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夕ご飯の後は、「今日も頑張った」という言葉がいつも浮かぶ。
一日の最後に残った仕事が片付く瞬間だからだろうか。
心地よい達成感のままに鼻歌を歌うと、小さな頭がこちらを振り向いた。
「康二、それなに?」
「ん?」
「喋ってないのに康二から声が聞こえる。どうやってるの?」
「あぁ、鼻歌やで」
「はなうた?」
「口閉じながら声出してみ?」
「…んー…。あ、ほんとだ、声出た」
「しょっぴーもなんか歌ってみたらどや?楽しいで」
「うた知らない」
「ほうか…」
今夜は台所に可愛らしいゲストが来ている。
この屋敷で一番いい子のしょっぴーだ。
照兄に作ってもらった踏み台を使って、俺が渡した皿に付いた泡を流しては洗いカゴに入れてくれている。
「ほんなら今流行ってる歌教えたるわ」
「うん」
「んきゃ!ぅー!」
お手伝いのお礼に、最近よく耳にする曲を口伝いに教えた。
そして、先ほどから俺たちの後方で、ゴロゴロと小気味良い音を鳴らして赤ちゃん用の手押し車を押す坊のことも見守っておく。
一歳十一ヶ月になった坊は、本格的に自分一人の力で歩けるようになってきた。
小さな足を一歩一歩踏み締める姿を嬉しく思うが、その一方で気がかりなこともあった。
皿洗いは終盤に差し掛かっていたが、最後まで気は抜けないのだ。
落ち着けない理由については、説明するより来るに任せた方が早いだろう。
車輪の音はすぐに止まり、発進させていた当の本人はといえば、今は床の上にぺたりと座り込んでいる。
転んでどこかを痛めてしまったようには見えないというのに、坊の表情は少しずつ歪んでいく。
「…ふきゅっ、ふぇっ…ぇぐ…」
…あぁ………今日もあかんかったかぁ……。
大きな嵐がやって来るぞ…と予感した次の瞬間、悲鳴にも近いような坊の泣き声が台所を埋め尽くした。
「んぎゃぁぁぁぁッ!ふにゃぁぁぁッ!」
世紀末の如き悲壮さを湛えて泣き叫んでいるが、ここで取り乱すような俺としょっぴーではない。
誰よりも坊と過ごしてきた俺たちにとってこれは日常であり、かつ最近はずっとこんな調子であるので、狼狽えはしない。
しょっぴーは落ち着いた様子で手を拭くと、坊の両脇を掴んでその体を抱き上げた。
「涼太、あとちょっとで終わるから待ってて」
「ふぎゃぁぁぁ!ゃぁあああぁッ!」
「りょーた、抱っこしてるでしょ。だから泣くな」
「ふぇぁ、、…んびゃ…んぎゅ…」
この通りである。
俺が抱える心配事はこれだ。
もう随分と歩けるようになったというのに、最近の坊はしょっぴーの腕の中から離れたがらないのだ。
少しでもしょっぴーから遠くなると、今のようにすぐ泣き出してしまう。
抱き癖がついてしまったのだろうかと、不安だった。
しかし、俺の心配をよそにしょっぴーは最近導入したおんぶ紐を手早く装着し、坊を背負ってもう一度お皿洗いに戻ってくれた。
「おおきにな。あとちょっとやし、先戻っててええよ?」
「ううん。最後までやる。これ楽しい」
「ほんまにええ子やな」
「褒めなくていい。やりたいだけ」
「んぎゃぁッ!ぅ“ぅ“ん“ーッ!びゃあぁあ!」
「おんぶ紐もあかんかぁ…」
「よくわかんない。涼太、あとちょっと」
「に“ゃぁ“ーっ!」
坊が日々成長していくのは大変に喜ばしいことだ。 少しずつ増えていく体重に嬉しさも感じる。
それと同時に、常に抱っこし続けてくれているしょっぴーが少しでも楽になればという気持ちもあった。
そんないきさつがあってこの便利なアイテムを買ったが、結局それは全くと言っていいほど、坊のお気に召さなかった。
カートもいや。
おんぶもいや。
しょっぴーの抱っこがいい。
そう主張しているみたいだった。
ところがそんなことは気にも留めず、しょっぴーは平然と茶碗についた泡を流しながら会話を続けた。
「康二がいつも作るご飯、あれなんて名前なの?」
「うん?」
「今日も食ったやつ」
「青椒肉絲か?」
「ちんじゃーろーす?」
