緊張のあまり車の後輪が縁石に乗り上げてしまい蔵之介はやっぱり運動音痴だねと莉子の顔を見て笑った。莉子はその笑い声に16歳の蔵之介を重ね合わせ嬉しくなった。
(ーーーなにも変わらない)
交差点で方向指示器を右に下ろした。
「金石街道だね」
「そうだね」
「この道を走ったね」
「真夜中で」
「そう、車が一台も走っていなかったね」
「タクシーとすれ違ったよ」
「そうだっけ」
海へと続く真っ直ぐな道を蔵之介のペダルは颯の様に駆け抜けた。私はその背中で後ろに流れては消える電柱を何本も数えた。
「あぁ、懐かしいな」
蔵之介は夕日に目を細めて手を翳した。
「窓、開ける?」
「排気ガス苦手なんだ」
「海側環状線、車通りが多いからね」
「ーーーあの日と違うね」
海側環状線と称される幹線道路の交通量は多い。だが深夜ともなればその流れは途絶えトラックが数分に一台通るか通らないかの静寂に包まれる。
「違うね」
「違うね」
交差点の信号が青信号に変わりアクセルを踏むと道幅は急に狭くなった。
「あれ、ガソリンスタンドが無い」
「本当だ」
煌々こうこうと明かりを放っていた24時間営業のガソリンスタンドは廃墟となり立ち入り禁止のロープが揺れていた。思い出を手繰り寄せ現在いまと重ね合わせる。
「なんだか違う町みたいだ」
「あ、ほら交番がある!」
莉子が対向車線の小さな交番を見付けて指差した。
「莉子が慌てて自転車から降りた所だ」
「お巡りさんが居るかと思って」
「居なかったけれどね」
「居なかったね」
コンビニエンスストアを通り越し交差点を通過すると右手に北陸鉄道のバスターミナルの看板が見えた。
「蔵之介」
「うん、あの交差点だ」
片側一車線の狭い交差点、右方向から新聞配達のバイクが飛び出して来た。車のハンドルを握る手が震え、莉子は唇を噛み締めた。
「莉子、あの場所を越えよう」
蔵之介は厳しい声でフロントガラスを見据え、莉子の肩に手を置いた。歩行者信号が点滅し赤に変わった。莉子はルームミラーで後続車がいない事を確認すると青信号で緩やかにアクセルを踏んだ。
(ーーーここだ)
時速30kmの2人は交通事故現場を踏み、通り過ぎた。
莉子と蔵之介は前だけを見た。
「ーーーー」
2人は始終無言で白い土塀と黒い瓦屋根の古民家が立ち並ぶ金石の細い道を進み、海面擦れ擦れに架かった石橋を渡った。
「ーーーあ」
海上保安庁の白い巡視船、金石の港が目の前に広がった。蔵之介はサイドウインドーを開けて胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。
「莉子、越えたね」
「うん」
「越えたね」
フロントガラスの向こうが滲んで見えた。
「莉子、泣かない。ちゃんと前を見てよ」
「うん」
「ほら、もうすぐ金石港だよ」
「うん」
金石の町並みに街灯はほとんど無く満天の星空を楽しむ事が出来た。蔵之介はこの景色を莉子に見せたかった。
「あれ、蔵之介」
「如何したの」
「ここ金石港かないわこうじゃなくて大野港おおのこうって書いてあるよ」
「えっ、そうなの」
「知ったかぶりだなぁ」
「そう思ってたんだよ!」
「ふーーーん」
「そう思ってたんだよ!」
しかもその場所には見た事の無い立派な建物が立っていた。
「金沢港クルーズターミナルだって」
「こんな場所無かったよ」
「浦島太郎みたいだね」
「33歳、もうおじいちゃんみたいなものだよ」
「じゃあ私は如何なるの!」
「おばあちゃんじゃない?」
「おばちゃんよ!」
「言ってて悲しくない?」
「ーーーそうね」
見上げた空は夕暮れから夜へとグラデーションを描き水平線に橙色の夕日が滴を垂らして落ちていった。蔵之介の思い描いたアスファルトで固めただけのの船着場は遠い記憶の彼方だが、目新しいクルーズターミナルの建物は眩まばゆくライトアップされ良い塩梅あんばいだった。
