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灰色の雲が空の半分を覆うも、色合いがくすんでいる理由はそれだけではない。太陽が西の地平線へ遠ざかったことが最大の要因だ。夜の足音はすぐそばまで近づいている。
ここは木々が折り重なるジレット大森林。普段は動物や魔物しかいないことから、局所的には騒がしいものの、のどかな雰囲気こそが本来の姿だ。
腕を磨いた傭兵にとって、ここは良質な狩場として知られている。
生息している魔物から得られる牙や皮がそこそこの値段で取引されているためだが、現在は立ち入りを禁止されており、この地には数奇な客人しか見当たらない。
周囲に木々が見当たらない理由は、ここが局所的な草原地帯だからだ。
その中には十一人の人間と真っ黒な魔物が一体。その内の一人が、大事そうに何かを抱えながら、トボトボと同胞達との合流を果たす。
「お母さん、あの魔物が……。これ、ミケットさん……」
視線を落としながら、長身の魔女が生首を提示する。すっかり干からびており、それでも緑色の長い髪のおかげで個人の特定は容易だ。
母親と呼ばれた年長者は既に感づいていたのか眉をひそめるに留まるも、隣の男勝りな魔女は口を押えて涙を浮かべてしまう。
「ぐす、らしくないこと……しちゃうから。だけど、おかえり。仇は絶対に取ってあげる。エルディア様はお疲れでしょう、里長、あれの相手はおれにやらせてください」
かつての相棒は見るも無残な姿だ。知的でありながら突出した実力の持ち主だったが、今は物言わぬ干物として彼女らのもとへ帰還を果たした。
だからこそ、サンドラは決意をみなぎらせる。
ここからは弔い合戦だ。倒すべき敵は明確なのだから、魔眼は殺意を宿しながら黒い姿を捉え続ける。
「ミケットが敵わない相手だとして、あなた一人では無理に決まってる。私も一緒にやるわ。第二形態が限界まで達するまではサポートにまわりなさい。エルディアはミケットとパオラちゃんをお願いね」
相手の力量は不確かながら、強敵であることは間違いない。そうであろうと敵討ちを諦めるという選択肢は除外済みだ。
「私にも、やらせて」
「ダメよ。誰がこの子を守るの? それに、ミケットを手放すわけにはいかないでしょう?」
「エルディア様、おれ達にお任せください。なーに、なんとかなりますって」
年長者は即座に方針を定め、戦場へ向かいだす。本来ならばエルディアも含めて三人がかりで挑みたいところだが、パオラを一人にするわけにはいかないため、娘を子守役に任命する。
「三百秒よ」
能力の完全開放にかかる時間だ。そう告げる魔女の名はハバネ。魔女の里の長であり、娘に匹敵するほどの長身だ。くるりと捻じれた茶色い髪を揺らしながら、赤いロングスカートを蹴りながらキビキビと前進する。
「わかってますって。その点だけは、エルディア様ってすごいですよね」
魔眼の第二形態はその親子だけの特権だ。そのすごさに感心しながらも、サンドラは前だけを見据え、里長と肩を並べる。腕と足が全て露出するほどにはコンパクトな身なりだが、だからこそ腰の片手斧が異常に目立つ。
負けられない戦だ。それをわかっているからこそ、魔女の足取りに迷いはない。
一方、遥か遠くから戦況を眺める軍人達は、困惑を隠せずにいる。
居合わせた者達の中で、誰よりも彼らこそが危機感を覚えていると言っても過言ではない。
突如として現れた、全身黒づくめの魔物。それとは既に一戦交えており、その際の戦闘で部隊は壊滅的な被害を被った。
戦死者の数は十人。元が二十一人ゆえ、現状はジレット監視哨の防衛さえ困難なほどだ。最大戦力の隊長が無事であることが唯一の救いだが、この状況には息を飲むしかない。
「さて、どうする……か」
焦げたような茶色いズボンは軍服であり、上半身は灰色の軽鎧で武装している。アフロほどではないが、ふっくらとした茶色い髪の持ち主は、部隊を率いるガダム・アルエ。威厳を持ち合わせていないわけではないのだが、その態度はどちらかと言えば内向的でさえある。
この男は第三先制部隊における頂点だ。その実力は隊長という肩書に相応しく、部下二十人と同時に手合わせしたとしても、汗一つかかずに負かせてしまうほどだ。
つまりは一騎当千の軍人であり、だからこそ、その役職に収まっていると言えよう。
そんなガダムでさえ、提示された複数の選択肢に頭を抱える。
ウイルとパオラを見捨て、ここから立ち去るか。
部下には周囲の警戒を任せつつ、ウイルに加勢するか。
現状はどちらかを選ぶしかない。
残念ながら、どちらも不正解だと悟っているからこそ、この男は冷や汗を流している。
逃げようものなら、軍人として心が折れてしまいかねない。ウイルという有望な傭兵を見捨てるのだから、祖国を守るという強い信念は再起不能だ。
対して、黒い魔物に再戦を挑もうものなら、それこそ命がいくつあっても足りない。前回の勝利は仮初であり、言ってしまえば偶然の産物だ。ミスリル製の鎧がなければ、間違いなく殺されていた。その上、部下達の犠牲があったからこそ、あれに手傷を負わせることに成功した。
二度目などない。一品物の鎧を失った以上、ウイルへの加勢は単なる自殺行為だ。