「俺の思い出のおかずや」
「おもいで?」
「風呂入りながら聞かしたるわ。ほんならちゃっちゃと終わらせんで」
「うん」
青椒肉絲は、大切なご馳走。
何年経っても、きっと色褪せない。
泣き虫だった頃の俺に、「久しぶりやな」とそっと声をかけてから、手に付いた水をタオルで拭き取った。
俺が作れる料理は、どれもこれもオカンが教えてくれたものだった。
オカンは色々な国の料理を作ってくれた。
中国、タイ、日本、その他にもたくさんあった。
どうしてそんなに幅広い国のおかずを作れるのだろうと幼心に不思議に思ったものだ。
その疑問に答えをもらったのは、16歳の時だった。
タイのどこにでもある普通の家の台所で、オカンに教わったカイチアオの卵をうまく揚げられるようになりたいと躍起になっていた、そんなある日のことだった。
不意に呼び鈴が鳴ったのが聞こえて、慌てて卵を油から上げ、ガスコンロの火を止めてから玄関へ向かった。
ドアを開けた先には、見知らぬ男性が二人立っていた。
「คุณคือใครครับ…?(どちらさんですか?)」
「こんにちは、康二くん。初めまして」
「どもー」
「ぁ、日本の人やったんや。どうも。ほんで、どちらさんですか?なんで俺の名前知ってるん?」
「話すと少し長くなるんだけど、君を迎えに来たんだ」
「………え?」
玄関先で済ませられる話ではなさそうだったので、ひとまずその二人をリビングへ通してお茶を淹れた。
向かい合った先には、スーツを着た男性と、派手なシャツを着て金色のゴツいアクセサリーを嵌めたヒョロヒョロの男性とが座っている。
スーツの男性は俺が淹れたお茶を一口啜った後で、「それでね」と切り出した。
「君のご両親のことで話があって、驚かないで聞いてほしいんだけど…」
「オトンとオカンの?なんや?」
「…昨日、亡くなったんだ…」
言われたことの意味がわからなくて、「…え…?」と返すので精一杯だった。
「混乱させちゃってるよね、ごめんね…」
「あ、ぇと…」
「君のご両親と僕の家系は昔からのお友達なんだけど、今回のことがあって君のお父さんの組織の人が僕に連絡をくれて、急いでここに来たんだ」
「あ、あの…友達て、、組織て…なんですか…」
「そっか、伝えてなかったんだね…。彼らならそうするのかもね。…あのね、君のご両親は、マフィアのボスだったんだよ」
…あかん。 全然わからん。
俺のオトンとオカンがマフィアのボス?
あんな普通に見えるのに?
…ほんで昨日死んだ…?
信じられん…、信じられるわけ…ないやんか……
全く受け入れられなくて、心の中は困惑する言葉ばかりで溢れていた。
「ぐす…うそや…、そんなんうそやぁ…っ、」
「ごめんね…こんな伝え方になってしまって…」
「オトンとオカン、、いまどこにおるん…?会わしてや、会いたい…っ」
心が拒否していても、頭はちゃんとその言葉の意味を全て理解していて、勝手に涙が溢れた。
自分の目で見るまでは信じたくなくて、 懇願するように二人に会わせてくれと泣きじゃくった。
スーツの男性は、「うん、会いに行こう」と優しく声をかけてくれた。
辿り着いた先は、小さな広間だった。
どうやらそこはオトンたちのアジトだったようで、構成員たちが葬式を開いてくれていた。
裏社会に生きる者は最期まで表の世界に顔を出さずに、自分たちのファミリーだけが見送る中で旅立っていくのが慣わしなんだと、オトンの右腕らしき人が教えてくれた。
顔も知らないチンピラのような人たちが、俺に向かって礼儀正しく挨拶をしてくれるのがなんとも不思議だった。
きっと、二人が常々俺の写真でも彼らに見せてくれていたのかもしれなかったが、こうなってしまっては、それを確かめる術ももう無かった。
よくよく振り返ってみれば、思い当たる節はあった。
仕事ばかりで、二人になかなか会えなかった。
オカンが作る料理は、多岐に渡っていた。
どんな仕事をしているのかと聞いても、詳しくは教えてもらえなかった。
会えなかった間、二人は各地を飛び回っていたのだろう。