「莉子、時間ある?」
時計は18:00を過ぎたところだった。直也の帰りまでには自宅に戻る事が出来るだろう。莉子は二つ返事で頷いた。
「ライトアップ、見て行こう」
「駐車場は」
「あ、あそこが空いてるよ」
「うん」
「ちゃんと停められるの?」
大丈夫よと反論したものの蔵之介が隣に居ると思うと緊張し、駐車位置はお粗末な状態でまた運動音痴だと笑われた。
「だって、蔵之介がいるから緊張したのよ!」
「緊張ね」
「あ、ちょっと待ってて」
莉子は慌てて運転席から降りると反対側に周りこみ助手席のドアを開けた。そして蔵之介のシートベルトを外して手を差し出した。
「はい、掴まって」
「大丈夫だよ」
「良いじゃない遠慮しないで。はい、掴まって」
「ではお言葉に甘えて」
右脚に力が入らない身体は重石おもしいしがぶら下がっている様だった。
「お、重っ」
「でしょう?」
「な、なんでもないわよ買い物袋に比べたら!」
「ありがとう」
そう微笑み寄り掛かって来る蔵之介の重さと温もりが嬉しかった。
「如何しようか」
「うーーーん」
閉館時間を過ぎたフェリーターミナルのエレベーターは当然の事稼働していなかった。2階の展望デッキに登るには多少ハードルが高く2人は顔を見合わせると緩やかな坂道が続く芝生の広場に向かった。
「暗いから足元、気を付けてね」
「そう言う莉子もね」
船の汽笛が聞こえた。2人はベンチに腰掛けた。
「静かだね」
「そうだね、平日だから人があまり居ないね」
「あ」
莉子の視線は落下防止柵の向こうに釘付けになった。
「ほら蔵之介、綺麗だよ」
「なんだか思い出すね」
「うん」
青白く煌きらびやかに光を放つ電飾は岸壁に打ち寄せる波間に揺れた。
「ホタルイカみたい」
「あれ、ホタルイカ嫌いじゃ無かったの」
「食べられる様になりました」
「大人じゃん」
「大人だよ」
一瞬の間、2人の間に夜風が吹き抜けた。
「もうあの時とは違うよ」
熱を帯びた眼差しが絡み合い莉子と蔵之介は導かれる様に唇を重ねた。
17年間の思いが溢れ出し莉子と蔵之介は互いを掻き抱いた。力を込めた指先が蔵之介の肩甲骨を引き寄せ、莉子のシャツの背中に皺を作った。あの頃とは比べ物にならない深い口付け。
「ーーーん」
蔵之介の舌先が口腔内に差し込まれると莉子はそれに熱く応えた。生温かい舌が所狭しと舐め合い絡みあってそれは息継ぎを忘れた。唇が離れると唾液が糸を引いて垂れた。
「莉子、ずっと好きだった」
「私も忘れた事なんて無かった」
「僕もだよ」
抱き締められた莉子の目頭は熱く涙が溢れた。
(蔵之介と会えた)
鏡で額の傷を見る度に襲う事故の瞬間の恐怖と絶望。あまりにも突然に引き裂かれた初恋、莉子は蔵之介から届いた紙飛行機をクッキー缶に仕舞い込み何度読み返し涙した事だろう。
「莉子、愛してる」
蔵之介の目尻にも涙が浮かんでいた。17年前、救急搬送された病院のベッドで意識を取り戻し右手を動かそうとした瞬間、指先に力が入らない事に気が付いた。
(ーーーなんで)
右脚は石像の様に微動だにしなかった。
(もうサッカーはーーーサッカーは出来ないのか)
高等学校のサッカー部でストライカーとして活躍していた蔵之介は右半身が不自由なった絶望感に打ちひしがれた。そして見舞いに来た莉子は面会を禁じられ蔵之介の両親の手に寄り病室の前で追い返された。蔵之介は高等学校を1年休学し莉子は東京の大学に進学した。
「莉子、もう離したくない」
「蔵之介」
「分かっているんだ、でも離したくない離れたくない」
「蔵之介」
2人は抱き締め唇を重ね激しく求め合った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!