ガダムは臆病知らずな軍人ながら、今回ばかりはここから動けない。死ぬことが怖いというよりも、参戦したところで足を引っ張るだけだとわかっており、だからこそ、部下に指示を出すことすら出来ずにいる。
「隊長、魔女が……動き出しました。どうやら、あの魔物を迎え撃つようです。我々は……」
橙色の髪を肩まで垂らした女軍人が、指示を仰ぐためにも戦況の変化を報告する。凛とした表情は今だけは困惑しており、それは他の四人も同様だ。
「そう転ぶのなら話は別だ。奴らがウイル君と互角かそれ以上の実力者だと仮定するのなら、勝ち筋は見えてくるかもな。今は待機で戦況を見守る。ただし、周囲の警戒は怠るな」
ここは魔物の生息域ゆえ、敵は黒い化け物だけではない。ジレットタイガーのような足の速い猛獣や、進軍中の巨人族が現れる可能性が高く、呆けながら観戦していては背後から食い殺されるだけだ。
ましてや、この場は三つのグループに分かれている。
木々を背に固まっている第三先制部隊。
にらみ合う傭兵と謎の魔物。
そして、原野の中心にはエルディアとパオラ。
無傷の魔女二人がウイルの元へ移動中だが、彼女らはもう間もなくたどり着く。
ガダム達の軍務は祖国を防衛することだ。巨人族や魔女の討伐がそれに繋がるのだが、国民を守ることも非常に重要だ。
ウイルとパオラ。この二人を無事連れ帰ることを念頭に置くのなら、今は警戒しつつも客席から見守るしかない。
加勢という選択肢はありえるのか。
自分達だけでも撤退すべきか。
その判断は、彼らの実力次第だ。。
その一人が、誰よりも小さなこの傭兵。灰色の髪も、白茶色の庶民着も、あらゆる箇所が血だらけだが、戦意に陰りは見えず、鬼の形相で真正面を睨みつけている。
「絶対に許さないからな」
殺意で空気を歪ませながら、ウイルがスチールダガーを構える。その動作に迷いなどなく、むき出しの刃は少年の心そのものだ。
エルディアを悲しませた罪を償わせる。そう意気込み、わずかに腰を落とすも、眼前の魔物は余裕そのものだ。笑みすら浮かべ、見下すように語りかける。
「やっぱりニンゲンって最高。探せばいっぱいるようだし? 遊び相手にもなってくれるし。ほ~んと、退屈しないで済むわ」
数の上では劣勢なのだが、それでもこの魔物は怯むことを知らない。負けない自信があるからだが、人間という種族を獲物としか思っていない証拠でもある。
そんなことはお構いなしに、少年は歯を食いしばりながら力み始める。今すぐにでも殺したくて仕方がない。既に我慢の限界であり、自分達同様に言葉を話す相手であろうと、その首を切り落とすことに迷いなどない。
そんな中、鈴のような声が心に直接語り掛けてくる。
(待って。こいつには見覚えがある。それに……)
声の発生源は白紙大典だ。姿は真っ白な本でしかないのだが、人間のような意思を宿しており、それどころか悠久の時間を生き延びている。
その正体を知る者は少なく、ウイルを筆頭に数える程度か。
(会ったことがあるの? く、一先ず落ち着かないと……か)
(うんうん、偉い偉い。そういうところ、ハクアも見習ってくれないかな)
忠告に耳を傾け、傭兵はゆっくりと殺意を萎める。眼前の魔物を許したわけではなく、もちろん殺すつもりでいるのだが、それは白紙大典の話を聞いてからでも遅くはない。
(ハクアさんは冷静な女性だと思うけ……、いや、そんなことはないな)
(うん、まぁ、その話題は置いとくとして……。千年前の戦争でも見かけた奴だよ)
(え、巨人戦争にも出現したってこと? どういう……)
巨人戦争。イダンリネア王国の建国に関わる、大規模な争いだ。人間と巨人族が存続をかけて長年戦い続けたのだが、今を生きる王国民にとっては絵本の中の出来事でしかない。
(わからない。だけど、今だからわかることもある。こいつの気配……、あの女に少し似てる!)
(あの女ってどっちのこと?)
(セステニア)
(ふーん、そっちのことは何も知らないから、どうでもいいかな。ようは注意しないといけないってこと?)
白紙大典が発した名前は、ウイルにとって赤の他人だ。実際にはそんなことはないのだが、名前を呼ばれなかった方にこそ関心を抱いている。
ゆえに、動揺することもなく、冷静に聞き耳を立てながら黒い魔物を観察可能だ。
「ここにいるニンゲン、ぜ~んぶ殺しちゃってもいいのよね? あぁん、この世界って本当に素敵! 主には感謝! さ~て、急に動かなくなっちゃったけど、どうしちゃったのかな? 私のこと、そんなに怖い?」
太い脚を交差させ、腰に手を当てながら、黒い顔が人間を見下す。その風貌はまさしく大人の女性そのものだ。色気さえ漂う美人と言っても過言ではない。
挑発行為であり、死刑宣告でもあるのだが、今のウイルはどこ吹く風だ。無視しているわけではないのだが、優先順位としては頭の中の彼女が上回る。
(相当に手ごわい相手だよ。あの時は王がいつものように片づけちゃったけど、ここには実力者が一人もいない。逃げてもいいと思う。ううん、そうするべきかも)
(僕とエルさんでもダメ?)
(多分ね。グラウンドボンドがあるんだから簡単に逃げられると思うけど……、どうする?)