「こないだ行ったとこで食べたんよ。康二にも教えたかってん、ママお店の人に作り方聞いてきてん」
そう言って、自分が作った異国の料理を食べる俺の顔を嬉しそうに見つめるオカンの目がさまざまと思い出されて、また涙が溢れた。
二人に会った最後の日に食べたのが、青椒肉絲だった。
葬式が終わった後、すぐにスーツと柄シャツの男性たちに連れられるまま日本にやってきた。
「あの…なんで俺、ここに連れてこられたん…?」
「君のご両親から頼まれてたんだ。自分たちに何かあった時は康二くんを頼むって」
「もしかして、俺、今日からここに住むんか…?」
「自分の家だと思って好きに過ごしてね。すぐには受け入れられないだろうし、僕たちじゃ役不足かもしれないけど、今日から君の家族になれたらなって思ってるよ」
「あ、あぁ…どうも…」
「僕はこの後すぐに行かなきゃいけないところがあって、君とはしばらくの間会えなくなっちゃうんだけど、何か困ったことがあったらこの子になんでも言ってね」
「…あ、おおきに…」
王宮並みに大きな日本家屋の前で車が止まると、スーツの男性はそう言ってニコッと笑った。
裏表のない表情は初対面なはずなのに、ひどく俺を安心させた。
「じゃあまたね。辰哉くん、あとはよろしくね」
「へい。康二、降りるよ」
「ぁえ、お、おん…」
促されるままに車を降りると、「辰哉くん」と呼ばれた柄シャツの人は俺が出るのを待ってからドアを閉めた。
「若、いってらっしゃいやせ」
「うん、いってきます」
「あ…いってらっしゃい…?」
「ふふ、康二くんもありがとう。嬉しい。またね」
見送りの挨拶が終わると、車は大きな門を抜けて緩やかにどこかへと走っていった。
「辰哉くん」は排気音が遠ざかっていくと、かがめていた腰と頭をゆっくり起こし、大きく伸びをした。
「…いやぁ…長旅だった。飛行機とか初めて乗ったわ。改めてよろしくー」
「あ、どうも…」
「ん?人見知り?」
「ぁや、そうやなくて、まだよう分かってへんくて、、」
「んまぁそりゃそうよね。ゆっくり時間取ってやれなくてごめんね。若のスケジュールがカツカツだったから、迎えに行ってすぐ連れて帰るしかなかったのよ」
「それはしゃあないことなんやろうし、気にしてへんで。でも、今日からここに住む言うんが、まだあんまピンと来ぅへんくて…」
「あー、そうよね。まぁ、ここにいても仕方ないし、まずはお前の部屋案内するわ。着いてきて」
「おおきに」
「そんで、ここに住んでんの俺だけじゃないからそいつらのことも紹介するわ」
「あ、そうなん?」
「そーそー」
庭なのか玄関先なのか、もはや広すぎてよく分からない場所で立ち話をしてから家の中に通されようかという時、屋敷の中からドタバタと駆けてくる大きな足音が二つ聞こえてきた。
「…ぁー、うるさいのが来たぞ…」と「辰哉くん」が天を仰いだ次の瞬間、ピンク色の髪をした男の子と、チョコレートを咥えた男の子が玄関から勢いよく出てきた。
「あーっ!ふっか!!もう若行っちゃったの?!」
「おー、ついさっきな」
「なんでメールくれなかったの!!会いたかった!」
「そうだそうだーっ!ふっかだけずるい!」
「お前らなぁ…。寂しいのはわかるよ?最近はどんどんお会いできる機会が減ってきちゃってるし」
「教えてくれたら俺たちここで待ってたのにーっ!」
「お前らの気持ちはよぉぉく分かる。分かるよ?でもな?」
「「うん」」
「俺とも二日会えなかったわけで、俺的にはお前ら何してるかなー、とか、ちゃんとメシ食ってんのかなー、とか、心配だったわけよ」
「「うん」」
「そんな優しい俺が今戻ってきたんだよ?二日ぶりに。俺への出迎えの言葉とかはないわけ?」
「「ない」」
「なんでだよ…なんでだよ…」
「ふっかにはいつでも会える」
「エンカのレアリティ低いじゃん。星3だよ」
「クソガキどもが…!」
「同い年だもーん」
「一歳しか変わんないじゃん」
「うるせぇな!ニコイチが!」
目の前で繰り広げられていくマシンガントークを、 ただただ遠巻きに見ていた俺に気付いたのか、ピンク髪の子が声をかけてくれた。
