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合宿所の夜、消灯時間を告げるチャイムが遠くで鳴り響いた。
女子部屋の布団に入ったものの、昼間の角名くんのあの鋭い視線が焼き付いて、どうしても目が冴えてしまう。
(……『黒尾さんの前でキスする』なんて、あの人なら本当にやりかねない)
枕元のスマホが、短く震えた。
『一階の自販機前。来ないと部屋まで行くよ』
角名くんからの、拒否権のない呼び出し。
私は心臓の鼓動を抑えながら、足音を忍ばせて廊下に出た。冷たい空気と、古びたワックスの匂い。
薄暗い階段を下りると、月明かりが差し込む自販機の前に、ジャージ姿の角名くんが一人で立っていた。
「……遅い。先輩、また『猫』に捕まってたの?」
「……角名くん。黒尾さんはもう寝てるよ。こんな時間に、誰かに見られたら……」
「……いいじゃん。見られたら、『俺の彼女です』って紹介する手間が省けるし」
角名くんは飲みかけのスポーツドリンクをベンチに置き、音もなく距離を詰めてきた。
窓から差し込む青白い月光が、彼の端正な横顔を鋭く、そしてどこか寂しげに照らし出す。
「……先輩。……俺のこと、ただの生意気な後輩としか思ってない?」
「え……?」
「……昼間、黒尾さんに触られた時、先輩はあいつを拒まなかった。……俺が割り込まなきゃ、そのまま連絡先、教えてたでしょ」
彼の手が、私の肩を掴んで、そのまま壁際へと追い詰めた。
合宿所の狭い廊下。
逃げ場のない空間で、角名くんの熱い体温が、夜の冷気の中でひときわ強く伝わってくる。
「……俺さ、いつもスマホ越しに先輩を見てるから、余裕あるように見えるかもしれないけど。……本当は、レンズなんて捨てて、今すぐ君をどこかに隠してしまいたいんだよね」
「……角名、くん……」
「……返事は? ……先輩、俺のこと、男として見てる?」
スナギツネのような細い瞳が、今はひどく脆そうで、縋るような色を帯びている。
彼は私の頬に手を添えると、震える指先で私の唇をなぞった。
「……『後輩』っていう境界線、俺が今ここで壊していい? ……それとも、まだカメラ越しがいい?」
月明かりの下、暴かれた彼の剥き出しの本音。
いつもは冷めているはずの彼の瞳が、私一人を閉じ込めるために、激しく、甘く燃えていた。
合宿最終日の午後。全ての練習試合が終わり、各校がバスに乗り込む準備を始める喧騒の中、私は体育館の裏にある、古びた倉庫の影に呼び出されていた。
「……角名くん、みんな探してるよ。早く行かないと北さんに……」
「……いいよ。最後くらい、俺の我儘に付き合って」
角名くんは壁に背を預け、いつも通りスマホの画面を眺めていた。けれど、その指先はどこか迷っているように微かに震えている。彼は顔を上げると、私を自分の腕の中に引き寄せた。
「……ねえ。これ、全部消そうかと思って」
彼が見せてきたのは、あの『非公開フォルダ』だった。
画面には、私との出会いから昨日までの、膨大な数の「私」が並んでいる。
「えっ……どうして? 大切にしてたんでしょ?」
「……大切すぎて、壊したくなった。……これを見てる間だけは、先輩が俺のものになった気がしてたけど。……画面の中の先輩は、俺に触れてくれないから」
角名くんの声が、夕暮れの空気に溶けるように低く響く。
彼はスマホをポケットに放り込むと、私の両手を、壊れ物を扱うような優しさで包み込んだ。
「……これ、俺の『初恋』のアーカイブなんだよね。……カメラを向けないと、先輩の隣にいる理由が見つからなかった、臆病な俺の記録」
「……角名、くん……」
「……でも、もういいや。……レンズ越しじゃなくて、本物の先輩を、俺の腕の中に閉じ込めておきたい」
彼は私の額に、自分の額をこつん、とぶつけた。
スナギツネのような細い瞳が、今はひどく熱く、そして純粋な独占欲で潤んでいる。
「……先輩。……これ、最後のシャッターね」
彼はスマホを構えることなく、私を強く抱きしめた。
バレー部員らしい、熱くて広い胸板。
そのまま、耳元で誰にも聞こえないような甘い声で囁く。
「……好きだよ、愛加先輩。……俺のアーカイブ、これから上書きして。……画像じゃなくて、本物の体温で」
カメラのシャッター音ではなく、重なり合う二人の鼓動が、静かな倉庫裏に響き渡る。
生意気な後輩が仕掛けた「甘い罠」。
それは、レンズを捨てて、本当の「独占」へと辿り着くための、彼なりの決死のトスだった。