廊下に、少女一人の熱が籠もりきっている。
心臓を押さえながら深呼吸をするたび、鼻腔に残るナオミの匂いが蘇ってくる気がして、もう何度目かもわからない溜息を長く長く吐き出した。
ようやく火照った顔を両手で叩き、穂乃果は逃げるようにキッチンへ向かった。
仕事へ行く前に、何かお腹に入れておかなくてはならない。
(あ、そうだ。昨日の残り……)
昨夜、自分が食べたあとに残しておいた生姜焼き。ラップをして冷蔵庫に入れてあったはずのそれを思い出して扉を開ける。けれど、そこにあるはずのタッパーは、どこにも見当たらなかった。
「……え?」
視線を泳がせると、シンクの脇にある水切り籠が目に留まった。
そこには、きれいに洗われて伏せられたタッパーと、箸。
――食べてくれたんだ。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥にじんわりと、温かい灯がともった。
ナオミは掃除には無頓着だけれど、穂乃果が整えた場所や、用意したものを無下にはしない。不器用なほど潔く洗われたタッパーを見ていると、言葉で「おいしかった」と言われるよりもずっと、自分の居場所を認められたような気がして、思わず頬が緩んだ。
これだけで、今日一日頑張れる。
そんな単純な自分を可笑しく思いながら、パンを焼こうとしたその時。
「穂乃果」
ひょこっ、と自室からナオミが顔を出した。
今度はちゃんと服を着ている。けれど、髪はまだ少し湿っていて、その無防備さが先ほどの衝撃を呼び起こし、穂乃果の手が止まる。
「あ、はい」
「アンタ、明日休みだったわよね?」
ナオミは、壁に寄りかかりながら、どこかぶっきらぼうに言った。
「今夜なんだけど。悪いけど、お店の手伝いに来てくれない? 予約が詰まっちゃって、アタシ一人じゃ回しきれないのよ」
「お店に……?」
予想外の誘いに、穂乃果は目を丸くした。
「もちろん、無理にとは言わないわ。アンタも日勤続きで疲れてるでしょ。無理そうなら事前に連絡してくれればいいから。……どうする?」
ナオミの言葉は、いつも通り突き放しているようでいて、その実、穂乃果の体調を最優先に考えている。
直樹にいた頃は、「やって当たり前」の無茶振りに応えることだけが自分の価値だと思っていた。けれどナオミは、断る権利をちゃんと穂乃果の手に握らせてくれている。
その信頼が、何よりも嬉しかった。
「行きます。……私でよければ、ぜひ」
即答した穂乃果に、ナオミは一瞬だけ驚いたように眉を上げ、すぐに「ふん」と鼻を鳴らした。
「決まりね。じゃ、夜、お店で待ってるわよ」
そう言い残して、ナオミは再び部屋へ消えていった。
キッチンに残されたのは、焼けたパンの香ばしい匂いと、期待に跳ねる自分の鼓動。
――ナオミさんの力になれる。
その高揚感が、これから職場で待ち受けているかもしれない不穏な気配を、一瞬だけ忘れさせてくれた。
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かんな
あかね ♛❤️♛