「およ?ふっか、その子誰?」
「今日からうちに住む新しい家族」
「えー!よろしくー!俺佐久間!」
「はじめまして。俺、照。よろしくね」
「よろしゅぅ…っ…ぐす…」
「ぁぇ!?泣いちゃった、、どうしよ…俺なんか嫌なこと言っちゃった?!」
あの日の俺は、きっと気が動転していた。
訳も分からないまま両親を弔って、その数時間後には行ったこともない日本へと降り立った。
そして、初対面の子たちが新しい家族になるというとんでもない展開に、心が追いついていなかったんだと思う。
困らせていると自覚していても、止められそうになかった。
嬉しかったのか、寂しかったのか、ポロポロとこぼれ落ちる涙がいよいよ止まらなくなった頃には、どちらを感じていたのかはもう有耶無耶だった。
俺の部屋に案内してもらって、大きめのバッグに入るだけ入れてきた私物を棚に配置しているうちに、夕ご飯の時間になった。
「ご飯できたよー」と呼びに来てくれた佐久間くんに着いていくと、リビング(日本では居間と言うと後で教えてもらった部屋)には、目を疑うような光景が広がっていた。
背の低いテーブルには、小さな容器が4つだけ置かれていた。
これはなんだ。
これがご飯?
日本食というのは、こんなにコンパクトなのか。
知らなかった。
当時「カップラーメン」というものを見たことがなかったので、その簡素的な夕食と異文化とに大変驚いた。
美味しそうな匂いに好奇心は募ったが、一口食べた直後、それはそれは天地がひっくり返るほどの衝撃が、頭のてっぺんからつま先までを一直線に駆け抜けていった。
美味しかったと思う。
しかし、どんな味だったか今でもよく思い出せないくらい、その時はとても寂しいものを心の中に感じていた。
カップラーメンがいけない、というわけではなかった。
ただなんとなく、どんなに食べてもきっと、今日は幸せな気持ちで眠れそうにないと強く感じた。
みんなもぼーっとした顔で、ちゅるちゅると麺を啜っていた。
…いや、ふっかさんだけは好物のラーメンを豪快に啜っていたような気もするが、正直なところ、あまり覚えていない。
とにかく、その日の食卓には、彩も話の花も何もなかったのだ。
今まで感じたことのなかった寒さが、胸を冷やした。
暖かい何かを灯したくなっては居ても立っても居られず、おもむろに立ち上がった。
「康二どうした?もういいの?」
「口に合わなかった?」
「??」
「…キッチン借りてええか?」
許可をもらってから冷蔵庫の中を遠慮なく物色していくと、その中には様々な食材があった。
三軒隣の主婦に貰ったものの、調理方法が分からなくて仕舞いっぱなしになっていた筍とピーマン。
当時はなんのことだかさっぱりわからなかったが、ふっかさんが「集金」してきた時に肉屋のおじちゃんからもらったまま、その生涯を終わらせようとしていた牛肉。
この三つがあれば十分だった。
これらが偶然揃っていたのも、今思い返してみれば奇跡だったと思う。
オカンに教わった通りに炒めて、味を付けていった。
人に料理を振る舞ったのは、この日が初めてだった。
うまく再現できるまで味見と微調整を繰り返して、納得のいく出来になった頃、あったはずの筍は五分の一減っていた。
気に入ってもらえるだろうかとソワソワしながらも出すと、みんなはたくさん食べてくれた。
「うま!人が作ってくれたご飯久しぶり…っ…」
「おいしい!わかるよ佐久間、言いたいこと…」
「照も同じ気持ちか…俺たち何年カップラとレトルト往復してたっけね…」
「え、どないしたん…?」
「康二が来てくれてホントによかった…」
「「うんうん…」」
「…よう分からんけど、気に入ってもらえたんやったらよかったわ!」
とても嬉しかった。
筍は少なかったし、あの頃は手際も悪かったから所々焦げていたけれど、それでも泣きながら美味しそうに食べてくれた三人の幸せそうな表情が、何物にも変え難い宝物のように思えた。
「青椒肉絲は俺にとって大事なおかずやねん」
「俺も好き。康二のご飯全部うまい」
