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蒸し暑さが、まだ肌の表面にじっとりと貼りついている。
夏の夜特有の湿った空気が、スタジオの壁にまで染みこんでいるようだった。
白い天井の照明がふわりと落とされると、代わりにスポットライトが静かに灯る。
リビングセットだけを柔らかく包み込む光は、どこか舞台装置のようでもあり、まるで今この空間だけが切り取られた世界のようだった。
ソファには、いつものように4人が横並びに腰かけている。
光に照らされた彼らの影が、床にゆらゆらと揺れていた。
背景には、夏を意識した観葉植物がいくつか配置されている。
濃い緑が、白い壁をキャンバスのように引き立てていた。
サーキュレーターの風がカーテンの裾をふわりと持ち上げ、わずかな空気の流れを目に見える形で示している。
音はほとんどなく、ほんのかすかに、羽根が回る「サァ……」という一定の低音が耳に届く。
「はい、カメラ回りましたー。照明もOKです」
スタッフのひとりが軽やかに声をかけると、その声がスタジオの天井に跳ね返って消えた。
モニター越しには、機材が配置され、ピントが丁寧に合わせられていく。
音声チェック、バックアップ録音、マイクの角度微調整──そうした一連の動作を、永玖と哲太はどこか感心したように目で追っていた。
プロの手で、撮影の準備は静かに、しかし確実に整えられていく。
「本番、いきまーす。3、2、1、スタート!」
カチン──と小気味いい音が鳴った瞬間、スタッフはカメラの後ろへすっと下がった。
そのタイミングで、永玖が自然な笑顔を浮かべ、リズムよく口を開く。
「はいっ、みなさんこんばんは〜。今日はね、ファンの方からたくさんリクエストをもらった、アレです!」
「アレね」
隣の颯斗がくすっと笑い、小声で返す。
その声音に、直弥がちらりと視線をやる。
4人の姿は、モニターの中でバランスよく収まり、画面越しにも伝わる仲の良さが、そのまま「画」に封じ込められていた。
「そう、颯斗と直弥が昔、ふたりでシェアハウスしてたって話!」
永玖が声を弾ませると、哲太が目を細めてうなずく。
画面の中ではふたりの熱量がそのまま伝わるように、わずかに前のめりになっている。
「都市伝説じゃなかったんだ?」
「やめろ、そういう言い方」
直弥が軽く肩をすくめる。
だがその言い回しには棘がなく、どこか呆れたような──懐かしさにも似た緩さが滲んでいた。
その隣で、颯斗が口角をゆるめながら手を叩く。
「じゃあ、語ってもらいましょう。元シェアメイトのふたり、今だから言える話、お願いします!」
カメラの奥からは、スタッフたちが息をひそめるようにして見守っている。
けれど、スタジオの空気は張り詰めるどころか、次第に柔らかくなっていった。
まるで、部屋の中に夏の夜風がひそかに忍び込んだかのようだった。
「うん。あれは……2年前くらいかな」
颯斗が息を整えて語り始める。
「場所は都内。築浅ってほどじゃないけど、まあまあきれいなマンションだったよね。2LDKで、それぞれ個室があって。LDKが広めで、けっこう快適だった」
「駅からちょっと遠かったよな、あの坂」
直弥がすぐに言葉を挟むと、颯斗が思わず吹き出した。
「そうそう。毎朝あれ登るの、地味にキツかったわ。雨の日とか最悪だった」
「でも、静かでよかった。朝になるとキッチンの窓から光が入ってくるの、俺は結構好きだった」
「……お前、そんなこと言ってたっけ?」
「言ってねぇよ。今、思い出しただけ」
ふたりのやり取りに、永玖が笑いながら膝を打つ。
哲太は頬を緩めながら、どこか遠いものを見つめるような目をしていた。
カメラが回り続けるなか、時折、サーキュレーターの風が音もなくカーテンを揺らしていた。
スタジオのはずなのに、まるでリビングの一角で雑談をしているだけのような、そんな穏やかさが漂っていた。
「家事は、交代でやってたな。朝ごはんは基本、俺が作ってた気がする」
「うん。でもさ、俺が起きてもスープしかない日とかあったよな?」
「お前が寝坊するからだろ。トースターの『チン』すら無視してたし」
「そのときは、夢の中でパン食ってたから」
「はいはい、名言出ました〜!」
永玖が笑いながら手を叩くと、モニター前のスタッフが小さく肩を揺らして笑う。
音声さんが気づかれないようにマイクを少し上げ直すその仕草さえ、この空気に溶け込んでいた。
──そして、少しの間。
颯斗がふと思い出したように、ふとした声色で言った。
「……あ、直弥ってさ、きのこ嫌いなんだよね。一回パスタにがっつり入れたことあったじゃん」
「……お前、まだその話すんのかよ」
「だってあのときの顔、マジで好きだったんだよなあ」
「は?」
「眉がすっと下がって、口元ピクッてしてさ。『これは無理…』って顔。でも、無理して食べようとしてるんだよ、お前。あれ、最高にわかりやすかった」
直弥は言葉に詰まり、視線をそらした。その横顔は、どこか照れくさそうで──不意に動揺が滲む。
永玖が興味津々に身を乗り出す。
「え、それどんな顔! 見たかった〜!」
哲太は苦笑いしながら肩をすくめたが、その目の奥に、ふとした揺らぎが走った。
一瞬だけ、永玖と視線が交差する。
──何気ない会話。
何気ない記憶。
だけど、それがあまりにも自然で、心地よくて。
だからこそ、永玖と哲太には、それが「自分たちには触れられない時間」に思えた。
画面の中のふたりは、笑っている。
けれどその空気は、恋人という言葉では言い表せない、特別な何かをまとっていた。
「……なんかさ、夫婦みたいだよね、ふたり」
永玖がぽつりとつぶやく。
哲太は何も言わず、ただ目を伏せて、小さく頷いた。
画面の中の笑い声は、変わらず響いている。
だが、その音の向こうで──ふたりの胸の奥には、確かに静かな影が差し込んでいた。
──彼らは今、「恋人」だ。
けれど、それだけでは語りきれない時間が、確かにそこにはあった。
「この動画、タイトルどうする?」
「『同棲じゃないけど半同棲? 元シェアメイトのリアル暴露』……とか?」
「ちょっと長すぎだろ」
永玖と哲太が笑いながら話し始める。
その声が、ほんの少しだけ、空気の重たさを払い戻すように響いた。
だが──
映らなかった心の波は、今もふたりの胸の内で、静かに揺れていた。