(わかってて訊いてますよね、それ)
(うん。意地悪しちゃったね)
無意味な問答が終わる。やる気を沸騰させた理由は逃亡のためではなく、戦うためだ。ならば、アドバイス自体はありがたいが、敵に背中を見せるつもりなどない。
改めてわかったことは、一つ。
眼前の魔物は強敵だ。そんなことはジレット監視哨の軍隊が半壊したことが物語っており、ウイルとしても本来ならば逃げ出したい状況だ。
しかし、そうしない。
エルディアの涙は黒い魔物がきっかけだ。ならば、許せるはずもなく、裸のようでそうではない眼前の化け物を、殺すことで解決を試みる。
出来るか否か、そんなことは関係ない。
そうしたい。
ならば、少年は前へ進む。欲張りな性格ゆえ、願ってしまった以上、得られるまでは足掻くつもりだ。
殺気を宿し、再度短剣を構える。それを合図に一対一の攻防が始まるはずだったが、その機会はまたも奪われてしまう。増援が現れた以上、無視するわけにはいかなかった。
「お邪魔するわよ。ウイル君、私達も混ぜてくれないかしら?」
「ういーっす。そういうわけだから、よろしくー」
背後からの声は二人の魔女によるものだ。
ハバネとサンドラ。どちらの魔眼を宿しており、眼光は獲物を鋭く捉えている。
「ニンゲンの方から来てくれるなんて。手間が省けてうれしい。ちゃ~んと、狩ってあげる」
ほくそ笑むその姿は、既に勝者のそれだ。黒色の魔物にはそれだけの自信があり、対戦相手が増えようとも怯みはしない。
「そう。言葉を話すのね。ウイル君、こいつについて何か知ってる?」
「ええ。つい先日、監視哨を襲って暴れまわった強敵です。僕やパオラとも多少なりとも因縁がありますが、こうして出会ったのは初めてで、どんなもんかはこれから学ぶしか……」
つまりは未知の魔物だ。千年前にその姿を確認されたのだから新種ではないはずだが、未解明なことに変わりはない。
「里長の敵じゃありませんって」
「そう思いたいけど、出力が上がりきっていない以上、焦っちゃダメ。油断だけはしないように」
鼻息荒いサンドラとは対照的に、年長者は冷静だ。
魔眼第二形態。ハバネとエルディアだけが使える奥の手であり、その効果は身体能力を別人のように高めてくれる。それ以上でもそれ以下でもないが、その効果は絶大だ。強くなれるだけではあるが、殺し合いにおいてはそれが勝敗を分かつ。
もっとも、第二形態は能力解放に時間を必要とする。
エルディアの場合、上限の三割までに三十秒かかってしまうが、母親はその十倍だだ。その点においては娘に才能があるのかもしれないが、限界値はハバネに一日の長がある。
「わかってます。坊主、とりあえず三人でいくよ。あ、疲れたら大人しく下がってもいいぞ。最終的には里長がやっつけてくれっから」
「第二形態ってやつですね。了解です」
作戦会議はあっさり完了だ。もとより即席のチームゆえ、連携の類は当てにならない。数の上では勝ったのだから、魔物の力量を図りながら最善を尽くす他ない。
「ほ~ら、かかって来なさ~い。それとも、ワタシからやっちゃおう……かな!」
獲物を前に舌なめずりで終わるはずもなく、長身はそこからいなくなると同時に、黒い疾風となって少年を蹴り飛ばす。
(ぐう⁉)
(速い……)
(うっそだろ⁉)
油断などしていなかったのだが、魔物の速度が想定を上回っていた。
その結果、ウイルは地面と平行に吹き飛ばされるも、残された二人は呆けている場合ではない。
敵は目の前に立っている。一人目を排除出来たことにどこか満足気だが、その姿に隙など見当たらない。
そうであろうと迎撃は必須だ。虚を突かれてしまったが、自分達は無傷な以上、二人は相手を挟み込むような立ち位置から攻撃を開始する。
拳を打ち込むハバネ。
斧で斬りかかるサンドラ。
どちらかが黒い表皮を傷つけるはずだったが、当然のように失敗に終わる。闇色がそれ以上の速さで立ち位置をずらしたのだから、当たるはずがない。
そうであろうと彼女は勝機を見出す。里の誰よりも優れた動体視力が、その軌跡を捉えることに成功したからだ。
(これなら……!)
追撃は可能だ。一手目が避けられただけで諦めるほど、ハバネは若輩者ではない。追いかけるように距離を詰め直し、両腕の拳を休みなく胴体へ叩き込む。
呼吸すらさせないほどの連打だ。実際には魔女の方が無呼吸で殴りかかっているのだが、黒色のサンドバッグは虚を突かれたように動けずにいる。
「その程度~?」
動けないのではなく、動く必要がない。それを裏付けるように、黒い魔物は散々殴られた状態ながら、鬱陶しそうに魔女の片腕を掴んで笑う。
無傷だ。痛そうな素振りすら見せていない。それどころかハバネの手首を握りつぶそうとしているのだから、形勢はあっさりと逆転だ。
「つぅ、この馬鹿力は娘以上か。サンドラ!」
「わかってます! ウォーシャウト!」
一対一にこだわる必要などない。そう主張するように部下へ指示を出し、窮地からの脱却を図る。
短髪の魔女から放たれたプレッシャーの正体は、戦技によるものだ。それは周囲へ伝播しながら黒い魔物を即座に飲み込む。
ウォーシャウト。戦術系ないし守護系の人間が習得する、相手から十秒間だけ自由を奪う催眠術のような戦技だ。受けた者は攻撃対象を発動者に限定されるため、今回の場合、ハバネの腕はへし折られずに済む。
「そうそう、これこれ。ニンゲンって工夫しながら戦うよね~。それって楽しいの?」
「勝つための戦法……よ!」
魔物は顔をしかめながら掴んだ手首をつまらなそうに手放すも、女はこの好機を見逃さない。自身が狙われる心配がないのだから、ここからは一方的な攻撃が可能だ。
握り拳を作り、右腕に大きく力を籠め、振りかぶるように殴りかかる。予備動作を含めて大袈裟な仕草だが、頑丈な相手を破壊するためには必要な手順だ。中途半端な打撃が通用しないとわかった以上、強烈な一撃で応戦せざるをえない。
ドシンと鳴り響く重低音は、彼女の右手が魔物の頬を殴った際の衝突そのものだ。手応えとしては申し分なく、その証拠に黒い体は大きく仰け反っており、そのまま意識を失ったとしても不思議ではない。
そんな甘い考えは、殴られた側が一瞬にして霧散させる。
「まあまあって言いたいけど、やっぱりこの程度なんだ~。気を付けるべきは、刃物だけ……ね」