「そら嬉しいわ!おおきにな」
「明日もちんじゃーろーす?」
「うーん、どないしよか。最近みんな喜んでくれへんのや…」
「なんで?うまいのに」
「なんでやろなぁ…」
きっと、オカンもこんな気持ちやったんやろな。
なんて、そんな気がした。
大切な人が自分の作ったものを食べて、笑ってくれる。
そんな光景を見られることが、オカンの幸せだったんじゃないだろうか。
泣くほどにたくさん食べてくれたのだから、みんなが一番喜んでくれるメニューなんだと思って定期的に作っているが、最近はどうしてか不評だった。
「また!?」と言われることが増えた。
そんなに作り過ぎてはいないと思うのだが、何故だろうか。
明日の献立はしょっぴーの意見を参考にしてみるのもいいかもしれないと、「明日何食べたい?」と尋ねてみた。
しょっぴーは「なんでもいい。なんでもうまい」と言ってくれた。
次々に込み上げてくる嬉しさのままに、ほかほかの湯船の中でその体をぎゅっと抱き締めた。
「康二暑い。離れてよ」
「むりや…うちの子がええ子すぎて絶対離したない…」
「ぅみゃーっ!あびゅっ!ぅじゅぅ!」
すっかり機嫌が治った坊は、しょっぴーの膝の上で楽しそうにぺちぺちとお湯を叩いていた。
お風呂から上がると、ラウールが俺たちを待ち構えていた。
彼はいつも、しょっぴーがお風呂から出る頃合いを見計らってバスタオルを構え、脱衣所にスタンバイする。
微笑ましい限りだが、悲しいことにこれまでしょっぴーがラウールの腕の中に飛び込んでいったことは、俺が知る限り一度も無い。
今日も今日とて彼は、ラウールの手前にタオルを敷いてそこに坊を降ろし、丁寧にその体を拭いていった。
その間、ラウールのことはガン無視である。
いや、それでは語弊がある。
厳密に言うと、しょっぴーの中にはしっかりと優先順位があるのだ。
それ故に、目の前にいるラウールのことは自然とおざなりになってしまう。
加えてしょっぴーはそこまで言葉を発しないため、無視しているように見えてしまうだけなのだ。
しょっぴーが何よりもまず第一に考えてくれるのは、もちろん坊のことである。
寒くなってしまわないようにと、すぐに体を拭いて服を着せてくれる。
恐らくそのあとで自分も同様の流れを踏もうとしているのだとは思うが、ここで毎度ラウールが耐えきれなくなる。
しょっぴーが坊を大切に思ってくれているように、ラウールにとってもこの子が大切なのだ。
坊のお世話をしてくれている間に彼が風邪を引いてしまわないようにと、しょっぴーのお世話はラウールがしてくれる。
「もが…っぷ、口にタオル入った。涼太寒くない?」
「ぁぃっ!」
「しょっぴーも寒くない?平気?」
「うん、へーき」
「ならよかったー!」
心暖まる日常の一コマに、先ほどやっと止まった涙がまた出てきそうになった。
髪を乾かし終われば、ちびっ子たちの寝る時間がやってきた。
布団を敷いてあげると、二人はその真ん中にちょこんと座って絵本を読み始めた。
「「うさぎとかめ」だって」
「うちゃぃ?」
「うさぎ」
「うしゃぃ!」
日本の童話にはあまり馴染みがないが、なかなかいい話だ。
二人の邪魔をしてしまわないように、こそっと一枚写真を撮った。
しょっぴーに背を預けながらウトウトしている坊と、難しい漢字が書いてあったのか読みづらそうに眉を寄せるしょっぴーを、これまで集めてきた思い出の中に加えた。
俺が写真を撮るのは、親父のためでもあり、坊のためでもある。
坊が生まれてから、写真を撮るようになった。
実はずっと前に、タイから一つの小包が届いていたのだ。
それはオトンの組織の人が送ってくれたもので、中には一眼レフと小さな紙切れ、しわくちゃになった数枚の写真の三つが入っていた。
走り書きの読みづらいタイ語で、簡潔なメッセージが書かれていた。
「ボスの形見です。「康二に渡せ」との遺言です」
どの写真にも俺とオカンばかりが映っていた。
今の坊くらいの頃の俺だったので当時の記憶は無いが、きっとオトンが撮ってくれたものだったのだろう。
