「一夜限りだったんじゃ」
立ち尽くす私に気づいた彼は、一瞬だけ目を丸くした。
お互いの距離は数メートル。
その距離を挟んで、絡んだ視線がほどけない。
冷汗のような汗が背中に流れた時、彼が口を開いた。
「こんばんは」
後ろめたさも動揺もない、むしろ温かみさえ感じる声だった。
されたのはただのあいさつなのに、心臓の音が一段と大きくなる。
一夜を共にした後、彼は私が眠っている間にホテルを出た。
その時点で、もう私と関わるつもりはないと思っていたのに、どうしてそんなふうに声をかけるのだろう。
(なんで……)
こんなところで会ってしまった偶然にも、彼が声をかけてきたことにも驚いて、動揺を隠せない。
けれどあいさつされて無視するのもどうかと思い、なんとか小声で「こんばんは」と返した。
かといって同じ場所にいるのも決まりが悪く、会釈だけ置いて立ち去ろうとした時、思いもよらない言葉が聞こえた。
「今から食事しようと思っていたんだ。よければ一緒にどう?」
まさかそんなことを言われるなんて思わず、逸らした視線を反射的に戻した。
どうしてそんなこと言うの?
もう一度私と……とでも考えているのだろうか。
私のほうはそんなつもりないし、鉢合わせだけでも気まずくて、話すことなんてなかった。
「い、いえ。 私は……」
「君は本が好きなんだろうけど、こんなところ―――古書店街に来てるってことは、気分転換とかじゃないの?」
言い当てられ、言葉を失った。
バーで声をかけられた時にはすでに酔っていたし、お酒が止まらなかったのはおぼろげに覚えているけど、本好きなことまで話したんだろうか。
返事に詰まる私を見つめ、彼は一呼吸置いて続ける。
「彼氏と別れる決心は、ついた?」
聞こえた抑揚のない声は、混乱する思考を停止させるには充分だった。
(なんで……)
なんでこの人がそんなこと―――。
記憶の糸をたぐり寄せても、この人に 日比野(ひびの)のことを話した覚えがない。
でも私が覚えていないだけで、あの日 奈々子(ななこ)に話していた勢いで、彼にも悩みを打ち明けていたんだろうか。
(……あっ)
もしかして……菜々子とバーカウンターで話していた時、この人はイスひとつ挟んでとなりに座っていたから、話が聞こえていたのかもしれない。
きっとそうだと思いつつも、尋ねた彼の真意は読めなかった。
あの時、私と体を重ねることだけが目的なら、彼氏とのことなんてどうでもいいはずだ。
固まっていると、彼は大通りのほうへ目を移す。
「立ち話するのもなんだし、食事でもしながら話そう。ついて来て」
言って歩き出す彼の背中を見つめながら、状況についていけず呆然とした。
ついて来て?
私が、この得体の知れない人に?
不安と 猜疑心(さいぎしん)、暑さがごちゃまぜになって、額に汗が浮かんだ。
動かない私に気づき、彼が振り向いたのと、私に着信が入ったのは同時だった。
頭にぱっと日比野が浮かぶ。
「あとで連絡する」と言われたのを思い出し、スマホの液晶を見なくても相手がだれか確信した。
電話に出られず、着信から逃れるように顔を上げると、数メートル先で彼は私を見ていた。
電話に出るか、ついてくるか。
どちらかの選択を迫られているように思えて、そのどちらも選べない私は地面へ視線を落とした。
どれくらいの間、自分の靴先を見つめていただろう。
この一年、日比野に浮気されていることがつらかった。
それなのに彼との結婚があるかもしれない、と考える自分がバカだと思うのに、その思いを捨てられてなくて―――。
ゆっくり視線を上げていくと、変わらず私を見ていた彼と目が合った。
その目がすこしだけ優しく、私を包みこむような眼差しに見えたのは、私の心が弱っているからに違いない。
そうだ。私は弱っている。
それも自覚している。
それなのに―――私は吸い寄せられるように、彼の元へと足を踏み出した。
私のカバンの中で、着信を知らせる振動がなおも続いていた。
大通りに出てすぐファミレスが見えた。
彼の目的地はあそこかと思うとほっとしたけど、相手がタクシーを拾ったのを見て、思わず「えっ」と声があがった。
驚く私の思考を読んだのか、彼はファミレスを見て小さく笑う。
「さすがに、あそこじゃちょっと味気ないかと思って」
小さいものとはいえ、飾り気のない笑みを見たのは初めてで、不覚にも胸が鳴った。
でもすぐ、彼はまれに見る整った顔立ちなのだから仕方ない、と心の中で言い訳をする。