ハバネの戦果はわずかな出血のみだ。それすらも相手の口内を切っただけであり、軽傷とすら呼べない。
魔物は冷静に姿勢を立て直し、誰よりも高い身長で威圧的に二人の魔女を見下す。
この個体は、先の戦いで既に学習済みだ。ジレット監視哨で多数の人間を狩れることに歓喜するも、別格の強さを誇る軍人相手に油断し、その挙句に右腕を深々と斬られてしまった。精鋭の第三先制部隊を半壊させたのだから上々の出来だが、当人は己の不覚を心底悔やんだ。
剣の類には警戒が必要だ。いかに黒い皮膚が丈夫であろうと、それ以上の刃物が存在すると身をもって学んだ以上、素手のハバネには殴られても構わないが、サンドラの手斧には注意を払う。
(なんて化け物……。既に第二形態を二割も開放しているというのに。最大解放までしのげるか、どうか……)
娘さえ圧倒するハバネですら、お手上げに近い。魔眼第二形態の最大解放はまだ遠く、勝利条件を満たすよりも先に殺されてしまう可能性が脳裏にちらつく。
もう一人の魔女も体の震えが止まらない。里長の実力は誰よりも理解しているつもりであり、その打撃は娘のエルディアでさえ卒倒するほど。巨石すら砕くはずの拳が一切通用しないのだから、弱者は命の危機を感じ取ってしまう。
サンドラの抱いた恐怖心。それは魔物にとって最大の好物だ。ゆえに見逃すはずもなく、黒い巨体は目を細めながらも真っ赤な瞳で獲物に狙いを定める。
既にウォーシャウトは効果切れながら、魔物は目を見開くと同時に飛び掛かり、避けるという余地すら与えず、片手斧を握る右腕を手刀で切り落としてみせる。
「しまっ……」
ハバネが驚いた時にはもう遅い。
部下は既に手遅れだ。利き腕を失ったのだから、戦闘の継続は不可能なばかりか、今すぐにでも手当が必要だ。
もっとも、敵は凶器の排除に満足しつつも、眼下の人間に対しとどめを刺そうとしている。刃物に模した拳を解きほぐし、今度はその首をもぎ取る算段だ。
「ウォ、ウォーボイス!」
だが、その試みは阻止してみせる。それを阻害する戦技をハバネが発動した以上、魔物は眼下の獲物を見下ろすことしか出来ない。
「な~に~? アンタもそれ使えるわけ? めんどくさ~」
正しくは別物だ。
ウォーボイス。魔防系が使用可能な戦技であり、効果はウォーシャウトと変わらない。一度に縛れる対象の数が異なっており、こちらは単体にのみ適用される。
そういった事情は使われた側には些細な問題ゆえ、魔物はつまらなそうに振り返りながら、殺す順番を変更する。
「サンドラは逃げなさい……」
「うう、さ、里長……」
これから十秒間、黒い巨体はハバネだけを狙い続ける。
ならば、戦闘不能のサンドラにとっては好機だ。この時間を避難のために使えるのだから、足手まといらしく指示に従うべきだろう。
右腕の切断面は、蛇口のように血液を吐き出している。その事実も去ることながら、その激痛は彼女の意識を混濁させるには十分だ。
もっとも、魔物も苛立ちを隠せずにいる。同じ手口ながら二度も邪魔されたのだから、人間への憎悪は膨らむ一方だ。
「ふん、どっちにしろ殺すだけなんだから、イライラしてても仕方ないか」
そう自分に言い聞かせる理由は、冷静さを取り戻したいからだ。
先の敗北から、人間全てが弱者でないことも学べた。ならば、今回は失敗しないよう、落ち着くことから着手する。
この世界は楽園だ。そうであることに気づかされたのだから、早々の脱落など受け入れがたい。真面目に戦えば負けるはずがないのだから、楽しみながらも不安要素だけは排除するよう心掛ける。
そういった魔物の変化は、魔女にとって脅威そのものだ。ただでさえ強い相手が、一切の揺さぶりに動じてくれない。
つまりは活路を見出すことが出来ない。
ならば、待っているのは己の敗北だけだ。
(ま、まだ百秒以上もかかるのに……。このままじゃ)
殺されるだろう。彼女の魔眼第二形態は最大出力に三百秒を必要とする。現在はまだ道半ばゆえ、身体能力は順調に高まっているのだが、それでも眼前の脅威には遠く及ばない。
今のままでは、殺されてしまう。
この状況は目測を誤った結果だ。相手は時間稼ぎすら出来ない化け物であり、そのことを今知ったところで、完全に手遅れだ。
「不思議よね~。ニンゲンに恨みなんかないけど、殺したくて仕方ないの。だ・か・ら~、思う存分狩り尽くしちゃう」
魔物達にとっても、人間への殺意は説明出来ない。誰かから命令されたこともなければ、そうせざるをえない背景があるわけでもない。
なんであれ、人間は狩りの対象だ。
なにより殺すことが楽しいのだから、内から湧き出る衝動について考察する必要などない。
本能に従い、先ずは赤い服を着た人間の排除に取り掛かる。一歩、二歩と距離を詰めれば、そのための準備はあっさりと完了だ。
(いっそ刺し違えてでもか……)
里長として、自身の死を予感しながらも部下達を思いやる。
しかし、それすらも困難だと察しており、抱く感情は絶望一色だ。
現時点では、一切傷つけられない黒い肌。
工夫だけでは埋められない速度差。
ゆえに、敵うはずもない。
逃げることすらままならない。
ならば、この状況は詰んでいる。それを証明するように、魔物は美しい顔をほころばせながら人間を見下す。
「はい、終わり~」
あえて悠然と歩き、向き合うように距離を詰め終える。後一歩足を進めば、真っ赤なロングスカートの内側に足を差し込めるほどの間合いだ。
勝利を宣言したのだから、後はその右腕を振り下ろすだけで良い。そうすることで、一人目の抹殺は完了する。
そのはずだった。
その瞬間、血生臭い戦場に一筋の風が巻き起こる。殺意をまとった小さな体は、復讐のために漆黒の強風となって獲物へ襲い掛かる。
「必殺……」
阻止するように。
邪魔するように。
目にも止まらず斬撃が、魔物の体にまとわりつく。
耳を覆いたくなるほどの、甲高い騒音。それは一度きりのようでそうではなく、瞬きほどの間に数え切れないほど鳴り響いた。
「ヴィエン・サレーション……。くぅ、す、すごい……」
斬りかかり、勢いそのままに追い越すと、小さな傭兵は立ち止まりながら振り返る。
血だらけなその顔は幼いながらも、歴戦の狩人だ。しかし、今は得られた手応えに驚きを隠せずにいる。