いつ命を落とすかわからない毎日の中で、オトンも今の俺のような気持ちで写真を撮っていたのかもしれないと思うと感慨深かった。
考えたくはないが、親父もいつか唐突に命を落としてしまうかもしれない。
会えなくなってしまった時に、坊が寂しくならないように親父の姿を少しでも多く残しておきたかった。
同時に、坊に会えないでいる間の親父は、どんな気持ちで過ごしているのだろうとも思う。
オトンは何を思いながらあの写真を撮り、深くくっきりとした皺が残るまでそれを握りしめていたのか。
その気持ちがなんとなく分かるからこそ、親父には埋もれるほどにたくさんの坊を届けたかった。
あんなに親バカなんだ。
多いに越した事はないだろう。
どちらの気持ちも痛いくらいに分かるから、二人のためにこれからも「今」を残し続けていきたい。
:
:
:
「康二、かめが勝ったよ」
「二人ともよう頑張ってたな」
「うさぎが勝つと思ってた」
「うさぎは早いもんなぁ」
「でも寝てたから負けた。なんで寝ちゃったの?ゴールしてから寝ればよかったのに」
「考えてみたらどや?なんでなん?って」
「うん。そうする」
「…しゅぴゅー…」
「坊もゴールする前に寝てしもたな」
「涼太もうさぎ?」
「普通に眠かったんやろ。今日もぎょうさん遊んでもらってたしな」
「俺も寝る」
「おん、おやすみ。電気消してええか?」
「うん。あ、ねぇ康二」
「ん?」
「今日はラウールとご飯買いに行かないの?」
…こないだのこと覚えとんのかい。
賢いだけやのうて記憶力まで良いとは…侮れんな…と内心どもりながらも「今日は行かん」とだけ答えた。
まんまるい頭をわしわしと撫でてから、電気の紐を二回引っ張った。
二人が眠りについたのを見届けてから、部屋を後にした。
行かないとは言ったが、なんだかラウールと話したい気分だった。
彼の部屋まで足を進めて外から声をかけると、「はーい、どうぞー」と柔らかい声が返ってきた。
スッと襖を引いて中に入ると、ラウールは絶賛寝支度の真っ最中だった。
「すまん、もう寝るとこやった?」
「ううん、大丈夫だよ!珍しいね、この時間にお部屋来てくれるの」
「なんか話、したなってん」
「いいよ!なんの話する?」
「テーマは決まってないねん」
「ふふ、変な康二くん」
変声期を経て低くなった声が心地よい。
いつだって、ただそばにいるだけで満たされる。
この子に惹かれていたのはいつからだっただろうか。
初めて会った時は、「守ってあげたい、不自由なく暮らせるようにしてあげたい」なんて、身勝手な親心のような気持ちを抱いていただけだった気がしていたのに。
オトンとオカンを失ってから、どうしても寂しさが消えなくて毎日のように泣いていた俺に、ある日ふっかさんが言ってくれたのだ。
「少しずつでいい。無理に合わせなくていいよ。泣き虫なのもお前の大事な個性だろ?お前のやり方、考え方でいいよ。みんなで新しい“家族”を一緒に作ってこうぜ」
泣いてばかりでさっくんや照兄を困らせていた頃、この言葉のおかげで少しずつ前を向けるようになっていった。
もう元には戻らないけれど、これからまた集めて繋ぎ合わせていけばいい。
そんな風に思えるようになった。
ふっかさんは、泣き虫なこの性格を認めてくれたヒーローなのだ。
そんなことがあってからは、この家で父と母のような存在になろうと思うようになった。
きっと、そうやって過ごすことで、俺の中にあるオトンとオカンを感じていたかったのだろうと今は思う。
考え方を変えることはできても、心の奥底では寂しい気持ちもまだ強かった。
気丈に振る舞っていたくて取ったその行動は、いつしか思わぬ方向へ進路を変えた。
当たり前になっていた振る舞いの中にある俺の母性本能的なものが、ラウールと時間を共にするうちに愛情へと変わり、「特別」になった。
意識の蕾が花開いた頃、一緒にいるとドキドキするようになった。
どうしてかラウールは俺にばかりついてきた。
その度に、その存在が濃くなっていった。
なんでしょっちゅう構ってくんのやろ…、と困惑しつつも嬉しくて。
