「○○!」
あたしを呼び止めるあの大好きな声が耳を貫ける。
だけど足は止まらない。
逆に段々と勢いをつけて方向感覚を失った昆虫のようにフラフラとした足取りで必死に走ってしまう。
ここでイザナの言う事を聞かなかったらもっと殴られる、蹴られるって分かっているのに。そんな気持ちに反してあたしの体は段々とイザナから離れて行ってしまう。
『はぁ、…ふぅ…』
ようやく足が止まり、呼吸を忘れていたかのように大きく息を吸う。肺がヒュウヒュウと音を立てながら収縮し、新鮮な空気を吸い込んでいった。
まだドクドクと乱れた動きで暴れ回る自身の心臓に手を置きながら、ゆっくりと後ろを振り向く。イザナの姿は見えない。人気の少ない路地裏に逃げ込んだのは正解だったようだ。
『…どうしよう』
気持ちや乱れていた息が落ち着いてくると、次は焦りの感情が心を暴れさす。
最後に聞いたあたしの名前を呼ぶイザナのあの叫び声が耳に焼き付いて離れない。
上着のポケットを覗くと、携帯と財布だけが転がるように入っていた。コンビニへ行くだけだったから大したものはもちろん入っていない。
あの友達に状況を伝えようか。と迷いながら携帯に電源を入れたその瞬間、電話の呼び出し音とともの携帯が震え、黒川イザナと書かれた液晶画面が目に入る。
突然のことで驚いてしまい、携帯が手から滑り落ちて勢いよく地面に衝突した。
ガタンと固い音を立てて画面には細かなヒビが刻まれてしまったが、肝心のプルルルルルという電子音は鳴りやまない。きっとあたしが電話に出るまでずっとなり続けるのだろう。
薄暗い路地裏で青白い光をさらけ出す携帯に目から涙が零れた。
イザナが怖い。
初めてのそんな感情が胸を埋めた。
ここで電話に出て、また家に連れ戻されたら今度こそ本当に殺されてしまうだろう。
いっその事、ここで完全に壊してしまわないといけないのだろうか。という提案が恐怖でいっぱいになった脳裏をするりと過っていったが、すぐに電源を切ればいいのだと気付く。
ガタガタと痙攣しているように震える手で画面の砕けた携帯へと手を伸ばし、小さなくぼみのある電源ボタンを力一杯押す。一瞬、携帯に映し出された黒川イザナという文字に罪悪感が沸き上がったが、気にする間もなく画面が黒く染まり、それまで鼓膜を震わせていた鋭く刺すような電子音が鳴りやんだ。
ホッと今までで一番強い安堵感が胸を包み込み、痙攣のような薄笑いが口角に浮かぶ。
『……イザナ』
恐怖は消えても、あのイザナの叫びだけは消えなくて。
今イザナはどこに居るのだろう。
あたしのこと嫌いになっちゃったかな。
あたしのことなんてもういらないかな。
そんな思いに、自分がどれだけイザナに依存していたのかが深く心に沁み込んでいき、花びらのように脆く繊細な自身の心がグッと何かに殴られて砕け落ちた。
服からはみ出た自身の痣だらけの腕に、鼻の奥がツンとする。
首を絞められるのも、殴られるのも、蹴られるのも、もういやだ。
フゥっと深呼吸するように緩やかに息を吐き、あたしは涙で濡れた睫毛を拭い、割れた携帯をポケットの奥に押し込んで、路地裏を飛び出た。
一旦、一人の時間を過ごしてみたい。
そうしたら友達のいう普通の“愛”に気づけられるかもしれない。
イザナとも、今は無理だけれどもちゃんと話し合えるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながらあたしはネカフェへと自身の足を進ませる。
自分が着たい服が着られて。
自分が喋りたい人と喋れて。
自分が帰りたい時刻に帰れる。
イザナと離れてからはそんな自由があたしを待っていた。
『…どうしてるかなぁイザナ。』
だけど、数週間が経ってもあたしの頭からイザナは消えてくれなかった。
なんとかバイトをして生活費を稼いで、忙しいけど楽しくて。
だけどどれだけ自由が満たされても、愛の飢えだけは埋められなくて。
もう、だめだと気付いた
続きます→♡1000