すれ違いざまの連続斬り。どんな魔物すらも屠ってきた自慢の技術ながら、今回ばかりは相手が悪かった。
「驚いたぁ、生きてたんだ~。くっさい内臓をぐちゃぐちゃに出来たと思ったのに。とびきり小さい癖に、頑丈なんだね~」
「その言葉、そっくりそのままお返しします。スチールの刃が通用しないなんて……。う、刃こぼれしてるし……。ズタズタだ」
魔物の凶行を中断させることに成功するも、ウイルは二つの意味で落胆せざるをえない。
愛すべきスチールダガーでは、鱗のような黒い表皮に傷一つつけられなかったこと。
なにより、最も高速な初手、すなわち首を切り落とすための最初の斬撃を腕で防がれたことが自信の喪失に繋がる。
その後もその腕を中心に、柔らかそうな腹や胸に連続切りをおみまいするも、その全てが刃こぼれを誘発するだけに終わった。
さすがに想定外だ。手持ちの武器で殺せないのなら、少年としても顔をしかめる他ない。
対して、魔物は誘惑するように語りかける。
「こいつらよりは遊び相手になってくれそうね~。だ・け・ど、ニンゲンはまだまだいることだし、さっさと殺しちゃう。抵抗するだけムダよ? やさしくなんてしてあげられないけど、大人しく死になさ~い」
標的を変更し、一歩を踏み出すその姿はこの場の誰よりも長身だ。子供のようなウイルに視線を向ければ、自然と見下ろすことになってしまう。
(エルさんより強いお母さんが押されるわけだ。このままじゃ全滅しちゃうぞ……。僕だってさっきの蹴りで満身創痍だし……)
決して無傷ではない。かつての相棒との模擬戦にて出血はすさまじく、あちこちが悲鳴をあげている。
その上、眼前の魔物から受けた一撃が決め手となった。致命傷ではないが、肋骨が数本折れた以上、短期決戦が望ましい。
本当なら、逃亡以外ありえない。
それでもそうしない理由は、目の前の敵を許せないからだ。
エルディアに涙を流させた以上、許せるはずもない。
だからこそ、諦めない。
逃げもしない。
少年は倒すための準備に取り掛かる。
「グラウンドボンド」
その詠唱を呼び水に、魔物の足元に黄色い輪っかが描かれる。それが縮まり点となって消滅すれば、黒い脚はそれ以上前へ進めない。
「へ~、すごいすごい。格上のワタシにそんな魔法当てられるなんて、奇跡みたいだね~。でもさ、なんの解決にもなってないの、気づいてるよね~? この後、どうするのかな~?」
黒い顔は一瞬驚くも、人間を嘲笑う。下半身はピタリと止まってしまったが、焦る必要などないからだ。
弱体魔法のグラウンドボンドは最大三十秒間、相手をその場に縛ることが可能だ。魔法の成否と効果時間は彼我の実力差に依存する。つまりは、格上相手に使ったとしても、失敗するかほんのわずかな時間しかその効果を発揮しない。
だからこそ、魔物は不敵に笑う。
「エルさんのお母さん、回復魔法は?」
ウイルは落ち着きを取り戻す。もとより混乱などしておらず、今すべきことに優先順位を付けることから着手する。
「使えないわ。私は魔防系、サンドラは戦術系なの」
「そうですか。だったら……」
次の一手は明白だ。
この場にいるのは、三人と一体。その内の一人でもある短髪の魔女は、右腕を切り落とされ、苦悶の表情を浮かべている。額の脂汗は止まることを知らず、彼女自身も血の池に膝をついて立ち上がることすら出来ない。
手当が必要だ。回復魔法か錬金術によって作られた薬品があれば事足りるも、この場には両方が不足している。
ゆえに、ウイルは歩き出す。迫っていた魔物を無視するように、先ずは地面に横たわる右腕から拾う。
「何をするつもり……?」
ハバネとしてもそう訊ねるしかない。傭兵の思考を読み解くことは出来ず、危機的状況においてその行為は全くの無意味だ。
そのはずだった。
「よいしょ。あっちの軍人さんの中には魔療系がいるでしょうから、この人を届けて来ます」
ウイルは赤い水たまりに足を踏み入れ、落とし物を持ったまま、ゆっくりと負傷者を抱きかかえる。
その言動は敵前逃亡だが、そうではない。どう違うのかを、これから実演する。
「グラウンドボンド。では、行ってきます」
「は、離しやがれ。お、おい!」
「え、ちょ⁉ 待ちなさ……」
二度目の足止めを当然のように成功させつつ、傭兵は大きな荷物を抱えてその場から走り去る。
その行動が二人の魔女を困惑させるも、黒い魔物はそれ以上の混乱だ。
そんな中、ウイルはあっという間に軍人達の元へ負傷者を送り届ける。大声すら届かないほどの遠距離だったが、彼の脚力をもってすればあっという間だ。
「すみません、この人の手当をお願いします。あ、見ての通り魔女ですがご安心を。悪い人じゃないです。それじゃ」
少年は切断された右腕とその持ち主を降ろしつつ、要件だけを手短に伝え、来た道を走って戻る。
当然ながら、輸送されたサンドラと残された軍人達は大口を開いて硬直中だ。沈黙は理解が及ばないことの裏返しであり、その一言は混乱しているからこその名言だ。
「わ、悪い魔女じゃないよ……」
「お、おう……」
隊長のガダムが皆を代表して反応するも、心なしか気まずそうだ。
この空気を作り出した張本人だが、既にこの場にはいない。戦場には倒すべき敵が残っており、今からその相手をしなければならない。
「お待たせしました。さて、どうしましょう……」
勇んで戻ったものの、ウイルは困り顔だ。魔物の拘束と負傷者の救助には成功したが、次の一手に欠けている。
つまりは、このままでは倒せない。手詰まりな状況から抜け出すには、新たな武器が必要だ。
(あ、マジックバッグにすごいのが入ってたっけ。だったら……、うん、勝てる)
遠くで見守るエルディアとパオラの足元には、色褪せた鞄が転がっている。その中にはスチール製の武器を上回るミスリルソードが収納されており、その刃なら眼前の敵を倒せるはずだ。
ジレット監視哨でそのことは証明されており、この魔物が刃物を警戒する理由そのものと言えよう。
「私に二度も弱体魔法を……。だけど、次はどうなるかしら……ね。そもそも、これに何の意味があるのかわからないんだけど~」
強がりなようで、そうではない。この発言は真実を言い当てており、ウイル達の延命行為はただただ不愉快なだけだ。
(累積魔法耐性……。確かに、次は失敗するかも。それでも、一先ずやるしかない!)