なにせこの暑さでも、暑さなど感じさせない涼やかな雰囲気を 纏(まと)っているのは彼くらいのものだ。
タクシーに乗ってすぐ、彼は運転手に六本木に行くよう告げた。
それとほぼ同時に、私のカバンの中でスマホがまた震え始める。
「さっきから電話鳴ってるみたいだけど、出ないの?」
含んだもののない声で聞かれ、私はどう返事していいか迷った。
「急用かもしれないし」と付け足され、確かに相手を確認しないで日比野だと決めつけてしまったけど、違うだれかからの可能性もあると思い直した。
おそるおそるスマホ画面を見れば、表示されていた名前はやっぱり日比野で―――。
(なんで、かけてくるの……)
嘘でも「友達と会う約束がある」と言ったのに、まさか本当に急用なんだろうか。
電話に出るにしても、今となりに彼がいるし、話すのははばかられる。
迷っているうち着信が途絶え、ほっとしたと同時にタクシーが止まった。
窓から見える景色は狭く、六本木のどのあたりかはわからない。
彼に促され、タクシーを降りてまわりを見て―――ドクンと心臓が跳ねた。
(ここは……)
視線の先には、コンクリート打ちっぱなしのレストランがあった。
明るくライトアップされたその店は、食通を唸らせ、名声を得ているイタリアンの名店、「スカファーティ」だ。
そしてこの店は、日比野と初めてのデートで連れてきてもらったレストランでもある。
(どうして……)
どうしてこんなに偶然が続くのだろう。
この店はレストランのガイドブックにも載っているし、高級店としても有名だから、彼が知っていてもおかしくはない。
だけどまさかこの人と、日比野との思い出のレストランに来るなんて思わなかった。
タクシーが去ってもなお動かない私に、彼はなんでもない調子で話しかけた。
「電話、さっき出なかったのは俺がいたからだよね。どうぞかけ直して。あっちで待ってるから」
そう言い、彼はレストランの入口のほうへ歩いていく。
……違う。
電話に出なかったのは、確かに彼がとなりにいたからもあるけど、日比野と話したくなかったからだ。
だけどそれを口にすることもできず、入口のメニュー看板を眺めている彼をしばらく見つめ、どうしようもない気持ちでスマホを手に取った。
(……本当に急用なのかな)
そうじゃない可能性のほうが高いけど、もしかして、という可能性もなくはない。
観念して日比野に電話をかければ、待っていたようにすぐ電話がつながった。
「もしもし千尋(ちひろ)。もう友達と会った?」
「……うん、会ったよ。どうしたの?」
「いや、そういや俺、千尋の友達にまだ会ったことがないと思って。もう俺たち長いし、お互いの友達に紹介し合えばいいなって。今からそっちに行くよ」
「えっ」
咄嗟に声をあげ、続いて「ダメ」と言葉が滑り出た。
「どうして?」
「どうしてって……」
今一緒にいるのは“友達”ではない相手だ。
だけどそうでなくても、私の友人に会いたいだなんて困る。
菜々子には日比野の浮気の話をしてしまったし、それを除いても日比野が私との将来を真剣に考えているなんて思えていないのに―――。
「……急だし、女子ばかりで気兼ねなくやってるのに、あなたが来たら気を遣うから」
「大丈夫だよ。千尋の友達とも仲良くできるし、まわりにも気を遣わせないように盛り上げられるよ。自信ある」
「そうじゃなくて……」
どうすればかわせるんだろう。
友達といるわけでもない罪悪感もあって、はっきり言えない自分がもどかしい。
「千尋。大丈夫だから。今どこ?」
日比野の声音が柔らかくなった。
私を安心させようとする声。
その声を……かつての私は好きだった。
だけど―――。
「今日は女子会だから、ダメ。ちょっと抜けてきただけだから、もう戻るね」
「え、ちょっと千尋……」
こんなふうに日比野の話を遮ったのは初めてだった。
日比野がなにか言いかけたけれど、私は構わずスマホを耳から下ろし、そのまま電源を切った。
どうしてそんなこと言うの。
本当に私との将来を考えているなら、浮気なんてしないでしょう―――。
通話を終えただけなのに、気づけば息があがっていた。
スマホをバッグにしまい、再び視線を前へ戻せば、“友達ではない人”がこちらを見ていた。
……大丈夫。
それなりに距離があるから、話の内容は聞こえていないはずだ。
日比野にも、彼にも小さな後ろめたさを感じつつ、私はレストランの正面へ歩き出した。
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