幸せだけれど、気持ちが溢れてしまいそうになると苦しくて。
そんな毎日を過ごしていた時、突然ラウールが告白してくれた。
「僕ね、康二くんのこと大好きなんだ」と。
信じられなくて、一度落ち着きたくて、逃げるように自分の部屋へ隠れたが、すぐにラウールに見つかった。
火照る顔を両手で冷ましながら「何しにきたん?」と必死に強がると、ラウールは俺の手ごと包み込んで口付けてくれた。
:
:
:
「甘かったなぁ…」
「ん?何が?」
「こっちの話や」
あの日のことは今でもよく覚えている。
火が出そうなくらい熱くて、溶けてしまいそうなほど甘かった。
それなりに喧嘩もしてきたが、仲良くやれていると思う。
何年経っても、この子が可愛くて仕方ないのだ。
二人で寝そべり、雑談に耽った。
「康二くんまだ寝ないの?」
「今日はまだ大丈夫そうや。せっかくやし、今日はラウが寝たの見てから戻ろかな思ててん」
「えー、寝顔見られるの恥ずかしい」
「あほ、毎朝見に行ってるわ」
「え!そうだったの?!」
「あかん。口が滑った。忘れてや」
「いや無理があるでしょ」
「いつも先に寝てしもうてるから、今日は俺が後がええの!寝るまでそばにおんで?ほら寝てや」
「先にって…康二くん毎日たくさんご飯作ってくれてるから疲れてるんだよ。無理しないで?」
「してない!元気やって!」
「そうじゃなくて…!」
「お?なんや?」
頑なに先に寝ようとしないラウールにこちらも頑固で対抗すると、彼は言いづらそうにゴニョゴニョと口籠った。
「……康二くん朝早くから夜までずっと働いてるでしょ?」
「おん」
「それなのに僕がたくさんしちゃうからだよ…ごめんね…」
「…ぁ…ぁっ、そゆつもりや…なくて…」
あっつ……。
俺、今どんな顔してんねやろ。
自分の恋人が眠る瞬間を見てみたかっただけだったのだが、これは大誤算だった。
全く予想していなかった返答を受けては恥ずかしさが込み上げてきて、のたうち回りたくなった。
通りでいつもラウールが寝るところを見たことが無かったわけだと、今更ながらにそのカラクリに気が付いた。
「おんなじタイミングで一緒に寝たいってことだよね…?全く自信無いけど抑えられるように頑張るね…」
「い、いや…それは変えんくてええけど…いっぱいくっついてられるん嬉しいし…」
「えっ」
「えっ」
「もうずるい…っ…」
「何がや。ちょ、苦しいて…」
「接着剤くっついちゃってるからしばらく離れらんない。僕も胸が苦しい。慰めて?」
「なんやそれ。よう分からんけど、背中摩っといたるわ」
「ありがと」
「今日は甘えたなんか?」
「そういうモード時の僕が一番好きでしょ」
「否定はせん」
「ふふ、やっぱり。康二くん分かりやすいもん」
「撫でんのやめよかな」
「うそうそ、ごめんて。まだしてて?」
「なんぼでもしたるから早よ寝てや…ふぁぁ…」
「やっぱ眠いんじゃん」
「い、今のは口からでっかい息出ただけやし…っ!」
「そういうのを世間では「あくび」って言うんだよ?」
「そんくらい知ってるわ!」
一つの布団の上に、二人の男が寝転がっている。
一人は口を半開きにして、小さな寝息を立てていた。
もう一人はその様子を、ただじっと愛しむように眺めていた。
「やっぱり康二くんの方が先だったね。今日もお疲れ様」
ラウールはそう独言ると、向井を横抱きにして自室を出た。
向井の部屋へ入り、布団の上にその体をそっと寝かせる。
「おやすみ、いい夢見てね」
「…んん“……ふっかさん…それ、めがねやない…たくあんや…」
「どんな夢?」
奇妙な寝言を唱える向井の額に口付けを落とし、ラウールは自室へと戻っていった。
翌朝、向井はげっそりとした顔で
「ふっかさんが延々とめがねのフレームにたくあん嵌め込もうとしてるん止める夢見たわ…」
とラウールに溢していたという。
続
コメント
12件
最初から一気に読んだ私が悪かった。 尊すぎて息できない。😇
あーーーーー尊い🤦🏻♀️🤦🏻♀️🤦🏻♀️みんな可愛いむり🤦🏻♀️🤦🏻♀️🤦🏻♀️