人間と魔物の間には、様々な違いが存在する。その一つが累積魔法耐性の有無だ。弱体魔法にのみ適用されるルールであり、魔物の体はグラウンドボンドの類を複数回受けると、一時的だが免疫を持ってしまう。
対して、人間にはそのような防御機構が存在しない。
異形だけが持つ特権と言えよう。
どちらにせよ、躊躇だけはありえない。時間を作る必要がある以上、少年は魔力をまといながら詠唱を開始する。泡立つ発光現象は、魔法の予兆そのものであり、そのための時間はきっかり一秒だ。
「グランドボンド。ど、どうだ……?」
その心配は杞憂に終わる。地面に描かれた黄色い円は、標的の真下でピシャリと点へ収縮してみせる。
その様子を見届け、ウイルは嬉しそうに拳を握るも、頭の中の彼女は呆れるようにつぶやき始める。
(あったりまえじゃーん。君達が戦ってくれてハッキリしたけど、こいつたいしたことないよ。だったら、私の魔力なら累積魔法耐性もなんとかなるって。もっとも、後数回が限界だろうけどさー)
ウイルの魔法は白紙大典という謎の古書を経由して発動する。魔源の消耗は少年が肩代わりするも、成否を左右する魔力の参照先は彼女であり、だからこそ、三度目の弱体魔法が成功したのも偶然ではない。
(たいしたことないって……。めちゃくちゃ強いですよ?)
(いやいや、こんなのに苦戦してるようじゃ、あいつには一生勝てないよ。やっぱり、努力が足りてないねー)
(むぅ、そうですか……。精進します……)
辛辣な言葉が彼女から述べられるも、少年はめげない。自身に才能がないことはわかっており、だからこそ愚直に鍛錬を続けている。その成果が今の実力だが、エルディアという目標を越えてもなお、合格点はまだまだ先のようだ。
(まぁ、鞄から武器取ってくれば勝てるっしょー。がんばってね)
(はい。さてさて……)
時間稼ぎの延長が成功したのだから、落ち着いて事を運ぶ。
ここにはウイルと謎の魔物以外にもう一人。あふれ出る闘気を隠そうともせず、湯気のような何かをまとっている魔女が静かに精神を研ぎ澄ませている。
「あのう、エルさんのお母さんはさっきから何を?」
「魔眼第二形態を解放中。ねえ、質問があるのだけど」
「何でしょうか?」
「その魔法で、もう一回くらいはこいつを縛れそう?」
彼女には時間が必要だ。最大出力までにはきっかり五分かかってしまうのだが、ここまでの戦闘と三度のグラウンドボンドがゴールラインを視野に捉えてくれた。
「多分、大丈夫です。グラウンドボンド」」
「そう、すごい魔力の持ち主なのね。あ、いえ、真っ白な本のおかげだったかしら?」
三十秒毎の拘束が四度目の更新を迎える。
これには魔物も苛立ちを隠せない。無意味な時間稼ぎにしか思えないのだから、戦いで得られた多幸感は消え去ってしまう。
「ニンゲン……、狩られるだけの弱者が! 絶対にコロス!」
空気を凍らせるほどの殺気が、怒声と共にウイルとハバネを飲み込むも、二人はどこ吹く風だ。
「ここからどうするんですか? 僕はそろそろ、あそこのマジックバッグから武器を取って来たいです」
「その必要はないわ」
そう言い切る魔女だが、嘘でもなければハッタリでもない。彼女の準備は、もう間もなく完了する。
「う、これは……?」
桁違いの重圧が、傭兵を驚嘆させる。
発生源は魔女そのものであり、茶色の長髪も、真っ赤な衣服もハラハラと踊っている。
それだけではない。肌の色がじわりじわりと変色し始め、薄桃色から薄紫色に塗り替わる。これを合図に、変化は一旦終了だ。
「待たせたわね。これが私の第二形態。娘よりも時間はかかるのだけど、出力は私の方がずっと上よ? 母は強しってことかしらね?」
(年季の違いでは……、とか言うとものすごい力で殴られそうだから、黙ってよう……)
少年の推測が正しいかどうかは本人達にもわからない。
どちらにせよ、準備は整った。
ウイルですら感心する力強さは、明らかに別格だ。外見的な変化は肌の色だけだが、まとう闘気は別人のようにさえ思える。
超越者。傭兵の脳裏にこの単語が思い浮かぶも、正しくないことをウイル自身がわかっている。
この強さの源は魔眼だ。第一段階が個人毎の不思議な異能であり、この時代で次のステップへ進めたのは眼前の母親とその娘だけだ。
魔眼、第二形態。ただただ単純に、身体能力を向上させる不思議な能力。その強さがそれほどかは、この魔女が今から実演する。
「終わらせます」
「フン、よくわからない能力だけど、だから何?」
事情を知らぬ者の真っ当な反応だが、次の瞬間に思い知る。
未だ動けぬと言っても、両脚が固定されているだけゆえ、他の部位は稼働可能だ。
そうであろうと関係ない。その打撃は顔面を砕く勢いで黒い左頬に打ち込まれる。
「ゲハッ⁉」
「まだよ!」
意識を刈り取るほどの痛打だ。巨躯がよろめくのも無理はない。
しかし、鬼気迫る魔女に攻撃の手を緩めるつもりはなく、覆い被さるように身を寄せながら、二つの拳で魔物を殴り続ける。
グラウンドボンドから解放された後も連撃は続き、その結果、黒い体は痛々しい姿を晒しながら大地にめり込む。
(すごい……。エルさんのパワーアップもすごかったけど、この人はそれ以上だ。スチールダガーですら傷一つつけられなかったっていうのに、パンチだけで……)
ウイルもこの状況には舌を巻く。
手も足も出なかった強敵が、今は指一つ動かせないほどに虫の息だ。
妖艶は顔面はくぼみ、右肩と左腕は潰れ、腹部さえもへこんでいる。頑丈さは鋼鉄以上なのだが、今は見るも無残な姿だ。
「ふう、お姉さんにかかればこんなもんよ」
(あ、この言い回し、エルさんそっくり……。さすが親子。おばさんでしょ、とか言うと殴られるんだろうな……)
ゆえに沈黙が正解だ。そんなことを考えながら、傭兵は勝者と敗者を見比べる。
依然として、ハバネからは突風のような闘気が拡散しており、軽口を叩きながらも眼下のそれを警戒している。
一方、黒い魔物は地面に叩きつけられ、もはや体を起こすことさえ叶わない。踏み潰された昆虫のように弱っており、放ったとしてもそう遠くない内に死に絶えるはずだ。
(周囲の魔物はこいつだけ。だったら、このチャンスを見逃すわけにはいかない……!)
ウイルの天技が感知する敵影は、死にかけのこれだけだ。森の中に足を踏み入れればジレットタイガーの類がすぐに見つかるだろうが、この平原には少なくとも見当たらない。
ゆえに、問いただす。せっかく言葉が通じるのだから、情報を引き出す絶好の機会だ。
「死ぬ前に教えてください。主って誰のことですか? そいつがおまえに、この地へ出向くよう指示したんですか?」
実は、ウイルにだけは予想がついている。正しくはこの少年と白紙大典だけが、黒幕の存在に気づけている。
「ぐ、ごほっ……。ワタシは……呼んでもらえた……だけ。主の名前さえ……、知らされて……ない」
「そいつの姿は? 顔と手足は人間で、体が炎だったり?」
少年の問いかけは、居合わせた魔女にとってあまりに奇妙だ。まるで当人を知っているかのような口ぶりゆえ、口を挟まずにはいられなかった。
「君は何を知っているの? まるで、これや背後関係に目星でもついているような……」
「いえ、そういうわけじゃ……」
曖昧な返答には理由がある。自信がないことと、なにより嘘を織り交ぜているからだ。
相手がエルディアの母親とは言え、全てを明かすにはまだ早い。
白紙大典を中心に紡がれた縁。その中に、黒幕の姿を感じ取れたと告げてしまっても良いのかもしれないが、その説明には立ち話では疲れるほどには時間を必要とする。
「ニンゲンが、これほどなんて……、聞いてない。ワタシ、知らされて……ない」
悔しそうに、苦しそうに、魔物は本音をぶちまける。既に己の死を確信しており、恨み言をつぶやく理由は遺言のようなものか。
「仇は取らせてもらったから、あとはウイル君に任せるわ。どうやら聞きたいことがあるようだし、ね」
里の長として彼女はやるべきことを果たしたのだから、第二形態を停止させ、普段の姿を取り戻す。ウイルの言動には引っかかりを覚えるも、ここに残れば質疑応答の中身を知ることが出来るのだから、疑問点は後から尋ねれば良い。
譲ってもらえたのだから、傭兵は頷くと同時に死にかけの魔物に視線を向ける。
「教えてくれ。おまえはどこから来て、誰に呼ばれたの?」
「そん……こと……知って……どうす……」
「大事なことなんです。奴がバックにいるのかどうか、僕は知る必要があるんです」
恐ろしくも美しかった面影はもう見当たらない。死体のようなそれは、壊れかけの機械のように唇を動かす。
「こ……世界……楽園……。だったら……、あそこ……」
「い、今はそれよりも、主が誰なのかを……」
「ニンゲ……もっと……殺し……」
意思疎通はもはや不可能だ。瀕死の魔物は思いついたことをつぶやくことしか出来ない。
目の焦点は合っておらず、耳も音を拾わない。覗き込む人間を無視するように、灰色の空を見上げ続ける。
「もっと……モット……全部……ぜん……ぶ? これ……ダレの……」
そして、それは黙り込む。息絶えたようにも見えるが、そうではない。何かに気づき、言葉を詰まらせただけだ。
そのタイミングで、いくつもの足音がウイルとハバネに届き始める。
「さっすがお母さん! ウイル君も大活躍だったねー」
「おにいちゃん、いっぱいはしってた」
現れたのはエルディアとパオラだ。親子のような二人だが、年の差を考えれば姉妹の表現が正しい。
「里長! お疲れ様です! 私の腕もこの通り!」
黄色いショートヘアーを揺らしながら、利発的な魔女が違う方向から駆け付ける。サンドラの右腕は元通りにくっついており、嬉しそうに左右へ振っている。
「まさか、そいつを倒してしまうとは……。ウイル君も去ることながら、魔女……、すごいのだな」
最後に、ガダムが部下を率いて合流すれば全員集合だ。
傭兵。
少女。
魔女。
軍人。
そして、彼らの視線の先には、物言わぬ魔物。黒い体は機能を停止しているが、つい先ほどまではこの場の誰よりも力強かった。
「おまえの主はいったい誰だ? せ、せめてこれだけでも教えて……」
ウイルは腰を落として問いかけるも、ゆっくりと立ち上がると悔しそうに天を仰ぐ。
それはもはや死体だ。胸部は膨張も縮小もしておらず、赤い瞳は微塵も動かない。
傭兵と魔物を視界に捉えながら、わずかに離れた位置から男が問いかける。
「主? 何のことだ?」
「こいつがそう言ってたんです。おそらくは、そいつの命令でここに来たんだと思います」
ウイルの返答は、軍人達にとっても想定外だ。言葉を話すのだから知能があるとは思っていたが、命令系統が整っているのだとしたら、考えを改めなければならない。
「だとしたら、巨人族とも繋がりのある、新たな敵ということもありえるのか」
ガダムの発言を、この場の誰もが否定出来ずにいる。巨人との戦闘経験は傭兵を上回ることから、信ぴょう性は絶大だ。
「そう……ですね。無事倒せたことで今は良しとしましょう。あ、ガダムさん達を前に今のは失言でした、すみません……」
「いや、構わないさ。第三先制部隊を代表して、礼を述べたい。ありがとう。魔女のお三方も……」
わかり合えたとは言い難い。それでも、軍人が傭兵だけにではなく、魔女にも頭を下げたことは歴史上ありえないことだ。
「こちらこそ、サンドラの手当をしてもらえたようで。ここはお互い様ということにしましょう」
ハバネは武装した軍人達へチラリと視線を向けるも、心の底から信用しているわけではない。
魔女にとって、王国軍は単なる脅威だ。魔物と大差ないと表現しても差し支えない。
「エルさん達はこれからどうされるんですか?」
マジックバッグを背負いながらそう訊ねるウイルだが、自身の予定も不明瞭だ。パオラを連れ帰らねばならず、健康面を考慮するのならこれ以上の滞在は避けたい。
それでも、エルディアとの再会が思考を鈍らせてしまう。
一秒でも長くいたい。
可能なら、どこに隠れ住んでいるのかも聞き出したい。
そう考えてしまうのは、単なるわがままか。
「うーむ、ミケットさんの体は……、きっと見つからないよねー?」
「残念ながら、さすがに難しいと思います。なにより、バラバラでしょうし……」
魔女三人の目的は、消えた同胞を連れ帰ることだった。それは黒い魔物によって打ち砕かれるも、頭部だけは回収済みだ。
首から下の探索は、不可能ではないが限りなく難しい。仮に見つけられたとしても持ち帰るのは困難だ。埋葬するという意味ではその価値はあるのかもしれないが、どちらにせよ、ミケットの首を持ち帰ってから考えれば良い。
「今回はここまでにしましょう。この人達は私達を見逃してくれるでしょうけど、それでも長居は厳禁よ。そうでしょう?」
ハバネは年長者として冷静だ。集団の先頭に立つ軍人に、再度目線を向ける。
「ああ。もちろん部下達も黙っててくれるだろうが、そう遠くない内に次の部隊が監視哨に補充される。それ加えてこれを倒せたことは上に報告せねばならない。そうすれば、ジレット大森林には大規模な調査が入るだろう。悪いが、すぐにでも立ち去ってもらえると、こちらとしてもありがたい。それと、この魔物は回収させてもらう。君達の仇なのだろうが、了承してもらえると助かる」
ガダムは魔女を前にしても臆することなく、事実を淡々と告げる。今日の出来事が感覚を麻痺させただけかもしれないが、珍妙なこの状況にも既に対応済みだ。
「そんなので良ければお好きにどうぞ。こちらとしてもやるべきことは、済んだから……。あなた達、帰るわよ」
「はい!」
「ほーい。ウイル君、そういうことだから、また今度ねー」
この地に集った、三つの勢力。
傭兵と軍人、そして魔女。正しくは一般人も混じっているのだが、その少女は超越者ゆえ、異物とは言い難い。
なんにせよ、出会いと別れは表裏一体だ。偶然と運命に引き寄せられただけなのだから、魔女は里へ、軍人は基地へ帰らねばならない。
ウイルもそれは同様だ。依頼人と共にイダンリネア王国を目指す必要があり、大きな後ろ姿を眺めながら、静かに顔を伏せる。
その時だった。
(え? 上から……、空から……、魔物の反応! まさか!)
見上げた時には、もう遅い。
それは既にウイルの後方へ降り立っており、それにも関わらず気配は何一つ漏れ出ていない。
無人のような存在感。それこそがこれを見つけられない最大の要因でもある。ジョーカーという天技はある意味で天敵と言えよう。
傭兵はゆっくりと振り返る。そこには本来ならば誰もいないはずだが、それは二本の足で嬉しそうに立っていた。
「マた少し、腕をあげたのかナ? ア、久しぶりだネ」
その瞬間、この場の空気が凍り付く。見知らぬ声が走ったのだから、誰もが驚いて当然だ。
そんな中、ウイルだけが苛立ちと共に殺意をたぎらせる。倒すべき相手が姿を現してくれたのだから、落ち着いてなどいられない。
全員の視線を集める、招かれざる異形。
四肢と顔だけは人間だ。女性であることは、妖艶な顔立ちとすらっと伸びる手足が物語っている。
それでも、これは決してウイル達の同類ではない。長い頭髪は轟々と燃えており、胴体に至っては火球そのものだ。
つまりは、体に見立てた火の玉に、それ以外の部位が添えられている。正しくはその付近に固定されているだけであり、結合部分を観察するとわずかに離れている。
「オーディエン! おまえだけは! おまえだけはぁ!」
少年は温厚さを手放し、激昂と共に有無を言わさず斬りかかる。
やっと出会えた。
時期尚早ながらも、出会えてしまった。
ならば、やるべきことは一つだ。
この魔物を。
この道化師を。
殲滅する。それ以外の選択肢はありえない。
絶対に殺す。
完膚なきまでに抹殺する。
ウイルにはそうしなければならない理由があり、この殺意こそが両者を繋ぐ絆そのものだ。
勝てるかどうかは、関係ない。
やらなければならない。眼前の敵はそういう存在だ。
一方、恨まれていると自覚しながら、それは少年の前に姿を現した。
負けない自信があるからか。
観客として、感想を述べずにはいられなかったのか。
挑発的な笑みからは読み取ることは難しい。鬼気迫るウイルを目前にしてもなお、その表情は決して崩れず、それどころかどこか満足気だ。
姿を現した災厄の道化師。
その名は、オーディエン。
この世界を滅ぼす、復讐の尖兵。